東京にのみ日本の未来が残っているように見えるのか。いや、そこには絶望しかないだろう。 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

コガネンは、武蔵小金井周辺に設定されている中央通り商店街のマスコットキャラクターである。このPVは、妄想の類の映像であるが、そのようなキャラクターは現実の商店街とはそれほど関係がない設定にしてあることも多い。しかし、劇中ではその中の人のクズっぷりがギャップのギャグとして描かれていたのである。このPVの歌の歌いっぷりも格好がいいわりに、後半の歌詞をよく聞けば非常に怪しい感じなっているのも絶妙であった。(人生~人生相談アニメーション)

 

東京都の人口、1400万人を突破

https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1591801267/

 

筆者としては、東京都に住むのは負けだと思っている口で、実際にそこに住んだことはない。しかし、東京周辺の地域に住んでいることは確かで、仕事場も周辺という意味で、東京から逃れられているわけではない。本来は、そうではないところで生活できるような状況が望ましくそれができてこその「多様性」も生まれてくるのだろう。外国人の多さもふくめて、いろいろな人のごった煮状態であることは確かだが、そういう野菜サラダ状態だけでは、いずれそれも腐っていくだろう。そういうものが生かされるのは、サラダの具がそれぞれしっかり作られる状況が必要なのである。要するに、各地方で人が生きて育っていくということ、各地で地元の人が中心になって民間が仕事をすること、そういう状況がなければ、東京の多様化も単なるカオスでしかなく、おまけに未来も特に紡がれないという現実があるだろう。

 

日本は、首都圏、とりわけ東京都の都市部に移り住むという流れ、東京一極集中という流れが、一貫して続いている。特に戦後は、一貫してその流れが止まらなかったということである。高度成長期は、それでも、太平洋ベルト地帯といわれた、東京から福岡にかけての地域に分散して発展を遂げてきたところもあったが、平成に入ってから、日本全体において、製造拠点そのものが海外に移転することも多くなり、製造業たる第2次産業が空洞化していっている。それでも、地方から太平洋ベルトへの移住が続いているが、そこの産業の衰えから、虚業が栄える東京への集中が加速したのではないかとみられる。

 

そもそも、地方は積極的に産業を誘致しない限りは働き口が多くあるわけではなく、製造業の海外移転も相まってその衰退が加速している。そのうえ、地方交付税を大幅にカットした1997の行革以来、その削減は進み続けている。何年か前に政府が掲げていた地方創生というものも、すでに出がらしになってしまっている地方同士を競争させたうえ、商社にのみ交付金を増やすというような、選択と集中という民間企業的な発想で、地方を選別している。全別から漏れた地方は存在価値がないかのような扱いであり、それでは、そこに住む動機付けが弱くなる一方であろう。特にいろいろな不満を抱く若い世代は、動きやすいうちに動く機会を得てしまう。その目指す先は、唯一地方ではない東京なのではないだろうか。

 

しかし東京も、冒頭で書いたように、多くの人が集まり、実態ではないところ、金融や株式などでカネが飛び回っているには違いないが、ただそれだけのものである。その裏付けとなる産業に関しては、確実にその実態を失い続けているのである。東京に若者が移り住んでも、そこにあるのは格差の大きな社会である。要するに大部分は安い賃金でやり過ごさなければならない現状がある。雇用形態も、正規雇用が大幅に減り、非正規雇用が中心となっており、本来は、その雇用の不安定分のリスクが賃金には反映されるべきだが、使う側は、安い賃金で、都合のいい雇用期間を確保するための制度として使っている。

 

そのような雇用を担っているのが人材派遣会社といわれるものである。本来、仕事を出す会社から払われるべきおカネを大幅に中抜きして、儲けるのである。中抜きされた後の賃金は、更に少なくなる。多重のこのような中抜き構造があることも珍しくないだろう。コロナの給付金請負の業務においても、電通から何重もの中抜き業者が挟まった上で、非正規の雇われ従業員が実働している状況が明らかとなっていた。すでに、仕事のやらせ方として、実際の労働そのものよりも、右から左に采配するところでの手数料で儲けることが「儲かる」ところになっているという異常さである。

 

モノづくりが失われていく、これほど大きな規模の国である、日本は未来はないといわざるを得ないだろう。そういう現実にもかかわらず、最後の残り香がのこる東京に、最後の浮島を目指すがごとく集まってくる人々は、安堵している間もなく、ひどい現実に直面するのだ。そのような状況を政府や国会がおこなう政治がちゃんと見ているのかといえば、安倍政権がやり続けてきた政治、もっと言えば、この20年以上で行われてきた政治は、そのような衰退する日本、モノをつくらなくなって、瓦解していく日本を直視せず、竹中平蔵に代表されるような、ひたすら企業がカネも設けさえすればよいという考え方を振りかざして、自らの身をけずり続けてきたのである。そのスローガンは、儲けなきゃどうしようもない。局所的、瞬間的な視点では確かに間違いがないように見える。しかし、実際に我々が生きていくときに考えなければならない時間軸方向の流れを勧化たらどうか。要するに10年先、20年先をどうするのかという視点である。

 

我々は、生きていかなければならない。もちろん、経済学で言うような、個性のない最適パラメータで都合よく動く粒子でもない。それぞれが感じて、生きがいを持って生きていかなければ、個人の人生もそうだし、社会そのものの活性化もなくなり、ひいては、未来に希望もなくなっていくのだ。現実からの直視をやめ続けたことで、それを持てる社会構造が失われてしまっていることに気が付くのが遅すぎたのである。あるべきものがない、状態なのである。つらい現実がそこにはある。まずはそれを直視して、我々はそれがつらいことを感じ取ることが必要なのだ。その気持ちをもって、必要な批判をし、政治に反映させていかなければならないのである。既存の日本政治のイデオロギー論争では、無視されてきたものを問題化しないとついえた未来は始まらない。