この自然界のどこにも時間はない。序でに言えば空間もない。さらに言えば、この自然界そのものも実在していない。なぜなら時間と空間は認識の対象ではなく、認識そのものだからだ。


 人は「時間と空間を」、ではなく、「時間的」「空間的」に対象を認識する。だから時間とは何ぞや、といった問題には、答えを出すことが出来ないのだ。


 目の前に拡がる自然界に、いかにも時間と空間そのものが実在しているかのように見えるのは、時間的、空間的認識が必然的にもたらすトリックであって、認識上の誤謬だ。


 科学はこうした時間と空間を所与の条件として命題に向かっている。物理学は数学とは違って、実在を明らかにする分野ではないのだ。だから、数学が永遠の真理を追い求めるのに対して、物理学を筆頭とする自然科学は、時間的、空間的認識の上に生起する、現象的真理に埋没しているのである。

 自然科学は飽くまで真理に至る手法の一つであって、そのすべてではない。これは人間の脳が知覚する、現象の世界の原理を明らかにするには無敵の存在である。逆に言えば、科学が明らかにするのは現象的真理に限られる。


 他方、実在は科学の手には負えない。カントが200年前に証明したように、科学的手法によって、神の存在証明をすることは出来ない。だから、科学上は神はいるともいないともいえない。


 神は、証明ではなく、内的に確信される存在である。それは神が内的な存在で、その存在への確信は、自己の内面において、ひっそりと行われる性格のものだからだ。


 こうした非言語、時間と空間を超越した世界を認識するのが、神秘主義的手法である。神秘主義的手法は科学的ではないが、科学同様、あるいは科学以上に真理を志向している。そして神秘的真理は、決して科学的真理と矛盾するものではないのだ。


 神秘主義的手法は、存在の根源、神の存在への確信、現象を超えた実在への認識、といった霊的な事柄を扱う際の、最適、かつ不可欠な手法である。逆に言えば、霊的な意識を持てない人には霊的な問題には立ち入ることが出来ない。神や死や時間などの実在にまつわる問題には、科学的アプローチでは解答を与えることは出来ず、無理に知ろうとすれば、必ず堂々巡りで、見当違いの解答に終始することになる。


 時間という根源的な問題に対して、歴史上、幾多の哲学者、物理学者が取り組んでも、未だに人口にかいしゃくする納得のいく解答が得なれないのはこのためである。

 この世界は真理の光が実在世界を照らしたときに生じる、影の世界である。太陽は、この真理の光の現象である。しかし、真理の光は実在の光であるがゆえに肉眼では見えない。真理の光は内面に差す光であって、これを見るには霊眼、ないしは心の目が開かれていなければならない。これを宗教的に儀式化したのが、仏教における仏像の開眼法要である。