アナタがみている右も左も移民推進だよ | ずるずると道・郷・話を愛でる

ずるずると道・郷・話を愛でる

房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

□前提移民バンザイの社説

 

ポリティカル・コレクトネスの一つである多文化共生社会という謎ワードがあるが、これを無根拠に肯定している前提があってこそのこの記事である。

 

【朝日新聞社説】外国人との共生 生活者として受け入れを

 

 いわゆる移民政策は考えない。これが政府の方針だ。 
 「いわゆる移民」とは何か、政府は語らない。ただ、欧州を中心に移民・難民がさまざまな摩擦を生んでいる現状を見て、「移民」に神経をとがらせる。 

(中略)

「未来への投資として、定住外国人を積極的に受け入れていくことが求められている」 

まずは現実を直視し、議論を始めたい。政府と国民がともに考えるべき課題である。 

http://www.asahi.com/paper/editorial.html?iref=com_gnavi

 

朝日新聞の社説である。こういうのをいつも誰が書くのかというのが気になるが、ともかく新聞社の連中が文句をつけない程度の意見表明というところであろう。

中略したところは色々ごちゃごちゃ書いてあったが、まとめると上のようになった。

 

移民やっているのに、移民でないと詭弁する政府。

未来への投資として移民を積極的に入れないといけないと思う朝日新聞。

どちらも移民を積極的に受け入れる方針では一致しており、そもそも移民を減らして国家社会が昇華しきれる人数に減少させる、という解決方法が提示されていない時点で、全く納得できる内容ではない。朝日新聞が、人の意見を提示することで、自分の口で言わない、移民促進のことにしても、その弊害を中略の部分で色々書いているくせに、考えるべき課題、とか意味がわからないのである。この意味のわからなさは、本当は議論の余地が大いにある、移民を増やすべきか、という根本的な問題を、勝手に肯定的な結論として取り扱っていることに問題がある。ここがこの問題の本質である。

 

多文化共生という言葉は、美しい言葉であるが、実際に多くの文化をその辺に並べてみれば、文化館の衝突があるのは火を見るより明らかだろう。ネトウヨも大好きな在日朝鮮人文化との矯正においても様々な衝突が見られていることは明らかであり、異文化がお互いにお互いを認めあって尊重し合う!というような、「理性的」な対応ができるという「理想的な」世界がどこにあるのか?あるいは、どうやったら作れるのか?などの質問にすら考えようともしないし、答えも出さないで、移民を受け入れさえすれば、あとはなんと中る・・というようないい加減なやり方で導かれるのは、社会の学級崩壊化しか見えてこない。

 

□現実を直視しなければならないのは新聞社自身(天唾である)

 

いみじくも社説の中略の部分でも紹介していた、日系ブラジル人の話やヨーロッパの移民による、文化の破壊ということに対して、朝日新聞的にはどう責任を取るべきだ、というのか、あるいは、誰がその被害を被って、どのように振る舞えというのか、ということ真正面から態度に明らかにしない限り、この問題をホンキで考えていると言えないのである。

 

まずは現実を直視し、議論を始めたい。

 

まっことそのとおりである。現実、移民を受け入れることで生じている現実を直視し、それがどういう厄災をもたらすのか。そして、あるのであれば、それをどのように解決する方法があって、それに寄って、つくられる新しい日本文化というのは何なのか、ということをぜひ社説で議論してほしい。移民の問題を直視することは、単に、ポリティカル・コレクトネスの無謬性を勝手に仮定して、お前ら考えろよ、ではない。それは全く問題の本質を無視している話であり、無意味な前提に基づく議論であるので、意味はない。

 

どうせそんな方法は思いつかないし、そのうち社員自身やその子弟にも移民による災禍が降り掛かってくることがあって初めて、・・・・こんな無責任なことを言ってすいませんでした・・と言って新聞社を離脱する・・・という形になるのであろう。そこまで物理的に問題を直視せざるを得ない所まで来ないとわからないというのであれば、ジャーナリストとしても使命は全く果たせないのである。

