以前BSで放送されていた「戦争遺産島」が
今回、地上波で放送されました。
放送されたのは以下の4島

・奄美大島
 加計呂麻島 200を超える戦争遺産が残る島
・似島
 1万人の被爆者が運ばれた島
・大津島
 特攻兵器の訓練基地となった島
・猿島
 東京湾の要塞

このうち

私が訪れたことがあるのは猿島のみ

番組で言っていた通り

私が猿島に行ったときも

手前側のビーチでは

バーベキューなどを楽しむ行楽客が

たくさんいたように記憶しています。


もちろん私はそこには目もくれず

奥へ奥へと入っていきました。


※人が写っていたのでちょっと加工しています

そして
帰りの船を待つ間に観た猿島からの夕景が

とてもキレイだったことも

強く心に残っています。


※この写真ではないですが私は今もこのときに撮った写真を

 デスクトップの壁紙に設定しています。






先にも述べましたが
残念ながら

今回放送された島の内、

猿島以外には

なかなか機会がなくて行けていません。


なのに

今回この特集を観てしまったがために

行きたい熱が再燃してしまいました。


お金がないのに

どうしてくれるんだNHK〜!


特に似島は

毒ガスの島と言われた大久野島

↓↓↓



この島を調べているときに知ってから

ずっと行ってみたいと思っていた島なんですが

どちらも未だに行けていません…(T_T)






と言うことで

今回は放送された中で今1番訪れたい島

似島の視聴感想です。






●似島概要
面積  :3.87km2
島外周 :16km
最高標高:278m(安芸小富士)
現在の人口:660人(BS放送時の2023年かな?)
被爆当時の人口:1,751人(1945年)





●変遷

番組で語られていたこと以外にも

自分で調べた内容を踏まえながら

島の軍関係の変遷を記していきます

専門家ではないので

間違っているところもあるかも知れませんが

その辺はご了承いただければと思います




・日清戦争時の1895年(明治28年)
 中国大陸からの帰還兵に検疫を行うため、
 広島の似島に臨時陸軍検疫所を整備

 (この他、下関の彦島、大阪の桜島にも

        同様の施設が設置される)






・帰還兵の検疫終了後の1897年(明治30年)
 海軍に移管



・日露戦争による傷病兵の増加により
 1904年(明治37年)
 再び陸軍に移管



・日露戦争時の1905年(明治38年)
 似島検疫所第二消毒所、通称「第二検疫所」設置
 当初からあった臨時陸軍検疫所は
 似島検疫所第一消毒所、通称「第一検疫所」
 と呼ばれるようになる



・1906年(明治39年)
 陸軍運輸部の管轄となる



・1910年(明治43年)
 第一検疫所の管理が海軍
 第二検疫所の管理が陸軍となる
 この際、第一検疫所は
 「呉海軍病院似島消毒所」として名称変更



・1917年(大正6年)
 大阪俘虜収容所の閉鎖に伴い
 第二検疫所内に似島俘虜収容所を移転

 このときに大阪から移送されてきた

 ドイツ人捕虜

 カール・ユーハイムが似島で初めて
 バウムクーヘンを焼いたとのことで
 似島は日本における
 バウムクーヘン発祥の地となりました。
 
 調べ始めた時は
 あの有名なユーハイムの名前がこんなところに
 出てくるとは思いもしなかったので
 この意外性から
 さらに調べを進めてしまいました。
 

*****

 ユーハイムは
 青島で喫茶店を営んでいただけの青年でした。
 それなのに
 身重の妻エリーゼを残し、
 捕虜として日本へ連行されました。
 日本を恨んでいたとしても不思議ではないのに
 解放時に
 青島でコレラが流行していたために
 妻子を呼び寄せ日本に残る決心をしたのです。

 紆余曲折を経て
 静養していた六甲山ホテルで
 終戦前日に亡くなったユーハイム
 その後、
 独に強制送還されたユーハイムの妻エリーゼ

 日本との関わりが
 絶たれてしまったかのように見えましたが

 愛弟子たちが
 「ユーハイム」商店を復興し、
 1953年には

 エリーゼを再び日本に呼び寄せたのです。


 そして
 帰国直後から会長社長と歴任したエリーゼが
 「死ぬまで日本にいる」と宣言した通り
 エリーゼは日本で最期を迎えました。

 彼らの本心はわからないけれど
 これらのエピソードに触れて

 私にはない絆で繋がっていて素晴らしいなと

 なんかちょっと羨ましかったです。

 

