
喰霧のザル=ディーンとの戦いを終えた、その夜。
山を越えた先の小さな草地で、
ヒマワリ、ソラ、コユキ、チョコの四人は
ようやくひと息ついていた。
焚き火は静かに燃えている。
星は高く、
川の音は細く、
空気はひどく澄んでいて、
ついさっきまで霧の牙と戦っていたとは思えないほど、
夜は穏やかだった。
鍋の中身もきれいに空になり、
湯気の名残だけが夜に消えていく。
ヒマワリは両手を後ろにつき、
満足そうに空を見上げた。
「いやあ、いい夜だねえ」
コユキは少し離れた石にもたれ、
いつものように上品な姿勢で座っている。
「戦いの直後でなければ、
もっと素直にそう思えたのですけれど」
「でも、チョコのスープおいしかったよね」
「それは認めますわ」
チョコは何も言わず、
使った器を川の水で軽く流していた。
ソラは焚き火の向こうで膝を立てて座り、
黙って炎を見ている。
肩口にはまだザル=ディーンに裂かれた傷が残っていたが、
包帯はきちんと巻かれていた。
それでも彼女の目は、
もう休息ではなく次のことを考えている目だった。
ヒマワリはそれを見て、
なんとなく嫌な予感がした。
昔からそうだ。
ソラが静かすぎる時は、
たいてい何かよからぬことを考えている。
ヒマワリはじっと様子をうかがう。
ソラは焚き火を見ている。
何も言わない。
だが、目線の先は火ではなく、
その向こうの闇のようにも見えた。
さらに数秒後。
ソラがすっと立ち上がった。
「じゃあ、見張りのついでに周囲を少し見てくる」
やっぱり言った。
ヒマワリとチョコが、
ほとんど同時に顔を上げた。
「だめ」
「やめろ」
見事なくらい重なった。
ソラは一瞬だけ目を瞬かせたあと、
少し不満そうに言う。
「なぜだ」
ヒマワリが即答する。
「なぜって、なぜでもだよ!」
「答えになってない」
「なってるよ!
すごくなってるよ!
ソラが“少し見てくる”って言うときは、
だいたい少しじゃ済まないんだよ!」
ソラは眉ひとつ動かさない。
「今回は見張りだ」
「“ついでに”って言ったじゃん!」
「見張りのついでに周囲を確認するだけだ」
「その“だけ”が危ないの!」
コユキはそのやりとりを聞きながら、
静かにため息をついた。
「毎回この調子ですの?」
チョコが短く答える。
「毎回だ」
「大変ですわね」
「慣れた」
その会話が妙に自然で、
ヒマワリはちょっとだけ笑いそうになる。
だが今は笑っている場合ではない。
ソラは本気で行く気だ。
ヒマワリは立ち上がり、
焚き火を回り込んでソラの前に立つ。
「だめったらだめ。
今日は特にだめ」
「なぜ」
「怪我してるし!」
「動ける」
「そういう問題じゃないよ」
「なら何の問題だ」
ヒマワリは口を開いて、
いろいろ言いたいことがあったはずなのに、
結局いちばん正直なところが先に出た。
「……またいなくなったら困るから」
その一言に、
場がほんの少しだけ静かになった。
ソラは数秒だけ黙る。
ヒマワリは言ってから少しだけ照れくさくなる。
子どもみたいな言い方だったかもしれない。
けれど本音だった。
今日だって、
ザル=ディーンとの戦いで
ソラが前へ出た時、
ヒマワリはほんの一瞬だけ
ひやりとしたのだ。
強いのはわかっている。
誰よりも剣が冴えることも知っている。
でも、
知っているのと心配しないのは別だ。
ようやく四人そろった夜に、
いきなり誰かが闇へ消えるなんて、
あまりにも落ち着かない。
ソラはその言葉を聞いて、
視線をほんの少しだけ横へずらした。
「……いなくならない」
「なるんだって!」
「ならない」
「なるよ!」
「ならない」
いつもの押し問答が始まる。
コユキはこめかみに指を当てた。
「これ、どちらも折れませんわね」
チョコは腕を組んだまま、
静かにソラを見る。
「見張りなら交代でいい」
「私はまだ起きていられる」
「だからこそだ」
チョコの返しは短いが、
妙に説得力があった。
ソラは少しだけ目を細める。
「信用がないな」
「方向感覚に関してはない」
とチョコ。
ヒマワリがすぐにうなずく。
