今回は千葉県にある、
香取神宮〜水郷佐原を散策した時の健忘録
水郷佐原編を記していきます。
ちなみにこの日は
佐原散策の前に
朝早くから香取神宮へ参拝に行ったので
その時の話はこちらへ↓↓↓
佐原に行くにあたり
いろいろ調べていて一番驚いたのは
佐原市は2006年に合併して
現在は香取市となっていたこと。
佐原は水郷の街として有名なので
合併していたことに少々驚きました。
水郷の街は
利根川下流から霞ヶ浦にかけての地域
特に、香取市、潮来市、鹿嶋市は
水郷三都と称されているのですが
中でも佐原は
水運で栄えた当時の街並みを残していて
小江戸の雰囲気が
十分に味わえる街並みとなっていました。
佐原といえば水郷…のほかに
伊能忠敬に縁のある地であることは有名です。
街には伊能忠敬の銅像や名が
たくさん散らばっていました。
その代表格が「忠敬橋」
「ただたかばし」ではなく、
「ちゅうけいばし」と読むのだそうです。
これは
地元の方々が伊能忠敬のことを
「ちゅうけいさん」と親しみを込めて
呼んでいることが由来だそうで、
いつの間にか「忠敬橋」と
名付けられたと言われたのだそうです。
では
昔は何という名前だったのか?
まず、一番最初(江戸時代)の橋梁は
「大橋」と呼ばれる橋で木造でした。
火災の度に架け替えていたそうで、
明治15年に火に強く
桁下を舟が通れるような
アーチ型の石橋に架け替えました。
その際、
隣村の牧野村からの寄付を除き、
国や県からの援助が
いっさいなかったために
ほとんどの工事費が当時の村民の寄付
つまりは"協力"によって賄われたことで
石橋は「協橋」と名付けられたんだそうです。
なんでお金出してくれなかったのでしょう?
調べたけれどわかりませんでした。
ちなみに読みは「かなえばし」とのこと。
その後の交通量の増加や老朽化により
昭和43年に
現在のコンクリート橋に架け替えられたとき
いつの間にか
「忠敬橋」に変えられたのだそうです。
なんでこんな話をしているのかと言うと
その「協橋」の親柱が
無造作に伊能忠敬旧宅内に置かれていて
ちょっとびっくりしたからなんです。
周りには何の案内板もないので
あの人なんであの石の写真撮ってるの?
と言わんばかりに
他の観光客は見事に通り過ぎていきました。
まぁ、ゆっくり見られたので
逆に良かったです。
その後も
レンガ造りの佐原三菱館や
伊能忠敬記念館などをまわりながら
小野川沿いをぶらぶら散策後
最後に「樋橋(とよはし)」の落水を見たくて
ベンチで休憩していたのですが
なかなか落水しません。
諦めて帰ろうと駅に向かって歩き出したとき
背後から落水の音が!
慌ててシャッターを切りました(笑)
そもそも樋橋は
江戸時代に小野川上流で堰き止めた農業用水を
現在の佐原駅付近の水田に送るために
小野川に架けられた大きな樋だったのですが
その上を人が歩くようになったことで
人々に「橋」と認識され
この樋から小野川に落水する音が
ジャージャーと聞こえることから
別名「ジャージャー橋」
と呼ばれるようになった
…という流れのようです。
確かに、
ジャージャーすごい勢いで落水していました。
昭和の頃に一度
ちゃんと橋として整備したそうですが
現在の橋は用水としての役目はなく
観光用にジャージャー橋を再現して
造られた橋となっているようです。
そして
ふと空を見上げて気づいた街灯には
佐原の山車の装飾が施されていました。
ユネスコ世界無形文化遺産に
登録されている「佐原の大祭」
そのお祭りで使われる山車は
二層構造になっていて
上部に大人形
下部に佐原囃子を乗せ
町内衆により曳き回されるのですが
その様子が余すことなく
街灯に装飾されているのをみて
佐原は大祭を大切にしているんだなーと
思ったんです。
駅前のポストにも
忠敬さんとともに
大祭の様子が描かれていました。
レンガ造りの横利根閘門にも
行ってみたかったのですが
時間と体力の限界で今回は断念しました。
閘門が現役のうちに行ってみたいです。
そして
今回の散策のもうひとつの目的は
佐原で有名な鰻を食べること!
混雑時間をずらして行ったおかげで
すんなり入れた上、
私のお口には合いすぎるほど合っていまして
めちゃめちゃ美味しかったです…。
この鰻を食べるためだけに
また訪れる可能性が高い…。
すぐにでも再訪したい…。
それくらい美味しかったです。




