生きるとは死ぬことと見つけたの? | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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佐倉市が誇る漫画家モンキーパンチが構想12年で実現したアニメは当時制作費も少ないBS放送枠で作成された。決まったこととリソースの調達の調整がうまくいかず指示もろくにうまくいかないままに動画が中国発注され納入のおくれからろくな調整もできず語り草となる品質となってしまったのである。それを制作するために作られた制作会社も既に倒産するほどの商業的には失敗だったものだが、別の意味で心に染み入るものとして光り輝いているはず・・。

 

 

入水による自殺の一方があったのがいろいろあった一月の下旬。その用意周到さは、遺書に始まって最後に水死体の最たるものである土左衛門にならない実に容易の良い方法だった。しかし、その用意の良さは、どう考えても、引田天功バリの器用さがなくては一人でできるものではなく、よく考えれば怪しさ抜群だったのだが、なにか美談にしてあげたいような気分ではあったがゆえにそれに触れずにいたかった気持ちも確かにあった。


 

何週間か前から自殺幇助の疑いで再調査するという警察の発表がありその捜査の結果が、西部ゼミナールを制作していたMXテレビの子会社のディレクターら2人の逮捕ということであった。西部氏の詳細な人脈は知らないが、当人の遺言の一部にもなるような内容だった一月の放送の計画の中でそういう話があったのかもしれない。(MXテレビの判断で、最終回と追悼番組の動画が削除されていた。何か注釈をしないとそのままにしておけなかったとみられる。)

 

報道ステーションではこんな報道になっていた。番組制作担当者と塾頭の名が。西部塾頭は最終回の対談相手であった。そこまで引き受ける必要があったのかやはり考えさせられる。

 

その中で、病院のベッドの上の死が今の世の殆どの死に方で、それはある種の自分の意志とは異なるところの意思による死期の制御のなせるものであり、自然な死とは程遠いものだと。それならばせめて、自分でその寿命の制御をする究極の手段である自殺をして死にたいということを吹聴していた。昨年の10月の衆議院解散の日に最初の実行をしようと拳銃の入手を試みたが失敗し、諦めたが、その後、遠からぬ時期に再挑戦したいと言っていたのだろうか。明らかに、一月放送の西部ゼミナールの内容はその向かった準備であった。

 

しかし、その究極の死期の制御である自殺さえも自らだけでは実施できず、しっかりと「介錯」をする人間が少なくとも2人は必要で、彼らにある種の罪を引き受けてもらうことでしかなり得なかったのは、皮肉である。実は自分ではその程度にしかコントロール出来ず、介錯人によりなし得たからである。もちろん、行方不明のまま、唐突に正体不明の死体として見つかるか、見つからないまま東京湾の底に沈みゆくかという形であれば、自分だけでも出来たかもしれないがそれにしても、もう少し早くに見つかって、命は助かってしまうかもしれない、それで障碍を抱えて生きながらえるかもしれない。なかなかきれいに、思い通りにはいかないものである。もちろん、服毒や拳銃による死もそんなに綺麗な終わり方でもないだろう。交通事故や飛び込みがひどい有様であるように、ある意味無様な死に姿を晒してしまうのだ。

 

そういう意味で、すべてが綺麗に収まる死などはなかなか当人の意思通りになることは稀であり(それこそ、夜寝たまま朝に起きてこない、という最近あった死に方がきれいな部類かもしれないが)死にゆく人にはその部分は制御できないのが、普通なのである。

 

あとは、死にゆく人に残された生きている人々に残されたものが何か、ということだろう。過去の行動によって、生き方や考え方が形成されたということは大事なことであり、そういう人脈は大きな遺産となる。あとは、それらの人脈が活動しやすい仕組みを残したかどうかということだろう。

 

本物なんてあるのだろうか。

 

上記ブログで触れていたが西部氏は、表現者というボランティア的な定期刊行物(商業ベースには全然乗らないが広げたい思想人の同人誌的存在)を、藤井聡氏に託していったが、それと対を成しながら、何十倍もの視聴者を確保できていた西部ゼミナールという10年来の番組を終わらせてしまったという事になってしまったのは、大きな禍根だったと。それは自殺幇助にあたる「介錯」担当までしてしまった番組関係者の気持ちの区切り方としては、番組の終了は避けがたいものであったのかもしれない。しかし、それだけに、事実上の一般向け表現者番組という番組枠の引き継ぎができなかったのは大衆社会に対する絶望の先の希望を打ち砕くぐらいの、汚い内容だったのではないだろうか。

