国力復元のために経済自由主義打倒を | ずるずると道・郷・話を愛でる

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房総半島から栃木県北部を中心として、
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シフォン主義。ではなく、資本主義がうまくいくと国家は経済発展していくのだ。

そうならないというのは、うまくいっていない証拠である。日本は下り坂をひたはしっている。

その元凶は、経済政策を打ち出す土台の常識が経済自由主義というものに染められているゆえである。

支配者層であるエリートや政治家も当然のことながら、そんな間違ったことに対して批判もできない状態の国民も同じ思想世界から抜け出せないのである。

 

 

中野剛志の著作「経済と国民」を読んだ。親書サイズで、事実上のこの著作の前巻的な、「富国と強兵」に比べたら、文字数はだいぶ少なく、読み切るまでに1か月は見る必要がある・・ということはなさそうではあるが、読み込むと考えさせることがあり、同じ文字数でも、その読み進むスピードはほかの本に比べても遅くなりがちであった。通勤時間を利用して読んだが、2週間ぐらい要した。もちろん、ずっと読んでいたわけではない。むしろ、区切りの章で読むのを止めて、いろいろ施策したくなったのである。

残念ながら自分のような凡人の頭のワーキングメモリでは、ためておける分量は限られているため、前半で感銘を受けた部分の記憶があいまいになってしまっているのが気になるが、とりあえずそれはわきに置いておくことにしよう。

 

最後の「リスト追悼」という章はリストの主著とその数年後に拳銃自殺を図らなければならない人生について、現在の、先進国の国民を苦しめている経済自由主義がなぜここまで影響力を発揮するのか、ということを、まとめている。そして、「富国と強兵」のように、これからの身の振る舞いについての短文を最後に示しているのであるが、「富国と強兵」の時よりは若干希望があるような記述になっていたように思う。

 

たしかに、経済自由主義(経済成長を否定する主流派経済学に基づく、様々な政策をとる考え方、自由貿易、緊縮財政、それどころか、GDP対比率の上限なども含めた財政健全化という方針そのものも含む。労働者の移動、万人の情報の平等性の仮定など。)は、識者と呼ばれるグループの中で、経済学会の中で、「教義」に反する研究者の評価を下げ、その業界で生きていけなくするという仕打ちで、経済自由主義を「主流派」のままで事故強化し続けるだけに限らず、それから流布される言説を、政治家や経営者、そして、池上彰のようなわかりやすい「説明」をマスコミを通じて、国民に流布されるのだ。それは、経済自由主義を教義として、その中で生き抜いてきた経済学者という「威厳」を背景に無批判に信じ込まされるのである。無批判にそれが正しいと思うのである。

 

しかし、日本のいつまでたっても脱却しない20年デフレのようなことがあり、その教義の真義に疑いがもたれるような状況が生まれているともいえる、この状況においても、それが力を持ち続けるのは、人間の本能的な心理である、不安からはできるだけ早く回避したいということというのである。

 

その逃げる先として、経済学会(その権威付けに大いに役立っているノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞も、登場の経緯からして新自由主義の流布に「貢献」しているという)にて「威厳」のある、経済自由主義の「教義」は、信じてしまえば、不安感からは解放されるのである。そして、それを信じるために、現実がその教義に対する矛盾を提示しても、それは、ちょっとした例外事項であるとみなすような「認知的不協和」でそれをごまかすのである。そうすることで、その教義、経済自由主義に対する「信仰」は、最初の時より強化されていくのである。

 

通貨を経済を回すための道具であるとして、通貨発行権のある国家レベルの経済では財源という考え方は必要でなく、税金すら経済行動を調節する道具であるという話である、機能的財政論が現実にかなり沿った考え方ではないだろうか。しかし、それは、収支の均衡で安定化するという仮設を振り回す主流派経済学では、ありえない話なのであり、異端児の発する、(主流派経済学思想を破壊するというだけの意味で)危険思想扱いされ、教会が教義を守るために教徒に課した禁書目録に登録するが如くの扱いにするべきだと思っているらしい。

 

どこかのハゲのように念仏のように教科書を読め、とひたすら叫ぶ姿にそのまま重なる話である。

 

 

