最終決戦の、その後のこと。
すべての戦いが終わり、
白銀の魔法使いコユキだけが立っていたあの夜から、
どれほどの時が流れたのかはわからない。
けれど世界は確かに続いていて、
命はめぐり、
魂は新しいかたちでまた出会う。
――時は今。
剣も魔法も、
魔王も眷属も、
もう誰も知らない時代。
穏やかな朝と、
やさしい手と、
あたたかな部屋のある世界。
その家にはすでに、
二匹の猫が暮らしていた。
ひとりは、ひまわり。
六歳になる猫で、
明るく、まっすぐで、
家の中のいちばん日当たりのいい場所がよく似合う子だった。
毛並みはやわらかな光を含んだように美しく、
いつも堂々としていて、
初めて来た人にもまるで怖じることなく近づいていく。
窓辺に立てば、
まるで「この家はわたしが守る」とでも言いたげに外を見つめる。
もちろん本人にそんな自覚はない。
けれどその背中には、
かつて陽光の勇者として立っていた魂の名残が、
たしかに残っていた。
そして、もうひとり。
そら。
三歳の猫で、
ひまわりとは対照的に、
少し気まぐれで、
少し自由で、
思いついたらふらりと別の部屋へ消えていく子だった。
高いところが好きで、
棚の上や家具のすき間や、
「どうしてそんなところに?」と思う場所に、
気づけばいる。
そのくせ、
自分では一度も迷っているつもりがないらしく、
見つけられるたびに、
きょとんとした顔をしていた。
鋭く、
しなやかで、
遊びの最中でも相手の動きを読むのが異様にうまい。
猫じゃらしの軌道を見切るその目には、
空色の剣士だったころの気配が、
ほんの少しだけ宿っているように見えた。
そんな二匹が暮らしていたある日。
家の外から、
かすかな声が聞こえた。
ミューミュー。
小さく、
細く、
けれどどこか懸命な声だった。
もう一度。
ミューミュー。
窓の外。
ひまわりが最初に気づいた。
ぴくりと耳を動かし、
窓辺へ駆け寄る。
続いてそらもやってくる。
何事かと外をのぞきこむ二匹の視線の先にいたのは、
黒い子猫だった。
まだ小さい。
少しやせていて、
毛並みも汚れていて、
不安そうに鳴いている。
けれどその目だけは、
妙にまっすぐだった。
家の人はその声に気づき、
そっと窓の近くへやってきた。
「どうしたの?」
やさしい声。
黒い子猫は、
その声を聞いても逃げなかった。
鳴きながら、
ただそこにいた。
助けを求めるように。
けれど同時に、
どこかでその家を知っていたかのように。
ひまわりは窓の内側から、
じっと子猫を見つめていた。
そらはというと、
少し離れた場所から様子を見ていたが、
やがてゆっくり近づいてきて、
窓の向こうの黒い子猫と視線を合わせた。
一瞬だけ、
時間が止まったような気がした。
誰も前世を覚えているわけではない。
勇者だったことも。
剣士だったことも。
黒衣の僧兵だったことも。
そんなはずはない。
それでも、
魂というものが本当にあるのなら。
長い旅をともにした気配や、
命を賭けて背中を預けた相手のぬくもりを、
完全に忘れきれるものだろうか。
黒い子猫は、
また鳴いた。
ミューミュー。
その声に、
ひまわりは小さく返事をするように鳴いた。
そらは少しだけしっぽを揺らした。
家の人は、
そっと窓を開けた。
冷たい外気が入り込む。
けれどその隙間から、
黒い子猫は迷わず中へ入ってきた。
静かな足取りで。
けれどどこか安心したように。
その姿を見て、
家の人はやさしく言った。
「うちに来る?」
黒い子猫は逃げなかった。
抱き上げられても暴れなかった。
まるで、
ずっと前からその手を知っていたかのように、
力を抜いて身を預けた。
そうしてその子は、
家に迎え入れられた。
名前は、チョコ。
黒くて、
つやのある毛並みが、
ちょうど甘いチョコレートのようだったから。
こうして、
ひまわり、そら、チョコの三匹の暮らしが始まった。
