‥というか、カメラマンが本業の監督です。
で、その “木村”監督は、
“会って気をつける人は、黒沢明と高倉健しかいない”
‥断言する程、“黒澤”監督を尊敬していた‥と言います。
“木村”監督が撮影の世界に足を踏み入れたのは、監督が18歳の時でした。
そして、その初めての現場となった映画は、“隠し砦の三悪人”‥だったといいます。
右も左も解らなかった “木村”監督に、“黒澤”監督が、
“たか坊!(カメラマンの斎藤孝雄氏)、ここに馬鹿がいるぞ!”
‥と大きな声で言った‥それが2人の出会いの瞬間でした。
“有馬温泉”‥に近い “蓬莱峡”‥でのロケ中、“木村”監督が “ミッチェル・カメラ”‥の重たいバッテリーを2つ担いでいたところ、あまりの暑さに やかんから水を飲もうとかがむと、バッテリーから硫酸がこぼれ、ワイシャツがボロボロになってしまいました。
その事件以降、“黒澤”監督からは、
“デコ助”
‥と呼ばれて “木村”監督は怒られてばかり‥だった‥といいます。
“用心棒”‥では、“フォーカスマン(カメラのピントをカット毎に狙いの位置に合わせる仕事)”‥という仕事を与えられました。
そうあの有名な、
“犬が手首をくわえて歩いてくるカット”
‥を撮ったのは、“木村”監督‥だったのです。
犬が此方に向かって縦に来る、それを500ミリの望遠レンズを使ったシネスコで、犬の動きに合わせて、ピントを手動で合わせる‥それは非常に難易度の高い作業です。
そんなシーンを撮れた事が、“木村”監督にとって
”今でも誇りである”
‥そうです。
そして、このシーンを撮った事が、“黒澤”監督に認められ、初めて、
“大ちゃん”
‥と名前で呼んでくれる様になった‥のだ‥といいます。
“デコ助”‥から出世して “大ちゃん”‥になった “木村”監督は、その時嬉しくて涙が出た‥と後に語っています。
以後、一連の “黒澤”作品に関わる様になり、“椿三十郞” と “どですかでん”‥では チーフ助手として参加し、“天国と地獄” と “赤ひげ”‥では、応援として “黒澤”作品に参加しています。
そうあの “天国と地獄”‥の中で 誘拐犯に身代金の入った鞄をこだま号から酒匂川に落とす‥あの名シーンにも “木村”監督は駆けつけているのです。
そんな“木村”監督がカメラマンとして参加した “降旗康雄”監督の作品 “鉄道員(ぽっぽや)”‥での北海道でのロケハン中の出来事です。
画角の中に3本のコンクリートの電柱が入ってしまって、どうにも潤いに欠けている様に感じた “木村”監督は、その時こう呟いた‥といいます。
“黒澤さんだったら、あのコンクリートの電柱切れって言うよなぁ”
‥と。
そう、“木村”監督が思い出したのは、“黒澤”監督が “天国と地獄”‥の撮影中、撮影に邪魔となった二階建ての家の二階の部分を撤去させ、撮影を続けた‥というエピソードでした。
それを横で聞いていた美術部の人が、3本のコンクリートの電柱を撤去して、木の電柱に替え撮影が続行した‥そうです。
こんなところにも、“黒澤イズム”‥が継承されていた‥のですネ。
そして、そんな “木村”監督が思うのは、最初に “黒沢明”‥の現場に触れた為に、
“黒澤さんの様な映画鑑賞作り方をするのが本物だ❗”
‥と思うようになった‥という事だそうです。
そして、その事によって、何でも本物に触れてみよう‥という気になり、音楽を聴きにコンサートに、陶器を観に美術館に自然に足が向く様になった‥といいます。
自分の眼で本物を観たい、聴きたい‥と思うようになったのは、“黒澤”監督の影響だと “木村”監督は語っているのです。
確かに、一流のものに直接触れる事が、もしその良さを理解出来なかった‥としても大事な事である‥とふーにゃんも感じています。
だから、誰かふーにゃんを、
“「K E I」‥ に連れて行って”
‥下さい❗