ボランティア精神が期待されるのは余裕がある者であって、生活を揺るがすことではない | ずるずると道・郷・話を愛でる

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https://mainichi.jp/articles/20190914/k00/00m/010/301000c

北村地方創生相 ダム建設「誰かが犠牲に、という積極的なボランティア精神で」
北村地方創生相 ダム建設「誰かが犠牲に、という積極的なボランティア精神で」

北村地方創生相 ダム建設「誰かが犠牲に、という積極的なボランティア精神で」

 

ボランティア精神とは余裕がある者が苦しいものに対して奉仕をするということであり。ましてや生活が完全に変わってしまうことを、ボランティア精神でやるということにはならない。

五輪の10万にボランティアも本来は仕事として行うべきものなのに、いろいろ言い訳をして、仕事にせずただ働きさせている。それが、戦争で、祖国のためになるという話であれば、まだ理由は経つかもしれないが、放映権がどうのこうのというビジネス上の都合でやっているというのであるから、日本人の労働や犠牲というものがいかに軽んじられているのかがよくわかる発言である。

 

このような感覚で国民を扱おうというのが、政商の下僕となっている政府の運営方針であって、そこには国民の生活の豊かさを求めることは微塵にも感じられない。まったくその実行が撤回されない消費税増税にしてもその理由は、輸出業者などへの優遇であり、国内経済をますます鈍化させても、それらの利益を上げることが実現されればそれでいいと思っているところだ。移民推進もそうである。国内の賃金低下や治安の悪化、あるいは食文化をはじめとする文化の破壊を進めても、楽に儲かって、後始末は日本社会に押し付ければよい。多文化共生が美名であり、それを果たすための自己責任だ、といっておけばいいのである。国民に寄り添って考えている政策ではないことは明らかである。

 

冒頭のダム建設のための立ち退きは、ダム建設のためには必要なことには違いない。

それを公共のために飲んでもらうためには、金で解決できる部分はしっかりと解決するべきだろう。もちろんごね得を狙うという例外もあるが、それを込みで、移動するのにできるだけ公平な手当てをすることが当然のことである。それを全く保証しないかのような言い方をしてしまうのは、立ち退く方がやはり国民であり、国民の豊かさを考えていないことの証拠だろう。政府が施行するべき国民の豊かさを考えれば、その生活の不安を十分に考慮する思考も自然と出てくるものだ。

 

我々が失いかけているのは、日本国民という意識なのである。

しかし、それにもかかわらず、日本人がバラバラになればなるほど、その豊かさを保障する基盤ももろくなっていく。それは、東京に暮らしていると市民にとっても当然襲ってくることだ。彼らはカネは稼いでいるかもしれないが、その豊かさの源泉はそれほど作り出していないのである。生かし生かされ、運命共同体という感覚がなければ、我々はもろとも衰退していくしかない。