“トヨタ自動車”‥の創業者 “豊田喜一郎”氏は、
“日本人の手で自動車を作り上げたい”
‥という情熱を持って “豊田自動織機製作所”‥内に “自動車製作部門”‥を作り、それが後に 世界の“トヨタ自動車工業”‥となったのですが、その “喜一郎”氏が 国産自動車づくりに乗りだした時、“トヨタグループ”‥より豊富な資金と優秀な人材を持っていた財閥系の企業は 日本に沢山ありました。
ですけれど、どの企業も当時の欧州の自動車産業との格差や、自動車産業 そのものの将来性に不安を感じ、二の足を踏んでしまいます。
でも、“喜一郎”氏は違いました。
“喜一郎”‥には、“情熱”‥があり、リスクを恐れない “勇気”‥がありました。
そして、その “情熱” と “勇気”‥が 世界のトヨタの礎になった‥のです。
“ドラッカー”氏は、
“成果をあげるには、並外れた才能よりも努力が必要である”
‥と言っています。
この “ドラッカー”氏の言った “努力”‥の根底に、“喜一郎”氏の様な “情熱” と “覚悟”‥が無ければ その成果は期待出来ない事でしょう?
話は少し変わりますが、今 “大阪府”‥の “吉村”知事が 評価されています。
それは、誰かさんと違って、政策を遂行するにあたって、“情熱” と “覚悟”‥があり、もし成果があげられなかった場合の “責任”‥の所在を明言しているから?‥だと感じます。
丁度、今の“大阪府”‥と “日本政府”‥との関係は、“トヨタ自動車”‥創業時の “トヨタ自動織機 自動車部”‥と 財閥系企業との関係に似ている様に思うのです。
“資金” も “人材”‥も遥かに上だった “財閥系企業”‥が、“トヨタ自動車”‥に遅れをとってしまったのは、“情熱” と “覚悟”‥が足りなかったからですが、“日本政府”‥に今足りないのは、その “情熱” と “覚悟” と “責任の所在”‥なのではないでしょうか?
それが、“安倍”総理の話す言葉から感じる事が出来ないのは、ふーにゃんだけなのでしょうか?
“責任の
言葉の重み
もの足りず”
風似庵
“安倍”総理は、最近 事ある毎に、
“責任は私にある”
‥と発言していますが、総理は “責任”‥の意味を理解して話しているのか ふーにゃんは疑問に思ってしまいます。
少なくとも、“吉村”知事 は “責任”‥の意味を理解して発言している様に思えるのですが‥