●衝動と衝撃
「(──さようなら)」
朱華 華音(はねず かのん)はそう言って、橋から飛び降りた。
なんの未練もなく、なんの思いもなく、ただ一つ思い残しがあるとすれば。
「(華音ちゃんの歌、僕好きだよ)」
そういって笑ってくれた、栗毛のクラスメイトの最後に見たのが歪んだ蔑んだ顔であったことか。
だって、与えられてばかりで、私は何も返せてなかった。
笑顔も、渡された少し冷えたブリックパックのジュースも、少しだけ触れた手の温かい感触も。
●出会いと紅茶
いじめ。
華音はいじめられていた。
肉体的ならば、まだ我慢のしようがあった。いや、いっそ蹴って殴ってくれれば楽だったろう。
でも彼らが行うのは、蔑む視線であったり、ひそひそと囁かれる悪口であったり、目の前で明らかに華音を指して悪し様に言われるものであった。
精神的に、だったのだろう。今思えば。
登校すれば、そんな日々が待っていた。だから先生に言われた翌日や、単位に関わる日数ぎりぎりまで華音は学校を避けていた。
行っても居場所がない。あるとすれば、他のクラスや学年問わず集まって、あまり人だかりができない屋上だった。そこならあまりクラスメイトはこない。来ても、人前だから蔑む視線だけで済んだ。
何故、その日は授業をサボったのか覚えていない。体育だったか、出たくない授業だったか。
夏の暑い、蒸す日だった。持ってきたペットボトルのジュースを飲みほして、ベンチに座って少し途方に暮れていた。
暑すぎてジュースを買いに動く気力はないし、かと言って空から飲み物が降ってくるわけでもなく。
「はぁ……」
溜息をつくが、誰もいない屋上は、いつも以上に居心地がよかった。
だからだろうか。ふと口ずさんでみたくなった。
夏を思い出す、曲の一節。歌うことだけは、何故だか昔から好きだった。いじめられても、これだけは隠して笑われないようにして。人間としての最後の砦だ。
「~~♪」
ふっと吹いた夏の蒸し暑い風が頬を撫でる。まるで風で歌声を運ぶように。優しく。
一節を歌うだけで満足した華歌は、黙った。喉は相変わらず張り付くように乾いている。歌ったせいだろうか? ……そうは思いたくないが。
ぱちぱちぱちぱち
突然。
屋上に拍手が響いた。外からの声は体育の歓声だけ。なのに。
驚いて振り向くと、栗毛の少年、同じ学校制服を着た男子が立っていた。ネクタイの色が同じだから、同級生だ。拍手をしていたのはこの少年だろうか。
「上手だね!」
目を輝かせて少年は、ずかずかと華音の座っているベンチに近づいてきた。そのあまりのも無遠慮な、良く言えばフレンドリーな態度に華音は内心びくつき、実際少し後ずさった。
「声楽部? あれっでもうちの高校なかったよね? じゃあ歌手志望? 同じネクタイだ。クラスはどこ? 俺、O組!」
そこまで一気に喋り通した少年は、ふっと息をつく。期待のこもった目で、キラキラした瞳で華音を見つめてきた。返答を求められている。そう気づくのに、少し時間がかかる。
「あ、わ、私は、私も、O組。部活には入ってなくて、歌手も特に、目指してない……」
変な返答をしてないだろうか。もつれる舌を酷使して、少年に説明する。うんうん、と聞いていた少年は、そっかーと特に気を害した風もなく言う。
「同じクラスなんだ。君のこと気づかなかった。俺、細雪!細い、雪って書いて、さ・さ・め! 君の名前は?」
「わ、わ、私は、その、朱華 華音……」
恥ずかしながら、最後は俯いて尻すぼみになってしまう。細雪と名乗った少年は、華音の名を聞いた瞬間、一瞬だけ本当に一瞬だけ顔を曇らせた。
怯えて髪の隙間から相手の出方を常に窺ってないと心が死んでしまう華音は、その変化を見過ごさなかった。
(「この人も、あっち側の人なの?」)
「華音ちゃんね! 僕のことも呼び捨てでいいよ! よろしく! ……あ、もしかして喉乾いてる?」
マシンガントークの同級生は、先ほどの一瞬などなかったように振る舞う。リア充、というやつだ。眩しくて、ただ眩しくて輝いていて、手の届かない存在。
華音の持ってる空のペットボトルを見咎めたのだろう。すかさずそういうところに気づくのにも、今まで会ったことのない人種を感じた。
「あ、これは、さっき終わったっていうか……」
「そう? じゃあ丁度よかった。はい、これドーゾ!」
そう言って細雪が差し出したのは、ブリックパックの紅茶の飲み物だった。初めてみる。コンビニにもいかず、親の買ってくるものをただ飲んでいたそれは真新しいものだった。
「あ、あの、いいんです、か?」