 

かれらの本分は問題に気がついてない一般人に、取材を通じて問題を一般人に先んじて直視し問題を提起するのが彼らの本来の仕事である。それにもかかわらず、理想主義におぼれて浮世離れした話をしているだけでは、単なるフィクションである。フィクションにしても、現実の問題をモチーフにした作品がある中、そうでないフィクションとしたら、ある意味ファンタジーの世界やエロ本の類と同じなのかもしれない。

 

この社説は、いわゆる右も左も現実を直視していないことを示しているという意味では、興味深い文章ではあった。心では、安倍政権の批判をしたかったのであろうが、じつは朝日新聞と同じように世界市民として第三世界からの移民を受け入れたくてしょうがないのである。政権の方は、中国からの農民工の受け入れ、朝日新聞は、中東難民的なムスリムの受け入れをイメージしているのだろうか。全く似た者同士で、移民による日本文化、日本社会の破壊についてむとんちゃくなところも全く似た者同士である。こんな低レベルの軸で世界を見ている状況では、先が思いやられるとしか言い様がないだろう。

 

 

□新聞社ネットワーク?

 

この朝日新聞の社説と同じような構造の社説を道新(北海道新聞)の社説で書いているという記事があった。また冒頭は、下記の記事に紹介されている、メリル・ストリープの演説とそれを受けたツイッター上の言い争いの話らしい。

メリル・ストリープ演説:ハリウッドとメディアのコラボによるリベラルの常套手段<(`^´)>


社説、言い争い、そもそもの発端となったメリル・ストリープ演説にせよ、一言で言えば偽善的な物の言い方である。一方的な側面での正しさのみを強調する、いわゆるポリティカル・コレクトネスの問題である。世の中は複雑であり、中でも社会がうまく機能するためには、そういう一方的な物の見方での正しさを追求しても、うまくいかないのである。しかし、それのみが正しい姿だと思いこんでいる連中は、世の中にとっては偽物の善である、偽善を振りかざすのである。それがポリティカル・コレクトネス。アメリカでは、ぺっらぺらの移民国家の歴史だけに、重厚で緻密な社会を作り出す経験も見識もないのか、こういう、一方的な善の押し付けであるポリティカル・コレクトネスが世界一はびこっている。それに追随するのは、イギリスであったり、EUのドイツやフランスだったりする。そして、そんな姿を見て日本が周回遅れで追いかけてきているのである。本当のアホである。

 

□それでも、移民、大丈夫じゃないの・・と思ってしまうのは。

 

それでも、実際のところ、移民は受け入れても大丈夫なのではないか・・・;という感覚の人もいるようである。

 

その甘い感覚というのは、その人のみている移民候補である第三世界人に何らかの形で親近感を覚えているという体験があるからだろうと思う。

 

たとえば、おそらく・・・東北の田舎に迎え入れられたフィリピン妻とか、あるいはフィリピンパブのおネエチャンに親しくしているとか、フィリピンでテレビ局やってたから共感を持つとか、ベトナム人と仕事をしているとか。インターナショナルなシェアハウスに住んでいたとか。

 

気持ちは分からないではないが、タダ乗り上等の第三世界ムスリム移民が10万100万単位で流入しているヨーロッパの、ドイツ、フランスの支配層ではなくて庶民の現在の苦悩、そして、行き着いた先の移民天国、生粋のスウェーデン人の地獄の惨状を見れば、そんな甘いことはないことがわかろうというものである。自分たちの生活や文化を守っていられるというレベルを遥かに超えた規模の話である。

 

なんか、やさしいところだけを見て、うまくいきそうだと思っている状況と、移民・定住・安い賃金で働く、出身国を追い出された下層の第3世界人の「文化」を背負って、いかにタダ乗りするかばかりを考えた連中が、大量に、広範囲に、入ってくることとは、見た目は優しい話とは、まったく次元の違うレベルのものであることを敢えて客観的に認知するべきである。

