機械的に行われることの恐怖。正論は合わせると正論ではなくなる現実を知れ。 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

 

与党日本政府が強力に進める政策、

移民推進、自由貿易、小さな政府で、能力のあるものに金を集めること。

それぞれに、正論というものがある。

 

多文化共生、多様性、多様な商売、無限に儲けられる商売、能力の小さな優劣が無限に拡大し、買ったものが大いにカネを稼ぐことができる。能力の当然の報いである、など。それぞれに正論はあり、それは底の部分を着とれば至極まっとうなものだ。競争で技術が切磋琢磨するというのもある前提では正しいことである。適度な緊張感はそれぞれの高みを目指そうという強い動機付けになり、日々の仕事の取り組み方も変わってくることだろう。それは、別に一人ではなく、グループとなって取り組んでもよい。むしろ、一つの分野を突発的に突き上げるものではなく、周りを巻き込んで、かつ、継続的に行うためには、グループで適度の盛大後退しながら取り組むことが大事だろう。

 

ただ競争もその緊張感が人間の耐えられるレベルを超えていくとどうなるか。それぞれの立ち位置によってその対応は変わっていくだろう。追いかけていく立場であれば、それを猛追することになるだろう。逆に追いかけられる立場であればどうか。今の立場を維持するにも追いつかれるとただでさえ耐えられない緊張が高まるので、場合によってはあきらめるかもしれない。しかし、競争の場を変えられるような考え方を持つかもしれない。そのような立場は偶然に得るかもしれないし、もともとそういう人脈があったりするかもしれない。いずれにしても、その緊張に耐えられないで、競争の場を変えられるオプションを持っていれば、v競争を続けるのではなく、競争を有利にするために、競争の場を弄ろうとしてしまう。

 

そういうところから、競争が競争でなくなり、勝ち負けを境にその格差が大きくなっていく。それがある程度を超えると、お互いに競争する気持ちもうせてしまうのである。それは、停滞を意味する。しかし話はそこで終わらない。そんな状態で競争の場を激化させ、勝ち負けの格差を決定的にしようとするのが、勝ち組の考えだろう。その時点で勝ち組と負け組の比率は勝ち組が相当小さくなっており、富を独占し始めるのである。結果として、社会の富の偏在は無視できない状況となり強靭な格差社会が出来上がる。国民のうち自由な人生を送れる人間はほんの一握りの人間に限られる。その状況は、「自由」競争が保証してくれるのである。政治など、競争の場が相当に変更した形の自由競争である。自由とは、そのような力がるものがそれを有利にするという自由もこみの自由なのである。そこにもたらされる世界は貴族と奴隷のような階級社会に近いものであろう。それはほぼ固定化され、どこに生まれたかで完全にその人の人生の自由度は決定的になる。自由になる人になる確率は悲しくなるほど小さいことは言うまでもない。

 

自由に生きる国民を増やすには、このような状態を避けなければならない。それは、競争の場を格差を拡大するように、規制もない自由なところで、政治力を発揮した勝ち組のやり方が間違っているのである。自由や競争だけを単独で取り出せば正論であるが、それを野放図に伸ばし続けるとどうしようもなくなるというのが人間社会というものである。勝ち組だの負け組だのと言っているが、いろいろな面で各人が持つ高い能力も低い能力も、人間社会を回す、その場を強靭に安定化することを無くして、結果的に人生の自由が得られるわけではない。上述とは矛盾するような言い方ではあるが、人の自由も社会が多くの人々の自由がなせる業なのである。

 

そのバランスというのは、その時々で見つけていかなければならない。古典力学の運動方程式のように世界が無矛盾な数式で記述できるほどきれいだが無味乾燥なものではない。いろいろな欲望が渦巻く人間社会では、そのすべての願望を聞くことができないからだ。ぶつかり合う矛盾に対して全体でバランスをとっていくことは、その時々のやり方を勧化てやっていくしかない。それは間違っていることも多いがおおむねどういう方向に進んでいっているかということに敏感になって調整していくしかないのである。それ故に、何十年も同じように適用できる政策も、税制もあるはずもない。

 

消費税増税は、1975年あたりに提唱された直間比率の見直しといわれる税制改革が続いているものである。当時の状況と今の状況とは全く異なるし、リフレ政策の錯誤によってカネだけは景気よく回っているが、実体経済からはむしろカネの動きはなくなっていっている。日本を見れば、単に生産をしなくなっているという現実を見なければならない。国家というのは国民が豊かに暮らすために文化も含めたことを総動員してうまくやっていく共同体であり、国際的にも共通認識となっているものである。それがうまくいっているかどうかすらうまくみられない状態は相当まずい状態であることを認識しなければならないだろう。

 

MMTが、緊縮財政を打破しようとする経済政策を補完する内容を言っているということで、一部の経済論壇が喧しいが、問題はそんなに小さなところで収まるものではない。穴だらけの前提のMMTが総崩れになったとしても、積極財政の考え方は、今の日本の復活には不可欠なのである。そこには、機械的に決められる政策などはない。MMTも経済理論である意味では機械論的なものであり、常に修正される状況に耐えられないと意味がないといえるだろう。文句をつける側も、パズルを解くような管区だったり、敵味方しかいないというような二元論で考えるような偏狭なものの見方はやめた方がいい。問題は技術論よりは、もっと上の方にあるのだ。