夜の山は、
いつだって少しだけ残酷だ。

昼には見えていた道が消え、
聞こえていた川の音は遠ざかり、
木々の影だけが、
まるで意思を持つもののように伸びてくる。

そんな夜の山を、
ひとりの男が音もなく進んでいた。

黒衣。
沈んだ気配。
足音ひとつ立てぬ身のこなし。

チョコ・ノクティス。

彼は月明かりの届かぬ斜面を渡りながら、
前方にあるふたつの気配を静かに追っていた。

ひとつは、陽だまりのようにまっすぐな光。
ヒマワリ・ソレイユ。

もうひとつは、風のように鋭く揺れる空色。
ソラ・アズリエル。

遠すぎず、
近すぎず。

見守るにはちょうどいい距離を、
チョコは昔から知っていた。

あの二人は前を歩く。
自分は少し後ろから見る。
必要な時だけ手を出す。

それでよかった。

それが、
自分にとっていちばん自然だった。

夜の空気を吸い込みながら、
チョコは小さく目を伏せる。

なぜ見守るのか。

その理由を、
彼は何度も言葉にしようとしたことがある。
けれど結局、
いつも途中でやめてしまう。

そんなもの、
説明するまでもない気がしてしまうのだ。

あの家の灯り。
あたたかな食卓。
眠る場所。
名前を呼ばれること。

そして、
屈託なく手を引いてきた小さな娘。

ヒマワリ。

その隣にはいつも、
無口で負けず嫌いな空色の少女がいた。

ソラ。

拾われた夜から、
チョコの世界にはその二人がいた。

恩義というには、
あまりにも深い。

だから返したい。

言葉でなく、
肩書きでなく、
ただ必要な時に、
必要なところで立てる自分でありたい。

それだけだった。

尾根の先で、
ひまわりの声が風に乗る。

「ソラー! どこー!」

返事はない。

チョコはほんの少しだけ視線を横へ流した。

いた。

当然のように、
道から外れた細い獣道の先に、
ソラの気配がある。

本人はきっと、
探索の範囲を広げているつもりなのだろう。
だが実際には、
たいへん見事に迷っている。

チョコは無言のまま、
別の斜面へ回り込んだ。

直接呼びに行けば早い。
だが、それでは違う。

ソラは自分が迷ったとは思わない。
それは昔から変わらない。

ならば、
本人の流れを壊さないまま戻すほうがいい。

チョコは先回りして、
小さな石をひとつ蹴った。

乾いた音が右手の尾根へ飛ぶ。

ほどなくして、
ソラの気配がそちらへ向きを変えた。

……かかった。

少し進ませ、
また別の位置から枝を軽く鳴らす。

ソラは警戒しながらも、
敵の気配を追っているつもりで歩いていく。

その先には、
もとの山道へ戻る流れがある。

導く。

気づかれないように。
あくまで自然に。
本人が自分で見つけたと思える形で。

それが、
チョコのやり方だった。

何度目かの誘導のあと、
ようやくソラの足取りが
ひまわりのいる方向へ収束し始める。

これなら合流する。

そう判断した時だった。

別の気配があった。

低い。
粘つく。
泣き声のような、
笑い声のような、
嫌な震えを持つ闇。

チョコの目が細くなる。

ひとつではない。
複数。

しかも、
ただの雑魚ではない。

夜哭のベルフェリオ。

その名が脳裏をよぎる。

四眷属のひとり。
泣き声と絶望を糧とし、
闇夜の山で心を折ることを好む魔。

その配下たちが、
ひまわりとソラへ同時に襲いかかる位置へ
散っている。

まずい。

チョコは一瞬で状況を読む。

ソラはもうすぐ山道へ戻る。
ひまわりはその先にいる。
このままだと、
二人が合流した直後に、
ベルフェリオ本体と手下たちが挟み込む形になる。

本来なら、
もっとあとから出るつもりだった。

本当に必要になるまで、
影から見ているつもりだった。

だが、
今ここで手を打たなければ、
二人は危ない。

チョコは迷わなかった。

次の瞬間には、
黒衣の姿が夜の斜面を走っていた。

