「虚無の微笑」より | マイ シークレット ライフ

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誰も通らなかった愛の新世界

・「言葉」が弟子を打てるのは、弟子が、まだ小悟していない場合のみだ。


・苦しみはそこにあるが、「苦しむ者」は、もういない。痛みや苦しみはあるが、そこから逃げたいとか、それに対して「なぜ、私はこのような目に遭うのだ」といった葛藤をする「精神的苦しみ」というものは、彼らには、もう全く存在しない。しかし、旅人は、木陰の涼しさという「恩恵を受ける立場」にいる。それは、旅人が、その恩恵を「生み出している、原因の次元」には、まだ至っていないという事なのだ。


・木は、旅人が苦しんできた、灼熱の太陽の光そのものを、「自らが覆い茂る力」としているのだ。


・自我が言っているのは、この、「たったの一言」だ。 「私は、ここにいるんだ。この私という存在価値を失いたくない」 その一言が言いたいだけの機能しか、自我は持ち合わせていないのだ。だから、それは「幸福によっても肥大するし、不幸によっても肥大する。


・落ちるところまでおちた人間というのは、「自分が」幸福を手に出来なかった場合は「私はこんなに不幸なのだ」と不幸にまで「自分のだ」というシールを張り、それにしがみつくのである。


・人間には、「二つの方向」に対して感じる「二つの恐怖」がある。ひとつ、それは、「落ちる方向への恐怖」だ。しかし、もうひとつの恐怖とは、「上昇する恐怖」だ。


・何かを知る、わかる、認識するというのは、そこに分離があるということであろう。だとすれば、絶対的な悟り、大悟の徹底というのは、「完全に、何もわからない」ことこそを、その本性そのものとしているという事は、明白な事だからだ。


・その日、自我は「生まれて初めての悲しみ」と共に、消滅していきました。そして、その先には、本当の私(意識)が、待っていたのでした。


・そして変化前は、過去を思い出せば、「私が、あの時、ああ考えた。」「私は、あの時、こう思った。」「私はあの時こう感じた。」と・・・過去のその場面を思い出すと、必ず「私が」となり、過去の現象よりも、やはり「私」が前に出てきてしまうのでした。 しかし、変化後は、過去は思い出されるが、その場面だけが思い出され、その場面を「誰が見ていたのか」、というのは二の次になります。 さらに言えば、それを経験していた当時の自分すらも、その場面の、ごく一部になってしまった、と言えます。


・自我というのは、その最中にあっては、塊(かたまり)のようなものと感じられ、それに向かって、色々なものをくっつけよう、離すまいと試みる、そのベクトルの、動きそれ自体のことのようでした。 その『塊』は、さながら、その塊それ自体が、「自分が存在しているという証拠集めに必死」で、そうやって集めた証拠に、「安定性」を求めているらしい。 そして、その証拠は多ければ多いほど良い、という方向で動いている、という感じでした。


・変化前は、過去の出来事に対して、あきらかに感情をもって思い出せていたのですが、今では、感情が伴わないのが特徴的です。


・石ころが、驚くほど生きている。元気でイキイキしている。石ころは、ユーモラスで、わんぱくだった。 石ころが、『宇宙』だったのです。 私は涙が止まらず、泣き終えているはずなのに、私でない何かが、まだ泣き続けていた。 石ころが、それ自身を通して、「とても満足な状態にあると、とても静かになる。」ということを、私教えてくれたのでした。 石ころは、満足のかたまりでした。それ故に、静かだったのです。でも同時に、わんぱくで元気というものがそこには共存していたのです。 それまでは、静寂を志向すると「静けさ」が来る、と私は思っていました。でもそれは、完全に間違っていました。 人のイメージにおける「静か」は、間違っていたのです。そうではなくて、「満足」に圧倒されてしまうと、「静か」になってしまうのでした。


・君にとって最も美と思えるもの、それは実は『終わり』のはずだ。君は「いかなるものも、終わりに勝る美はない」と明確に確信しているはずだ。君にとっての『美観』とは、幾何学的な、バランスでもなければ、数理的な調和でもなく、何か特定の形状や色彩や運動の中に『美の究極の次元』を求めているわけではないはずだ。


・もしも高次元的な世界、光に満ちた世界にいたままであるなら、決して彼らは自滅願望など持てない。しかし、自我がもたらす心理的な重圧のみが引き金になって生まれる『自滅への志向』こそが、『虚無の次元』に繋がるためには、最も都合がよくて、かつ「効率的」だったのだ。



「虚無の微笑 悟った人たちへの伝言」  EO著 無明庵刊 より




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