永遠を有限に切り取ると時間になる。だから、人が時間的に考えているとき永遠は見えない。そして、有限が無限に内包されているように、時間は永遠にすっぽりと包み込まれている。時間は永遠の下位概念である。


 それに対して、実在とは時間の制約を受けないもののことである。


 例えば、若さについて見てみよう。この世にあるのは老いる若さだけであるが、これはこの若さが時間と空間の中に生起する、ただの現象に過ぎず、そこに実体がないからだ。本当の若さ、即ち、実在としての若さとは、決して老いない若さのことである。なぜならそこに時間がないからだ。これだけが本当の若さで、この世界の物理的な若さはその影、即ち現象に過ぎない。


 命についても同様である。この世にあるのは死すべき命だけだが、命の実在とは不死の存在である。決して死なない命だけが本当の命なのである。生きるとは、決して死なないということなのだ。それが即ち、永遠の命であり、それは現象の彼方の永遠の世界、そして同時に自分の内面の奥深くに実在しているのである。

 脳科学が流行りの昨今だが、実は脳を調べても認識の本質は分からない。そこで明らかになるのは認識の現象的な側面だけである。


 考えても見て欲しい。理論上は(もしかすると現実の技術においても)、自分の脳さえ観察の対象になり得るということは、脳そのものは認識の主体ではなく、飽くまで客体に過ぎないということだ。認識主体とは、自らは決して客体にならない、即ち、外からは決して観察されない者のことである。つまり、人間は脳で考えているのではなく、脳を通して考えているのである。

 宇宙はビッグバンによって始まったといわれる。しかし、この「始まる」という捉え方が時間的な認識なのである。


 どこからも始まらない時間を永遠という。時間はこの永遠を「始まり」と「終わり」で区切った、有限な認識に過ぎないのだ。決して時間そのものが実在しているのではない。そこにあるのは「時間的な認識」だけである。つまり、時間そのものは(たとえそれがどんなに正確であっても)、幻なのである。