ノーベル賞と二重国籍 | 生物学者ママの実験的スイス生活

生物学者ママの実験的スイス生活

スイスドイツ語圏最大の都市で、仕事と子育てに奮闘中の研究者ワーママ。人生の3分の1以上をすでにスイスで過ごし、すっかり現地に同化中。
夫ともはやチビではない息子たちとの家族4人の日々の生活を、生物学者としての視点で(独断と偏見も交えつつ)考察します。

このタイトルを見れば、私が何が言いたいかはきっと一目瞭然だと思う。

先日発表されたノーベル物理学賞受賞の、真鍋淑郎さん。

業績が認められ受賞された事自体はめでたいばかりなのだが、日本の一部メディアで真鍋さんのことが日本人受賞者として報道されてることには、私は違和感しか抱けない。

 

真鍋さんは渡米後間もないと言ってよい、1970年に米国籍を取得したそうだ。

つまり、その時点で日本国籍を喪失し、以来、実に半世紀をアメリカ人として過ごしてきているのだ。

たとえ生まれ育ったのが日本だったとしても、日本人ではない。

あえて言えば元日本人であり、ひょっとしたらご本人とて今更どうして日本で注目されるのだとすら思ってらっしゃるかもしれない。

メディアにどうして国籍を変えたと聞かれて、日本の同調圧力的な社会が嫌、というふうにお答えになっているのはその現れ(やんわりした皮肉)と思うのは、私の見方がうがっているからだろうか?

 

あるメディアなど、「米国籍を取得した人も含めて27人目の日本人ノーベル賞受賞者」とか意味不明、笑止千万なことを言っていた。

何をねぼけてるのだ、米国籍を取得した時点で、すでに日本人ではなくなっているのだ。

日本以外のメディアで、真鍋さんのことを日本人と言っている報道など一つもない。

 

それをノーベル賞を受賞した途端に、未練がましく日本人というのは、逆に真鍋さんに失礼ではないか。

実際アメリカで研究者として活動し、そこで生活して行くには、アメリカ国籍があったほうが便利な場面が多かったことは、私だけでなく海外に暮らす日本人には想像に難くない。

その一方で、できれば日本人でもいたかったという思いはゼロではなかったと思う。

おそらく、少なくともその時点で悩んだ末の選択だったのではないだろうか。

 

そもそもこういうことが起こるのは、日本が二重国籍を認めていないからだ。

ヨーロッパに暮らしていれれば、二重国籍なんて当たり前、3つも4つもパスポートを持っている人だって珍しくはない。

スイスの大学では、おばあちゃんがスイスからの移民だった(から私もスイスのパスポートを持ってる)と言って、南アメリカあたりからこちらの大学に来ている人もザラに見かける。

 

外国で暮らしていると、いくら永住許可を持っていたとしても、どこか生活に不安定さはつきまとう。

我々はここスイスで、スイス人と同じように生活し税金を払っているが選挙権はないし、もし犯罪を犯せば(それが故意でなくとも)滞在許可証など関係なく即国外退去になる可能性すらある。

安心して生活し仕事するために(多くの場合で、やむなく)外国籍を取得したら、日本国籍はほとんど懲罰的に剥奪されてしまうのだ。

そういう仕打ちをする祖国に対して、ある種の失望感とか不信感を抱いてしまうのではと思うのは、私だけではないと思う。

単なる法的手続きではなく、感情的に言えば、自分は捨てられた(棄民された)とすら感じるかもしれない。

そういう思いを抱かされた挙げ句、今更日本人扱いされても、戸惑うばかり、皮肉の一つもいいたくなるのではないだろうか。

もし自分がその立場なら、絶対そう思う。

 

真鍋さんにしろ我々にしろ、移住一世代目はまだ日本で育っているので日本国籍を捨てることにためらいがあるが、次世代はそうではない。

実際に、両親日本人でも自分は国籍をスイスに変えた二世は大勢いる。

 

今回も含めノーベル賞受賞者がじつはとっくに日本人ではなかったとわかるたびに、頭脳流出だという批判が日本国内でも起きる。

実際、国外に出てそのままいついてしまう研究者(やその他の職業の人も)は多いし、優秀な人ほど現地で良い職を見つけて根を下ろしてしまうのも事実だ。

しかし、それが国籍法の改正には全くつながってこなかった。

夫婦別姓の問題と同じで、国内の大半の人に関係ないことは後回しなのが日本の政治の常である。

しかしそろそろ態度を改めてはどうだろう。

 

特にうちの子たちも含めて、海外で育つ二世は、金の卵と思うべきだ。

ノーベル賞を取る人は稀だろうが、複数の文化的背景を持つ彼らは将来日本と世界の架け橋になってくれる可能性が高い。

我々のような、移住一世代目にしても同じことだ。

それをむざむざ、二重国籍禁止にこだわって日本から締め出すような真似はしてはならないと思う。