 ユーハイムのバウムクーヘンが食べたいな〜

 と思った時、

 買いに行けば食べられる

 今の日本がそんな平和な世の中であることを

 幸せに思います。

 いつまで続くのかわからないけれど

 いつまでも続いてほしいと思っています


*****




 話が大きく逸れましたので

 似島に話を戻します…





・1923年(大正12年)
 呉海軍病院似島消毒所(旧第一検疫所)

 老朽化により倉庫へ

 倉庫群には

 陸軍兵器支廠似島弾薬庫などがありますが

 陸軍に移管されたかどうかまでは

 不明だそうです




・1940年(昭和15年)

 軍馬用の「馬匹検疫所」設置




・1945年(昭和20年)8月6日
 原爆が投下された際
 最高標高が278mある安芸小富士により

 島の被害が少なかったことや

 5,000人分の衛生資材と医薬品が
 保管されていたことから
 直後より被爆者の臨時救護所として機能

 被爆者は
 倉庫として使用していた旧第一検疫所ではなく
 第二検疫所に運ばれていますが
 投下直後から20日間で
 約1万人の負傷者が搬送されたそうです。
 当初、似島で亡くなった方は
 「馬匹検疫所焼却炉」で
 一人ひとり火葬されていたが
 日々増える死亡者に
 焼却炉で沢山の死体を一度に火葬することに…
 それでも間に合わなくなると
 近くの広場でまとめて焼かれ
 それでも追いつかなくなると
 防空壕や畑の畔などに

 多くの人が埋葬されることになったのだとか…。




・1945年(昭和20年)8月25日
 最後の患者を移送

 生きて島を出たのは500人ほど


 …ということは

 20日間で約9,500人が

 島で亡くなったということなんですよね…

 単純に平均化して計算すると

 1日あたり475人が亡くなっていますので

 一体ずつの火葬が難しいことは

 容易に想像できるかと思います

 実際はそれより少ない日も

 多い日もあったと思いますが

 想像を絶する悲惨な光景であることは

 間違いないと思います




・1958年(昭和33年)閉鎖

 戦後から閉鎖までは

 厚生省が検疫業務を実施していたそうです

 





●最後に
前述のように
所管の変更を繰り返し、
名称も変えながら
検疫業務を続けていた似島の検疫所

番組内では
通称名で統一して放送していましたが
私はそれで良いと思っています。
なぜなら
こんなややこしい変遷を伝えることが
この番組の趣旨ではないからです。

何も知らない人が見たら
混乱するだけです。

戦争中こんな目的の施設があったんだよ
その施設ではこんなことがあったんだよ
役目を終えた施設や施設跡を見て

あなたは何を感じますか

そして

未来にどう伝えますか


そう、訴えているのだと思うのです。


ちなみに、

番組内でも少し触れていましたが

検疫所は桟橋を含め
「未消毒側」と「既消毒側」の動線を
考慮しつくされた施設だったとのことで
高く評価されています。
ですが、当時の検疫所職員53人が

感染により死亡しているのも事実です。


私はいつか行くことができたら
彼らの慰霊碑(饒津神社境内)に
手を合わせたいと思っています。

また、
被爆者受け入れの際のエピソードで
生きている人は船の上
既に亡くなった人は

船にロープで繋がれて流されてきた

と話されていましたが

どういう状況なのか

未だに理解が追いついていません。


似島に来る途中で亡くなった人なのか
それとも
原爆症が赤痢だと誤認されていたために
感染者の死体の処置は
島でやってくれということだったのか…

現代に生きる私にとっては
理解に苦しみますが
当時の広島の人々の心理状態は

極限状態だったと思いますし

当時と常識も違いますので
私なんかが誰かを責めることはしてはならないし

絶対に出来ませんし

しません。




ただ
あった事実を受けとめるのみです。



軍都であった広島

広島市街には行ったことがありますが

↓↓↓



呉にも行ったことがないし

人生で訪れてみたいところが本当に多いのです


でもなかなかに遠いので

お財布と相談しながら

少しずつ行けるときに行こうと思います。






クローバー