最初の数日は、
さすがに少し距離があった。
ひまわりは姉のように堂々としていたが、
相手がまだ小さいことをちゃんとわかっているらしく、
無理に近づきすぎることはしなかった。
そらは気になるくせに素直ではなく、
少し離れたところから様子を見ては、
ふいに近づき、
またふらりと去っていった。
チョコはそんな二匹を、
静かに見ていた。
よく鳴く子ではなかった。
ひとたび家に慣れてしまうと、
驚くほど寡黙で、
気配を消すのがうまかった。
気づけば部屋の隅にいて、
気づけばひまわりの近くにいて、
気づけばそらが高いところから降りられなく……なってはいないのだが、
なぜか困った顔で止まっている場所の近くにいた。
家の人は笑った。
「チョコって、静かだねえ」
「ひまわりは面倒見がいいね」
「そらは自由だなあ」
そう、
三匹は少しずつ、
けれどたしかに家族になっていった。
朝は三匹で窓辺に並び、
外を眺めた。
昼は陽だまりで眠り、
ときどきじゃれ合い、
ときどき追いかけっこをし、
ときどきなぜかそらだけが別の部屋にいて、
あとから何事もなかった顔で戻ってきた。
そのたびに、
ひまわりは呆れたように見つめ、
チョコは静かにその横に座っていた。
夜になると、
三匹は近くで眠った。
ぴったりくっつく日もあれば、
少し距離をとる日もある。
けれど不思議と、
誰かが本当にひとりになることはなかった。
見えないところで、
いつもちゃんとつながっていた。
ひまわりは、
どこか守るように家の真ん中にいた。
そらは、
自由に見えて、
でも危ないことがあると真っ先に駆けつけた。
チョコは、
何も言わないかわりに、
気づけばいちばん必要な場所にいた。
まるで昔からそうだったかのように。
それからの十五年。
季節は何度も巡った。
窓の外に桜が咲き、
夏の光が差し込み、
秋の風が抜け、
冬の朝には三匹が身を寄せ合った。
若かった三匹は少しずつ年を重ねた。
ひまわりの足取りは少しゆっくりになった。
そらも高い場所へ飛び乗る前に、
一度だけ考えるようになった。
チョコは相変わらず静かだったが、
昔よりもっと穏やかな目をするようになった。
それでも三匹は一緒だった。
おいしいごはんを食べ、
お気に入りの場所で眠り、
家の人に撫でられ、
安心できる日々を重ねていった。
戦う必要は、もうなかった。
誰かを倒す必要も、
何かを守るために命を削る必要もない。
ただ、
朝が来て、
昼が過ぎて、
夜になって、
また明日が来る。
その当たり前を、
三匹はゆっくり味わうように生きていた。
きっとそれは、
前の世界で十分すぎるほど戦った魂に与えられた、
やさしいご褒美だったのだろう。
そして十五年後。
また新しい風が、
その家へやってくることになる。
あいちゃん。
新たな転生者が、
新しい家族としてその家にやってくるのは、
もう少し先のこと。
けれどその日までの十五年間、
ひまわりとそらとチョコは、
たしかに幸せだった。
仲良く、
穏やかに、
あたたかく。
かつて剣を取り、
拳を握り、
世界のために戦った三つの魂は、
今度は猫として、
同じ家の中で、
同じ陽だまりを分け合って生きたのである。
勇者も、
剣士も、
僧兵も、
もういない。
そこにいるのは、
ひまわりと、
そらと、
チョコ。
窓辺で眠り、
ごはんの時間を楽しみにし、
撫でられるのが好きな、
三匹の猫たち。
けれどもし、
その寝顔をそっと見つめたなら。
陽だまりの中で重なるその姿のどこかに、
かつて命を預け合った仲間たちの面影が、
ほんの少しだけ見えるかもしれない。
世界を救ったあとにたどり着いたのは、
壮大な伝説の続きではなく、
こうして静かに流れていく、
小さくて大きな幸せの時間だった。
それはきっと、
どんな勝利よりもやさしい、
本当の意味での救いだったのだろう。