その様子は、チャンネル桜の水島社長を例に出せば十分なのではないだろうか(あるいは、ブログランキングの政治部門の上位50のほとんど)。最近の彼が招集する経済討論には、経済自由主義の協議に染められていつまで経ってもデフレ脱却できない、安倍政権の経済政策、移民政策などについての議論が行われる。その中に、三橋貴明氏や藤井聡氏、あるいは佐藤健志氏を入れることはあっても、圧倒的に、教義に染まった経済学者や、元官僚、経済ジャーナリストや、経済に疎いという安倍信者で固めていくのである。当然ながら司会者が安倍信者という立場を全く隠しきれていないところも注目するべきであろう。安倍という唯一の救世主と思い込んでいるがいなくなったら怖いという不安感の塊なのである。

 

言説的な話でいうと、一言で、

 

経済自由主義そのものが間違っている。まったく現実とリンクしないものである、

 

ということなのである。場合によってはそれを認知の端っこの端っこには触れている可能性はある。

しかし、それを否定してしまうと、これまで信じてきた安倍を否定することになり、それ以外には取り付く島のない状況という不安に駆られるのである。だからこそ、間違ったことをし続ける安倍に縋りつき、よかった探しをし続けるのである。それは実際に起こっていることについて、悪いことを全く認知できないレベルにまで思考停止が進んでいる。あるいは、統計泥棒こと高橋洋一のように無自覚に自己保身も交えながら話をしてしまうこともあるだろう。それを尊敬するなどということを言ってしまえる一般国民も当然その流れの一部なのである。

 

 

 

 

水島社長の言葉からおそらく取ったのではないかと思うが、「批判をするのは簡単だ!じゃあ、どうするんだ(脅)」という言葉に対して、実は、批判をすることは、そんなにたやすいことではない、と中野は言う。真面目に批判すると、その業界で異端児にされることぐらいならまだましで、経済自由主義に染められた一般国民からも、さげすまれ、無視されるという状況が起こるということである。済(すく)いたい民からさげすまれることは、愛国者としては、万死に値することに思うというのである。まさに、水島社長のような巨体で威圧的ないい方で、お前は間違っている、ここで恥をさらせ!と言わんばかりの態度は、水島社長だからどうでもよいと思えるかもしれないが、それでも、それに賛同する国民は多いという現実を踏まえるとあながち笑ってられないことである。

 

フリードリッヒ・リストはそんな絶望的な思想世界の中で生きていくことを絶望して自殺してしまった。

 

しかし、リストが経世済民の国家を作り上げるための指南書であるとみた、ローマの歴史から書き上げた君主論を著したマキャベリの言った言葉を見落としていたかもしれないというのである。

 

どんなに追い込まれた状況であっても、歯を食いしばって、続けると運命は変わることもある。

 

そんな趣旨の言葉であったか。敵だらけの世界でも、例えば、あまりに深刻な経済不調で、国の土台が壊れてしまいつつあるところまで負いk間れた、欧米では、あれほど強固に続いてき、移民政策についてもほころびが生まれつつあり、アメリカでも国内に製造業を回帰しようという取り組みも行われつつある。

国家というものは、(主流経済学のいうように)均衡することはなく、(自己強化メカニズムによって)上り調子しか、下り調子のどちらかにしかならないというのである。日本は、明らかに下り調子になっている。経済自由主義の自己強化メカニズムによって、止められないのだ。

 

国民が死ぬ思いでそれを逆転させることに至るまでに、それをひっくり返して、上り調子にできないか、というのが、経世済民が国家の進む道だと信じる我々の活動の源泉である。苦しんでほしくないのである。

しかし、気が付かないうちは、それをさげすんで馬鹿にすることさえしてしまうのである。普段の会話や飲み会での与太話で、うまくいかないのはそういうことではある。しかし、何らかの形で吹き込んでおくことは無意味なことではないだろう。反転させたときの自己強化メカニズムの早期活性化には役に立つだろう。

 

下記のリブログにあるように、公助で、個人の活動の自由を保証した世界で、心配な部分を減らした上で、最小限の自助で活動できるようにすることが、各国民が最大限活力を得、発揮する環境であり、決して、公助を減らして、自助にたよることは、消費税をひたすら上げるのと似て、個人の能力を貶めていくだけである。カネだけは持っている連中にカネをもっと集めるだけで、能力を多くの国民が発揮することになならないのである。公助を行うのは政府であって、その役割を縮小していくことは、個人を不安や心配事に忙殺させて、国力に繋がる活動をする活力をそいでしまうのである。財政健全化を意識して、支出を渋る、デフレで疲弊した(しかも、個人の経済の低空飛行も20年も経って、自分たちあ疲弊していることすら相対的に気が付きにくい)多くの民から税金をむしり取る消費税の税率アップは、国家としての力を結果として大きく毀損する活動なのである。