メジャー初の黒人選手の偉業もすごいけど、それを生み出したリッキーの交渉術や信念もすごい。彼がいなければ、すべては始まらなかった。それは彼のかつての後悔と悲願だったのだ。ジャッキーと同じく、「世界を変えた男」はリッキーでもあったと言える。
リッキーも当然、多くの批判やチーム内からの反発を喰らっていた。旧知の仲にある敵チームの代表からジャッキーを出場させないよう直談判を受けたり、何百枚にもなる暴言や犯行声明の書かれた脅迫文書を送りつけられたりしていた。
それでもジャッキーを試合に出すことを止めなかった。
新しい扉を開く時、不当な差別に屈しない構えが必要だったのだ。
ジャッキーがドジャースに入ることになった時、ドジャースの選手たちの中にも当然、人種差別を肯定する立場の選手がいた。彼らは嘆願書を作り、ジャッキーの加入を結束して阻止しようとしたのだ。
しかし、レオ監督の喝によって選手たちの嫌がらせをやめさせ、ジャッキーの加入を進めていく。
このレオ監督も元々は黒人選手に好意的ではなかった。
しかし、リッキーがレオに対して、公平な目でジャッキーを見るようにと諭して以降、レオ監督はジャッキーの類稀なる野球の才能を認め始めるのだ。
嫌がらせをしていた選手たちを叱った監督の言葉が痺れた。ジャッキーは最初の黒人選手に過ぎないこと、その後彼らのポジションを虎視眈々と狙っている選手たちが後に続いていること。黒人を追い出そうとする彼らは差別をする前に自分たちの技術に専念するべきなのだ。
実際、選手たちが黒人差別をする背景として、自分たちの立場が危うくなるかもしれないという危機感を感じている者も確かにいたのかもしれない。彼らの中には自分たちと同等かそれ以上に野球の才能がある選手もいると、直感的に理解していたはずだ。
そして事実、古い慣習に捉われているだけの能力のない選手は違うチームとトレードされるなど、居場所を失っていく。
新しい時代が到来した時、いかにそれを柔軟に受け入れつつ自分の立ち位置を見つけるか。差別していた側が排除される日というものは案外呆気なく訪れる。
チームメイトもまた試されていた。
ジャッキーに向けられる野次や罵詈雑言を耳にしたチームメイトも、黒人に向けられる言われのない差別や屈辱を体感するのだ。理不尽なブーイングの嵐、罵詈雑言、厳しい待遇。
元々は差別する側だった彼らが耳にする、チームメイトへの尊厳を損なわせる屈辱的な言葉の数々。それはいつしか自然と、差別される側の気持ちに寄り添う形になっていく。
報復できないジャッキーの代わりに、チームメイトが罵詈雑言で非難する相手チーム監督に抗議しに行ってくれたのは嬉しかった。
結局、そういった古い慣習に捉われていた監督もいつしか表舞台から消え去っていったが。
そんな中、一つ恐ろしいシーンもあった。
野球を観戦しにきた白人親子。何も知らない小さな子供は純粋に野球観戦を楽しみにして来たようだった。そんな中、ジャッキーがスタジアムに入ると、父親も含めて周囲の大人たちが暴言を叫び始めたのだ。
始めは呆気に取られていた子供だったが、彼も同じように周りの大人たちと同じ暴言を叫び始めるのだ。
無知な子供が周囲の大人たちに影響されて訳もわからず差別する側に入っていく瞬間は残酷だった。
しかし、差別意識とはこうやって簡単に無意識に浸透していくのだろう。本人たちでさえ、どうして黒人を嫌っているのかすら分からない。一緒のシャワーを浴びたくないと言っても、白人のシャワーと黒人のシャワーで何かが違うわけもない。
本当は理論的には説明できない思いが、「なんとなく嫌う」という心理へと至らせるのだ。あの子供がなんとなく周りに同調して罵詈雑言を叫んでいたように。
ジャッキーは暴言に暴言を返さず、ましてや暴力で訴えることもしない。あくまで紳士的に対応する。しかし、復讐の衝動がないわけではない。
彼は純粋に「野球をしに来た」のだ。だから彼の報復は、野球で相手を負かすことなのだ。
相手がジャッキーにまともにボールを投げればそれをホームランで打ち返し、仮にフォアボールで進塁できたのなら、自慢の盗塁で相手を翻弄させる。
ルールに沿った中で、相手を負かすこと。これ以上にぐうの音も出させずに、憎い相手を打ち負かす手段があるだろうか。
彼が英雄たる理由は、その一点の曇りもないプレースタイルにあったのだと思う。
英雄の真っ向勝負は、チームメイトや野球界の価値観を揺るがし、ついに重たい扉を開くのだ。