絶望の淵に立たされたとき、大抵は人によって救われることが多いかと。
人とは、自己とは異なる人無しでは生きてゆけない基盤に組まされた、生かされた生き物なのだから。
その中でも絆の深い、いや、想い入れの深い者との「それ」を、鎖と表現することからこの記事は始まる。
何かを諦めようとする瞬間に、鎖の存在を思い出すことになるだろう。
思い出す、ほどに忘れていなかろうと、感謝の念が湧き上がってくるなど、普段よりもいずれにしろ重要に思えてくるに違いない。
そして、何度も蘇ってくる鎖は、いつしか鎖の中でも無視できない存在となってくる。
ダイヤモンドルフィー。一夜限りの復活。(たぶん「一夜限り」のはず)
白石ゆのもまた昔推していた存在ではあったが、読者の中で気付かれた方がいれば素晴らしい。
藍川さゆ。まさか彼女が再びステージに立つ日が来るとは。
彼女への想いは、初めに記したような「鎖」と呼べるものと同等だと捉えている。
別に彼女からどう思われているかは置いといて、筆者が彼女を強く推している存在、だということだと思ってくれればいい。
アイドルを広く愛する筆者ではあるが、彼女を推していた時期は本当に楽しかったと思い返すのである。
彼女の限定的な復活を「過去からの刺客」と呼ばずして何と呼ぼう。
一度アイドルを辞めてアイドルを再開や復活する者はそれなりにいるが、ファン総じて喜んでいるとは言い難い。
現場の最前戦から離れることを強く決意した者などは特に快く思わないだろう。
それでもアイドルをすることを愛し、再びステージに立つ。それが仮にどれほど短期間であっても、「過去からの刺客」と呼ぶほどに現存しているアイドル、そしてファンを脅かす存在なのだと思っている。
とはいえ、今回のケースは筆者が再び推しに選定できるほどに長くステージに立つわけではない。
筆者がもし一般的な地下アイドルファンであれば迷い無く復帰させたのであろうが。
ただ、これには一応それなりの理由があるわけで。
第一に、遠い先までライブが無いこと。恒常的に活動している他の推しとは大きく活動実態が変わってくる。
次に、限定復帰ステージが普通の対バンではなく事務所主催なので。そこにDDである筆者の立ち入る隙など無い。
最後に、彼女が筆者を憶えていると仮定すると、そのライブに参戦しないことで少なからず悲しませてしまうはずなので。
どんなに強く愛している存在だろうと、最終的に悲しませてしまうのならばむしろ再会しない方が彼女のためである。
自己中心的に、他者が犠牲になっても構わないと考えるのならば、それこそ誰がための愛なのだろうか。(1079字)