「うん、ない」
「ないですわね」
とコユキまで続いた。
ついに三対一だった。
ソラはそこで、
ようやく少しだけ不服そうな顔をした。
「ひどいな」
「ひどくないよ。
実績がありすぎるんだよ」
ヒマワリは腰に手を当てて言う。
「そもそも“見張りのついでに少し”って、
もうその言い回しが危ないんだからね」
「そうか?」
「そうだよ!」
ソラは少し考えたあと、
真面目な顔で言った。
「では、見張りに専念する」
ヒマワリはぱっと顔を明るくした。
「ほんと?」
「焚き火の周囲を半径三十歩まで」
「微妙に危ない!」
「十分近い」
「三十歩って意外と広いんだよ!」
コユキがくすりと笑う。
「今度は数字で広げてきましたわね」
チョコは小さく息をついた。
「五歩だ」
「狭すぎる」
「十歩」
とヒマワリ。
「八歩」
とチョコ。
「九歩ですわね」
とコユキ。
なぜか交渉が始まった。
ソラは真顔のまま、
三人を見渡す。
「私は囚人か」
「ちがうよ」
とヒマワリ。
「でも今夜だけは、
ちょっとそういう感じでいて」
ソラは返事をしない。
だがその口元は、
ほんの少しだけやわらいだようにも見えた。
結局、
ソラの“見張りのついで”は却下され、
見張りは交代制となった。
最初がチョコ。
次がソラ。
その次をヒマワリ。
最後をコユキ。
「わたくしも入るのですの?」
とコユキはやや不満そうだったが、
ヒマワリが「だって仲間だもん」と言うと、
それ以上は何も言わなかった。
そのまま少し時間が過ぎる。
焚き火は落ち着き、
星はさらに冴え、
夜の冷たさがじわじわと地面から上がってくる。
ヒマワリは毛布にくるまりながら、
まだ少しだけソラを気にしていた。
ソラは焚き火の近くに座り、
今度こそ大人しくしている。
しているのだが、
目だけはやはり外を見ている。
ヒマワリは小声で言う。
「ほんとに行かない?」
「行かない」
「ほんとにほんと?」
「行かない」
「チョコ、見ててね」
「見てる」
とチョコ。
「私、そこまで信用ないのか」
「あるよ」
とヒマワリ。
「剣の腕とか、
すごいところとか、
そういうのはものすごく信用してる」
「方向だけだな」
とチョコ。
「方向だけですわね」
とコユキ。
ソラはとうとう小さく息をついた。
「そこまで言われると、
さすがに傷つく」
それがあまりにも真面目な顔で言われたので、
ヒマワリは思わず笑ってしまった。
コユキも口元を隠す。
チョコですら、
ほんのわずかに目元がやわらいだ。
その笑い声は、
夜の草地にやさしく広がっていった。
不思議なものだと、
ヒマワリは思う。
ほんの少し前まで、
まだぎこちなかった四人なのに、
こうして焚き火を囲んでいると、
ずっと前から一緒だったような気さえしてくる。
ソラの危うさに呆れ、
チョコの静かさに頼り、
コユキの高貴さに笑い、
それでもみんながちゃんと同じ場所にいる。
それがうれしかった。
やがて、
最初の見張りを引き受けたチョコが立ち上がる。
ソラは一度だけ外を見たあと、
ようやく剣から手を離し、
焚き火のそばに腰を落ち着けた。
本当に、
今夜は行かないらしい。
ヒマワリはほっとして、
毛布に顔を半分うずめる。
「よかった……」
「そんなにか」
とソラ。
「そんなにだよ」
「……そうか」
短い返事。
でもそれは、
嫌そうではなかった。
むしろ、
少しだけあたたかかった。
星の下、
火のそばで、
四人の影がゆっくりと揺れる。
戦いの直後の夜だというのに、
この時間は不思議なくらいやさしい。
きっとこういう夜を重ねながら、
四人は本当の仲間になっていくのだろう。
迷う者もいて、
止める者もいて、
それを見て笑う者もいる。
完全ではなくても、
それでいい。
むしろ、
そういう不完全さがあるからこそ、
この一行はきっと強いのだ。
そしてその夜、
ソラ・アズリエルは本当に一度も野営地から離れなかった。
翌朝、
ヒマワリが目を覚ました瞬間に
「ちゃんといた……!」と妙に感動することになるのだが、
それはまた別のお話である。