 

移民”戦争状態”地帯、ヨーロッパでは、ロンドン市長がムスリムという異常事態に見舞われ、移民に絡み取られたEUから離脱する英国は、何にも増して移民を制限したいというのである。ここまで追い詰められている。はたして、大陸側は一体どうなっているのだろうか。

 

英、移民制限を最優先か 17日演説で首相表明と現地報道 2017/1/15 20:21

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM15H1J_V10C17A1FF8000/?dg=1

 

   

 

--8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----8<----

追伸、

 

昨日、また、君の名は。を鑑賞してきた。17回目となる。ここまできたら、どうでもいいから20回は行ってくれという謎の声援もあったりするのであるが、それとは関係なくやはり機会を捉えると見に行ってしまうのは何かを洗い落としたいと思う欲求が溜まっているからなのか。

今回見たのは、品川プリンスホテルに併設されているTJOY品川プリンスである。そこには、IMAXシアターが併設されており、そこでは、2週間限定上映中のIMAX版「君の名は。」も一日3回上映しており、しかも、19:10~という絶妙な時間から開始する回が設定されていたので、それに合わせて品川に向かえるように調整を行った。JR品川駅に到着したのは18時50分頃である。もう少し余裕を持って行きたかったところであるが、まあ、長く待たされることなく見られる時間であるので良かったのかもしれない。

 

T・ジョイPRINCE品川

 

駅から映画館までは歩いて10分もないぐらいで到着する。品川プリンスホテルに併設されている映画館なので、まるで品川プリンスに向かっているかのごとくに入っていくのが面白い。

予約せずにチケットを購入する。幸いなのかそこまで混み合っていないので、いい席からチョットずらせば問題なくその場でも指定席が取れるのである。日曜日に行った成田HUMAXのIMAXでは、少し前気味の席で見たのであるが、それは結構正解だった。目の前に広がる大画面が視界ギリギリまで広がり、没入感を最高に仕立ててくれたのである。今回もその経験を踏まえて、中央よりは前気味の席を選んでみた。ちなみに値段は2300円である。都会においては、+500円が標準なのか。成田の+200円が安い感じがする。

 

品川TJOYのIMAX劇場は、通常の映画の劇場の箱とは違う建屋に入っている。隣の宴会場の建屋の上階に位置しており、エスカレータで3階から6階まで上がって入口がある。ここは、IMAX劇場の箱が1つあるだけの専用エリアである。そんなことも事前に知らなかったので、飲み物ものと軽食のセットをチケット購入横の売店で購入して、そこまでのルートを持ち運んでいったのであるが、なんとなく普通のエリアを映画館の飲食セットを持ち歩きながら行くのはこっ恥ずかしい。しかし、それを偲んでいった先、IMAX劇場のところにも売店が用意されており、そこでかえばよかった。これは、一度はいっておかないと気が付かないところであろう、残念ながら。

 

さて、ここでも、IMAX劇場専用の売店に続いて、休憩場所がありそこの先には、模擬路の入口があった。入ろうとするときに、前方に、男女のペアが歩いていたが、大学生料金で入っていったところをみると、大学生なのだろう。男は何度か見た様子であったが、付き合っていると思われる女子は、年末の紅白歌合戦のRADWINPSの前前前世(作品中盤の入れ替わりエピソードを加速する場面で使われる)を聞いて浮かれているようなことを嬉しそうに語っていた。男の方は、いや、やばいから、泣くから。と言っていたが、果たして本当に泣くのかどうか。ちなみに、お一人様できている当方は、泣く気満々である。しかし、しっかり泣けるかは少し不安であった。さすがに日曜日に行ってから2日ほどしか経っていない状態で見に行っても、新鮮さに欠けてなくどころか、ついに飽きてしまうのではないか!と少し恐れていたところもあった。

 

