さて、8月16日に参戦することは確定しつつあるとはいえ。
果たして、どの対バンに参戦するのがベストなのかという。
筆者の場合は、総合的な幸福の度合いで決定している。
もちろん、推しのために足を運ぶという使命感に似る感覚も大事だ。
しかし、それは結局巡り巡って自分自身のためだからこそ。
相対的に表面的な自己満足と同等に議論できると考えている。
それはさておき、この日をなぜ選んだのかというと。
帰省明け最初という個人的な事情もあるが。同日対バンがあまりにも多い。
しかも、どれも名の知れた対バンだからこそ。穏やかじゃいられないわね。
まずは渋谷O-EAST。今夜はアナタのフェス主催で、12組出演。
出演組数では確かに一番少ないものの、明らかに強いアイドルが集まっている。
純粋にDDだけであれば検討対象にすら入らないが。
現場をも重要な判断材料としているからこそ、極めて有力な対バンである。
この日は動員が各グループ単位で分散すると考えられるからこそ。
如何に個々のグループとして沸き動員を獲得できるか。そう考えたときに。
FreeK系列は圧倒的に強い。しかも今回は見事に固めているからこそ。
…、といった記事を書こうと思ったものの。やはり帰省とは外部イベントの多い時期だ。
内容を一転させて、かつタイトルを変えない内容へとシフトさせる。
昼下がり、妹ととある映画を観てきた。共に観たいと思っていた映画である。
予想に反して数式の量は少なく、その用法もまた不満な程度であった。
それって単なる数式モデルだよね? 時代の流れの恐ろしさをも痛感した。
数学という学術的要素をも、時代に、映画によって加工されてしまうのだと。
もしそんな現状を、彼の生きるその世界が映画として数十年後に放映されると。
もし彼が知ったら、果たしてどれほど絶望するのだろうか。
それこそ、数学で世界を救えないのだという儚さを再度痛感するのだろうか。
ただしかし、そんな映画でも一瞬だけ涙しそうになった。
彼が舩を測量し始めた頃の一言。この世界は全て数字で成り立っているのだと。
今や、物事の多くは数字無しでは説明は難しい。各専門用語の定義など特に。
数字とは、基本的な学業を済ませれば誰もが有する共通認識である。
故に普遍性が高い。常に客観的だからこそ、白銀比などに私たちは美しさを抱く。
捻じ曲がった、加工された意識に依存せず、嘘を吐かないからこそ。
そんな数字で舩という巨大な物体をも紐解く。彼の眼は輝いていた。
強く信頼を置くモノを以て、目前の課題にひたむきに取り組む。
たとえそれが否定されようと。打ちのめされようと。
その想いを良く評価するのは自分自身でしかないのだから。
説明し難い孤立に共感を覚え、涙を堪える私を見た。
数十分経ち、映画は終盤。鑑賞昨日目にした番組が想起された。
もちろん当時の愛国心は異常と言わざるを得ない。しかし、若干の同意は忘れたくない。
単純に対象が違うだけで、誰かのために自身を捧げる姿勢の美しさ。
今日までのブログに、自己犠牲心、という単語は何度か登場してきた。
愛する者のために、我が身を犠牲にしてまで世界を救えればという。
美談かもしれない。しかし、それでも、たった一人の存在如何で。
この世界が変わるのなら。戦争を止められるのなら。命など。
対バン終演に気付き、ふと我に返ると疲れ切っていることは何度もあった。
さすがに命を危惧するほどではないが、そんな行動は上記の思考故であろう。
結局、どんな理由で対バンを選ぶかという観点に帰着させると。
自分自身を捧げても構わないと思える「何か」が存在する対バンが選ばれるかと。
しかし、もはや現場視点ではそれは皆無に等しい。一般的な場合では。
現場玄人の戦線離脱は近日では顕著であり、そこに自己研鑽の美しさは無い。
それでも動員は不変、もしくは微増。では何を以て自己研鑽を見出すか。
過去の信念を忘却へ葬る愛が必要なのか。それでも、已然として壁は存在する。
多くを知るからこそ、一日を費やしても明確な答は出ない。
だからこそ、純粋な選定でいいような気がしてきた。たとえ、再び惨劇が見られようと。
世の中はそう簡単に変わらない。もはや、彼に似る眼差しを得ることなど。二度と。(1721字)