この世のどんな現象にも背後に何らかの霊的な意味や因果関係が隠されている。これは目には見えない。つまり知覚の対象にはならないのだ。だから科学の対象にはならないし、脳によっても捕捉されない。


 そもそも物理学や生物学は、数学とは違って現象を扱っているだけで、実在には触れられない。


 実際のところ、実在とは数学的な世界なのだ。この世とあの世、即ち現象と実在の両世界を貫く原理は数学的真理に合致している。神の真理とは数学的なものなのだ。否、神そのものが数学である。神の姿、ないしは神が創った世界の設計図はは数学的に正確に記述できるのである。

 神秘体験はその価値が高いほど内面的になり、言葉に表すことが困難になる。そのためにはどうしても静謐と孤独な環境が必要になる。だから価値ある神秘体験ほど社会の前面には出にくいのである。


 逆に言えば、人知れず神秘体験を重ねているものは想像以上に存在している可能性がある。いつの時代にも、である…。

 人は誰しも、自分が神であることに気づかない。神はどこか遠くにいるのではなく、実は自分の中にいる。


 無神論は決して宗教的な罪ではないし、また神を冒涜していることにもならないが、同時に事実でもない。無神論を唱える人は神ではなく、実は自分を否定しているのだが、そのことに全く気づいていない。無神論は罪ではなく、無知であり、またそれゆえに滑稽である。


 自分の外側に神を捜し求めることを迷いという。一方で、自分の中に神の存在を確信し、自分の根源と神の存在が同一のものであることに気づくことを悟りという。


 神の存在は理性によっては証明できず、これを直接に感じ取るには内面への道を辿らなければならない。これを神秘主義と言い、その最高峰の体験が啓示である。