品川のIMAXは、予約の画面で気がついていたが、席もその大きさにしては、奥行きがない感じである。実際に言ってみたらその理由がわかる。普通の劇場より奥行きがない、急斜面になっている、ということである。予約画面の席の一覧が妙に縦が狭いというのはこの座席の配置による。

 

座った位置は、だいぶ前にしたつもりであったが、まだ前に行ったほうがその迫力があるような感じがした。それは、たぶん、成田HUMAXのIMAXとの比較のせいなのかもしれない。

端的にいえば、成田HUMAXのIMAXの方が、品川のIMAXより、画面が大きい。今回座ったところでは、視界の端っこにしっかり画面の端がわかるぐらいの視界の状況となっていた。成田は、もうちょっと、視界を越えたぐらいのところに画面の端が広がっていたような印象である。そういう意味で、品川では、敢えてもっと前に陣取れば良かったのかもしれない。実際に最前列に陣取っている人もいたが、そこぐらいまで前に行って、あおり気味の画面を楽しむという方法もあるかもしれない。ただ、前すぎると、あおり気味の感じのほうが気になって、そのせいで、その映像の歪が激しそうであり、結果としてよいかどうかは不明である。

 

ここは成田のときと違って、他の映画の宣伝は、休憩時間に放送している時間も長いので、上映開始してからの時間は比較的短かった。あと、映画泥棒の映像が入っていたのはよかった。もちろん、今のバージョンのそれが流れたのである。IMAX版にはなっていない。そんなのはないので、あたりまえである。

 

 

泣くかどうかの心配は、心配するまでもなく、OPを向かえるまでに右目の端にしっかりと涙が溜まって流れてしまった。準備は上映前からできていたのである。そこから先は、いつものように、思い出とリンクさせながら、泣くところは泣くのだ。しかも、リンクさせているだけにシナリオの説明では中々な伝わらない、変なところで感動したりするのである。

 

中身が入れ替わっている瀧君が四ツ谷駅の前で困っているときにくるくる回る様子が描き出されていたが、このシーンは妙に色々思い出して、場合によっては涙が加速することもある。

635 見ろ!名無しがゴミのようだ! [sage] 2017/01/17(火) 21:25:13.69SLIP:アウアウカー Sa5f-kkJw(1)ID:EuM6qeJNa(1)

今日品川IMAX見てきた 
遠くの背景とかはボケてる所までクッキリ映ってしまうけど夜の星空とかは息を呑む美しさ。ラスト「君の、名前は……」の後でスズメの鳴き声が聞こえた 
瀧の日記に「イラついた!」と「高木達と買い物」を発見 
あと、口噛酒の舞のシーンの壇上の幕に「勅使河原一家(一族?)」と書かれていた

 

どうでもいいことかもしれないが、こういう掲示板の記事で同じ回同じ場所で見ていたと思われるものを見つけると妙に嬉しくなってしまうものである。

チュンチュンという鳥の声が、よく聞こえるのはIMAX鑑賞の時の印象的な出来事である。

当方は、瀧くんとツカサと奥寺先輩が飛騨を訪ね、民宿で止まって朝を迎えたときに、瀧くんがひとり高山ラーメン吉野の店主に頼んで宮水神社の御神体を目指している頃、奥寺先輩が目覚めた時、ぐぐーぐっぐぐーという鳩の声が聴こえるのは覚えている。IMAX出ないと聞こえないたぐいの音である。映像と音の印象を楽しむ映画としてはIMAXは良い形式である。定期的に見られるようにしてもらいたいと切に願うところである。

 

そして当然のように、最後の君の名は。のロゴが空に消えて、画面が暗転しスタッフロールが続いている間も、「なんでもないや」を最後まで聞いてしまう、そこまでしゃぶり尽くすのがこの映画の醍醐味なのである。今回は途中で立って帰る人が見えなかったのであるがよくよく考えると後ろの席の人が途中で帰ってもわからない位置に座っていたので気が付かなかっただけなのかもしれない。