 

おかげで、表現者のメディアは、KBS京都のラジオとなり、その浸透力はおそらく西部ゼミナールがその前番組の立川談志の番組の流れを考慮すれば、かなり小さな物となってしまっている。おはよう寺ちゃんや表現者のラジオをあわせても、西部ゼミナール動画の浸透力には遠く及ばない状態なのだ。

 

【藤井聡】西部邁氏の自殺幇助者の逮捕に思う ~「言葉」からズレた「振る舞い」~「表現者メルマガ」

きれいな話にはできなかったことのやるせなさは計り知れないかもしれない。ゼロからと言うよりはマイナスからの出発になってしまった。世界は矛盾に満ちたものなのではあろうが。

 

きれいな死に方とはなんなのか。

死ぬという現象は、自分では観察できず、結局は残されたものがそれを見届けることになるし、その後始末やその影響を受けるものである。

きれいな死に方、というものがあるとすれば、本人が感じる無様さよりは、何が残されたかということで、それは感じられるものなのかもしれない。

 

保守主義者の死に様などという高尚なことは上手くまとめられないが、自分の死に方としては、やはり素朴な思い、生きててだいたい良かった、と思える生き様というのがその答えに近いものなのだろう。それはきっと、死にゆく自分の中にあるわけではなく、死ぬ時に自分がはられて残された世界に、自分が残してよかったものがどれだけあるか、ということでその「良かった」が決まっていくのではないだろうか。結局は、生きている時にどう考え、どういう規範で行動しようとしたかという経験やその結果残っていったものでそれは決まっていくのだろう。

 

恐らく完全完璧なきれいな死に方は出来ないというのは、究極の良き行動・思想なるものは存在し得ないことから来ることであるが、だから、無茶をしていいという馬鹿な結論ではなく、矛盾を抱えながらもそれに近いかたちを模索して少しでも多くそれが残していけばいいということなのだろう。

 

自分の生きる社会を良くしたい。というのはその基準点なのだと思う。

考えすぎるのもうまくいかないし、当然、自分勝手すぎることを詭弁で押し通すのはもっと良くないのだ。その間の絶妙なバランスを探していくことが、きれいな死に方に近づく生き方なのではないだろうか。

 

こんなトークもあります。

 

なんだか、捜査の内容がいろいろ出てくると、どっちもどっちな感じもしてきた・・。

自裁というものがが一人で死んでいくこととすれば、それは、自裁ではなくなんというか、儀式めいたもののような・・。

 

ほう助の2人「入念に下見」 遺書も代筆、西部さん自殺 
https://this.kiji.is/354914359346578529

 評論家西部邁さん=当時(78)=の自殺ほう助容疑で逮捕された東京MXテレビ子会社社員の窪田哲学容疑者(45)ら2人が、事件前の準備について「昨年12月ごろ、現場付近の下見を入念にした」という趣旨の供述をしていることが6日、警視庁捜査1課への取材で分かった。遺書も代筆したとみられる。

 西部さんの体に結び付けられていたロープや懐中電灯は、昨年9月ごろから用意していたことが判明。捜査1課は、2人が時間をかけて計画を進めていたとみている。

 捜査1課によると、西部さんは今年1月21日朝、東京都大田区の多摩川の中で見つかり、死亡した。

 

絶望した!

死ぬことは、残されたものには何らかのショックを与えるが、今回の結果は上記のマンガの最終回の落ちの凄まじさにも勝るとも劣らない、リアルな人生を巻き込んでいることを考えれば遥かに凌駕していることではあるだろう。

 

更に、こういうこともあると気が付かせられた。

 

入水こそ日本沈没だったのか?! または西部先生のクライテリオンを問う2018/04/07 • 8:00 PM

『表現者クライテリオン』も大変です。

逮捕された窪田さんが所属するMXエンターテインメントは同誌の版元。

となれば、普通に考えて同誌からも撤退するでしょう。

 

新しい版元から出すしかないと思いますが

刊行スケジュールは維持できるのか?

 

だいたい西部先生のクライテリオンが

ここまで崩れていたと分かってしまったあとで

「表現者」の看板を掲げつづけるべきなのか?

 

ついでに16日発売の第2号(通巻78号)は

まるごと西部邁追悼号。

何というか、これ自体が宇宙のジョークという感じではありませんか。

藤井さんが激怒するのも、もっともと言わねばなりません。

保守言論のまともな発言チャネルの継続も揺るがされることまで起こしているのである。

保守というよりは、リセットボタンに近い行為だとも言えそうだ。