「いいのいいの。それから敬語はなしね! クラスメイトだろ?」
ここまでの情報量は多い。キラキラした栗毛のイケメンクラスメイトに、歌を褒められ、ジュースを渡され。情報を整えるために、そろそろ一人になりたかった。
華音が頷く前に、細雪は華音の隣を指差した。
「隣、いい?」
「え、あ、はい。あ、うん」
「やった。お邪魔しまーす!」
ぽすん、と横に座った細雪からは微かに柑橘系の香りがした。
貰った飲み物の開け方がわからず、細雪に助けられて飲んだのはアップルティーの程よい甘さの飲み物。
「おいしい……」
「気に入った? よかった!」
「あの、ありがとう……」
礼を言えば、細雪はニカっと笑う。太陽のような笑顔だった。それに眩しさを覚えながら、目が離せないことに気づく。
「ねぇ、ところでどうして夏なのに冬服なの?」
ぎくり、と肩が震える。聞いてほしくなかったことだ。だって、この袖の下は。
「これは、あの、えっと……」
「……リストカットしてるって、本当なの?」
聞きたくなかった単語。
この人もきっと私を蔑むんだ。そう思って、身を固くして距離をとった。それがイエスの返答であるとも気づかずに。
あとは俯いて、華音は細雪が早くどこかに行けと念じた。念じるしかなかった。
「そっか。それって、いじめられてるから?」
早く。早く。どこかへ行って。
耳を閉じ、口を閉じ、目を閉じた。
「華音ちゃん?」
「だから、だから何なの? してるから悪いの?」
「ちが、僕気になっただけで……。あ、そっか、初めて会ったやつにこんなこと聞かれるなんて嫌だったよね。ゴメン。……それじゃ!」
細雪は逃げるように立ち去る。かと思ったが、屋上の入り口で、華音を振り返る。
「またね!」
●依存
あれから細雪は、華音の前に度々現れた。
それは教室であったり、初めて会った屋上であったり、果ては学校近くのコンビニだったり。
教室では、周りの目を憚らず話しかけてきて、華音がひやひやした。何か言われていたが、細雪はそれでも話しかけてきた。
屋上では、時々華音が歌を聴かせた。最近の曲をリクエストされてもいいように、華音は普段聴かない曲を聴いた。
コンビニでばったり会ったときは、美味しいスイーツを教えてもらったりした。
あれ以来、腕の傷のことは細雪は触れてこなかった。
華音の生活は急に目まぐるしくなった。その初めてのいそがしさに流されつつ、それは決して嫌なものではなかった。
細雪は悪口を言わない。外見の事で笑わないし、おどおどした行動を見て笑わない、ちゃんと目をみて話してくれた。
華音が初めて“友達”と思える人だった。
(「ううん。わからない。細雪くんはそう思ってないかも」)
そんな思いに駆られながらも、確実に華音の内面は自立して、そして──少しずつ壊れていった。
そんな日々を送っているある日のこと。
歌い終わって、細雪に拍手をもらった華音は、ふと思っていたことを口にした。
「あ、あの、細雪くんは、どうして私に優しくして、庇ってくれるの?」
キョトンと言った顔が合っている。そんな表情を浮かべた細雪は、ぷっと吹き出した。
ああ、また私は笑われているのかと考え出した華音の考えを、細雪は打ち砕く。
「優しくなんてしてないよ。僕は友達に話しかけてるだけ。んで、庇ってもいない。僕が思ったことを、クラスメイトに話してるだけ」
お互い顔を見合わせるような位置になる。頭は一つ違うから、華音が見上げる形になる。
細雪は、デコピンで軽く華音のおでこを弾いた。
「いた……っ」
「僕と華音ちゃんは友達だろ? 気を使わなくていいんだよー」
「とも、だち……」
「そ! 友達!」
弾かれたおでこの優しい痛みが、嬉しかった。
華音は少しずつ毎日登校するようになった。それは毎日、細雪に会うためだった。
毎日会えば勇気と元気を貰える。逆に会えなかった日は、気分が塞いだ。
スマートフォンの連絡先も交換した。
家に居ても他愛のない話をして笑顔をくれた。
楽しかった。
生まれて初めて、誰かに認めてもらえた。
『おやすみ〜(* 'ω')ノ』
「おやすみなさい」
スマートフォンの液晶を見つめる。
ああ今日も終わってしまった。明日まで会えない話せない。
いつも話していたい。いつも会っていたい。
いつも歌を披露したい。いつも褒められていたい。
どうして一緒にいられないんだろう。
どうして離れ離れになってしまうのだろう。
私の全部を見せても、私を認めてくれるだろうか?
ああ、早く明日になってほしい。
「細雪くん……」
一筋、目から零れ落ちた涙が歪む。
崩壊まであと。