いじめを受け、犯行に及んだアレックスはクライマックスで学校の人気者であるネイサンを見つけ出していた。
まるでネイサンが最も狩りたかった獲物であるかのように、怯える恋人と一緒に命乞いをするネイサンに銃口を向け、「どちらにしようかな…」と弄び始めるのだ。
これまで視界に捉えた人々を次々と撃っていたアレックスとは思えない残忍さである。ネイサンを追い詰めたことに喜びを感じているのだ。
それは、学校の人気者であるネイサン自身が、いじめの主犯格の一人であったことを示唆している。以前、クラスでアレックスにバナナを投げつけた時も仲間内で楽しんでいたのだから。
アレックスの共犯になったエリックは校長を撃ち殺す前に「いじめの相談を受けたらしっかり話を聞け」と説教していた。
この学校では、いじめの存在が認知されていても、教師たちはほとんど手をこまねいていたのだろう。
そればかりか、いじめ加害者であろうネイサン自身が、学校ではスクールカーストの上位に位置し、チヤホヤされている。アレックスやエリックが、ネイサンや活動的な目立つ生徒に対して激しい恨みや嫉妬を覚えるのも無理はなかった。
そして、その環境が改善されないままに放置されていたことに怒りを覚え、やがて個人的な復讐心は過剰な破壊衝動と自殺願望へと代わり、2人は凶行に及んだのだ。
本作では運命の時が来るまで淡々と生徒たちの何気ない日常や風景が描かれている。ほとんどがそのシーンである。
穏やかに過ごす生徒もいるし、孤独感を抱えている生徒もいる。しかし、どんな生活であれ、その日常が暴力という不条理によって一瞬で崩れていったのだ。
この学校で悩みを抱えていたのは犯人2人だけではなかった。アル中の父親に頭を悩ませている少年や、孤立して周囲から罵られている少女もいた。
決して楽しいだけが学校生活ではないだろう。学校生活は嫌だ嫌だと憎みながら送る人もいる。
にも関わらず、どんな日常を送っていた生徒であっても、彼らの暴力に巻き込まれていくのだ。
校内でも孤立していた少女は図書室で仕事をしていたところ、侵入してきた二人に一瞬で殺されてしまった。
これが何より胸を締め付けた。まさに不条理。
おそらく犯人2人が暴力によって破壊したかったメインターゲットは、ネイサンらのように学校を謳歌している周りすべての人々だ。いわゆる、スクールカーストの上位に立つ生徒たち、自分たちから目を逸らして学校を楽しんでいる生徒たち、そして問題に対処しない教師たちと、彼らすべての日常だ。
しかし、犠牲者の中にはきっと彼らの言葉に共感できた生徒もいたのだ。それで事態が解決するとは限らないが、語り合えば、少しは慰められるケースもあったことだろう。理性を失った凶行には及ばなかったかもしれない。
だが、2人にはそれができなかった。周りを頼りにすることも、声を上げることもできず、2人だけで追い込まれていったのである。
犯人に同情する余地はまったくない。どんな状況であれ、やはり暴力は認められない。しかし、犯人と共に孤独感や悩みを抱えている人たちは他にもいて、凶行に及ぶまでそこが繋がることができなかったことには悔しさを覚える。
学校へ襲撃に向かう途中の車内で、犯人たちの呼吸音が聞こえてきていた。
彼らも息が深くなっている。明らかに興奮しているのが伝わってくるのだ。
アレックスもエリックも戦場で銃の扱いに慣れた手練れの傭兵などではなく、ただの高校生なのだ。ただの経験値も少ない10代の少年なのだ。
問題を解決する手段が破壊以外に他に思いつかないままに追い詰められていた、未熟な少年なのである。
それがまた妙な戦慄を覚えさせる。
コロンバイン高校銃乱射事件の加害者の一人の家族は、その後、手記などを出版するなどして「犯罪者となった息子の母親」として活動している。
自分の家族が凶悪事件を起こすという兆候はなかなか見つけられるものではなかったこと。学校でいじめを受けている、いじめているといった情報は簡単に目に見えるものではないことなどの現在の思いを伝えている。だからこそ、親子のコミュニケーションを大切に持つことが求められるのだろう。
彼女が加害者家族として自らの言葉にするに至るまで、どれほどの後悔と絶望と申し訳なさを乗り越えてきたのだろうか。もっと話していれば良かった、もっと何か感じ取ってあげれば良かった。拾い上げていれば、救うことができたのではないだろうか。
そんな後悔を募らせて、今の活動に至るのだと思う。
本作では、同様の悲劇を繰り返さないために、まさにそういった明確に表に出すことができなかった犯人たちの声なき声を、未来に紡ぐ私たちに「考える」ことを求められていると感じた。