一日一禅 | おてらさん

おてらさん

大分にある臨済宗のお寺さんです。

「家無滞貨不富」
いえにたいかなくんば、とみならず
(従容録)

家に売れない商品が積まれていなければ、大商人の家とは言えない。

現代社会は、合理化合理化で、役に立たないものや無駄なものは、原材料だろうが時間だろうが、たとえそれが人だとしても、問答無用で切り捨てる。
それが常識のようになって、リストラを断行した企業は株価が上がるのだそうな。

だが、上の言葉はそんな現代社会の常識とは正反対の言葉だ。
効率が悪くても、利益が出なくても、大事にすべきものがある。


何年か前、とある禅寺でオフ会に参加した。
オフ会といっても、心に傷を持った方々と僧侶達のオフ会。
他宗の和尚さんも参加して、様々なお話や体験をさせていただいたオフ会でした。

その参加者の中に、よくお寺さんに出入りしているのか、いろいろと詳しい方がいました。
その人からどこの僧堂かと聞かれ(そういう質問をする在家の方はあまりいません(苦笑)
本山ですと答えると、やはり「お-」と、事情通なリアクションが^^;
その方には、僧堂生活のあれこれを色々と聞かれたのですが、堂内の最高責任者である直日(じきひつ)さんの仕事について説明したところ
「つまり、直日さんは他の雲水さんを指導しているときは修行をしていないということですね?」
と、返された。
なるほど、他の雲水さんが一生懸命坐っているときに、一人だけ警策を持って歩いていたら、修行してないと言われても仕方が無いか?
でも、そんなことではない、坐禅だけが修行ではなく、実はそうやって指導する側の方が大変だし、それが修行では無いなんて、とんでもない話だ。

けれど、自分の貧弱なボキャブラリ-では彼を納得させることができず、結局は「ではあなた自身が僧堂に入って確かめてごらん」という常套の殺し文句で黙らせてしまったのでした。(ちょっぴり反省)

僧堂で修行した経験のある人には、そのような発想は起きないとは思うけれど、彼にとっては、他の雲水のために時間をとられることは「無駄」に感じられたのでしょう。

でもそんなことはない、無駄に見えても、本当は無駄なものなんてない。
ただ、とらえ方の違いで無駄に思えるだけだ。

僧堂での修行生活は、とことん無駄がない。
動きはほとんど「鳴らしもの」の合図で、日常底の行事は無言のまま淡々と進められる。
雲水ひとりひとりにも「動中の工夫」が求められる。
けれど「修行そのもの」が無駄だと言われれば、実は無駄なのだ。
そういえば、僧堂の老師も仰っていた。

「こんなものは骨折り損なんじゃ、無所得じゃ」






人生は
骨折り損のくたびれもうけ
それでもいいじゃないか
損か得かは、受け止め方次第











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