日本衰退を晒す自虐オリンピックは勘弁 | ずるずると道・郷・話を愛でる

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オリンピックが盛り上がらない。

 

盛り上げようとしているが、お祭りにありがちな、それにかこつけて勝手に盛り上がる勢いがない。

そもそも、経済成長や経世済民につながる事象が起こっていない。

聞こえてくるのは、建築費のカネを削減しただの、無償のボラインティアの強制募集を書けるだの、無い知恵で工夫しただのという、より経済活動を「怠ける」方向の話ばかりだ。

災害の立ち直りの原動力にもなっていない。

豊洲の女はいったい何をしているのだろうか。

当初はあり得た驚くような競技場施設も報道もないせいか、その準備のワクワク感も伝わらない。

経済を回す仕事を減らすことにつながるボランティアの無茶ぶりばかりが目立って、そこまでして緊縮でやりたいお祭りなのか。

東北復興のアピールもないこんなオリンピックは、ただのスポーツ競技大会以上の価値は見いだせないように思う。

 

そもそも、お祭り感もないこのオリンピックに開催する意義があるのだろうか。

 

東京荒廃で縁起が悪い?『AKIRA』アートに驚きの声 渋谷パルコに改めて聞いた

 

やっても衰退する日本の衰退状況を世界にさらすだけで、がっかりする訪問客も多いだろうし、そもそもおもてなしする日本人がおもてなしを自分たちの生活を差し置いて必死にやらないという状況で、沈みゆく自分たちの醜態を間接的に知ることになってしまうだろう。

 

緊縮と殺人の東京五輪「国家戦略特区Blog」

水害の後に襲ってきた梅雨明けの猛暑は、地球規模の異常気象の日本を襲う定例化しつつあるものなのかもしれない。当然、来年、再来年もそれを襲うこともありうるだろう。それを考慮しての準備というものはあったはずだが、そんな「おこるかどうかわからない」ことに対しては、新自由主義的な考え方に基づくと、「無駄」なのである。

”計算上”の無駄な苦労をして「儲からない」ことをやることは意味がないという空気となってしまうのである。想定リスクに対しては「過剰品質」とも言われたものを言われたままになくしていった結果としての日本製品の凋落とダブって見えるのは筆者の気のせいなのだろう。

 

しかしこの大会は中止にはならない。国際公約という言葉に廃用に義務感を感じる政府幹部たちがやめるわけはないだろう。

 

このまま、リオ五輪の閉会式で晒した”醜態”マリオ安倍晋三が首相のまま大会を迎えで、お祭り感もなく、外国の競技を見るかのような距離感でそれを眺めることになるだろう。そこには、これから良い時代になっていくという高揚感もなければ、実際にそんな形で生産にいそしむこともない。隣の中国にモノづくりもその研究開発も奪われてしまい、新しいものも生み出す気力も失っていくのである。

 

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なんやかんや言って、あと2年に迫っているオリンピックは、そんな形で開催され、そこに向かって作られるものは、当初の計画から比べるとしょぼい競技場ぐらいで、それ以外に何も残さない、大きくなる気持ちも残さない、精神的には惨敗したものではないだろうか。そこで、日本の衰退っぷり直に感じることになれば、それはそれで、この大会の意味はあるだろう。それでもなお、経済活動の目的がカネもうけで、人の作ったものを奪い取ることが労働だと勘違いしている状況が続くのであれば、この大会を開いた意味も意義も全くない、どうしようもないものになってしまうだろう。

 

2回目の五輪がこんな状況になるというのは、ある意味1980年代の漫画・アニメであるAKIRAで示されていたことであるが、そのような悪いフィクションが本物になるというのは何というギャグなのか。すでに、笑う気力を失っている人々に見せても笑いが返ってくることはなさそうである。