最初の一体は、
岩陰に潜んでいた。

細長い手。
泣き腫らした顔のように歪んだ仮面。
影の刃を持った魔。

振り向くより早く、
チョコの拳がその胴を穿つ。

黒炎が沈む。

燃え上がるのではない。
内側から静かに食い破るような、
重い闇の火。

魔は声もなく崩れた。

二体目は木の上。

飛び降りざまに喉を狙ってくる。
チョコは半歩だけずれて、
その腕を取る。
そのまま回転の勢いごと地へ叩きつけ、
肘打ちひとつで核を砕いた。

三体目。
四体目。
五体目。

どれも速い。
どれもいやらしい位置を取る。
連携していたなら、
たしかに厄介だっただろう。

だが今、
それは許されない。

チョコは音もなく踏み込み、
拳ひとつで順に落としていく。

派手さはない。
叫びもない。
ただ、
積み重ねた鍛錬だけがそこにあった。

ソラのような天賦はない。
一目で極意へ届く才もない。

だからこそ、
何千何万と打った。

呼吸を整え、
足を運び、
拳を沈め、
同じことを繰り返し、
繰り返し、
繰り返し続けた。

その結果だけが、
夜の斜面に静かに現れていた。

最後の一体を沈めた時、
遠くから金属音が響いた。

高い。
鋭い。
そして、
泣き声にも似た不快な波長をまとった音。

ベルフェリオ本体だ。

間に合わなかったか。

チョコは夜の向こうを見る。

ソラはすでに山道へ戻っている。
ひまわりと合流したのだろう。
そしてその直後に、
夜哭のベルフェリオが姿を現した。

本来なら、
配下たちが同時に襲い、
二人の足を止め、
絶望の裂け目を広げるはずだった。

だが手下はもういない。

チョコが先に片付けた。

ならば、
まだ勝ち筋はある。

チョコは付着した黒い残滓を払い、
すぐに尾根を蹴った。

夜の木々を抜ける。
岩を越える。
斜面を横切る。

その途中、
ベルフェリオの泣き笑いが風に乗って聞こえてきた。

「ああ、かわいそう。
やっと会えたのに、
やっと並んだのに、
ここで終わるのねえ」

ヒマワリの声が返る。

「終わらない!」

その叫びに、
チョコの口元がわずかに緩んだ。

そうだ。
あの子はそういう子だ。

追い詰められても、
真っ先に前を向く。

そしてソラは、
どんな状況でも剣を止めない。

音でわかる。

一本目が受け、
二本目が返し、
けれどまだ押し切るには足りない。

ヒマワリが盾で耐え、
剣で道をこじ開けようとしている。
だがベルフェリオの泣きの魔は、
心を揺らす類の厄介さを持っている。

長引けば危うい。

だが手下がいない。

それだけで状況は違う。

本来左右から迫るはずの闇が来ないことに、
ベルフェリオ自身もわずかな違和感を覚えているはずだ。

その小さな狂いが、
二人へ一瞬の余白を与えている。

チョコはそれで十分だと思った。

必要な猶予は作った。
あとは、
本当に必要なその瞬間に出ればいい。

尾根の切れ目へ出る。

少し下に、
戦いの場が見えた。

崩れた石碑の前。
細い月明かりの下。
黒い外套を翻すベルフェリオと、
それに抗うひまわりとそらの姿。

ヒマワリは肩で息をしている。
ソラの外套にはすでに裂け目がある。

だがまだ立っている。

まだ折れていない。

ならば、
ここからだ。

チョコは斜面の影に立ち、
黒炎を静かに拳へ宿した。

もう見守るだけでは終わらない。

今この瞬間、
影の外へ出る時が来たのだ。

月が雲を抜ける。

ベルフェリオが、
泣くように笑いながら大きく腕を広げた。

闇が集まる。
二人を呑み込もうとする。

その一撃が落ちるより早く、
黒衣の僧兵は地を蹴った。

――ここから先が、
チョコ・ノクティスが正式に姿を現す物語へと
繋がっていく。

これはその直前、
誰にも知られぬまま、
迷子の剣士をこっそり導き、
手下どもを先回りして沈め、
二人のために勝ち筋を残した
黒衣の僧兵の夜の話である。