そもそも「世界三大喜劇王」としてバスター・キートン、ハロルド・ロイドと名を連ねる(いや、その二人よりも遥かに知名度は高い)ぐらいなのだ。
チャップリンの映画といえば、笑えるものだという先入観があることは否定できない。
ところが、本作はこれまで私が見てきたチャップリンの映画とは毛色が違う。
ハッキリ言って、笑いよりも哀愁の方が遥かに大きいのだ。
かつては人気を博していたが今は落ち目の道化師、カルヴェロと自信のないバレリーナ、テリー。同じステージの上に立つ者としての重責や魔力に魅入られ、やがて二人の運命が変わり始める…。
本作でチャップリンは珍しくスクリーンで道化の顔を捨てて素顔を晒している。還暦を過ぎたチャップリンの年季の入った素顔である。
初老の男の売れない道化師役からは哀愁が漂う。そこにいるのは、ちょび髭で山高帽のいつものチャップリンの姿ではないのだ。
それだけで、チャップリンが本作にかける思いがいつもと違うことが伝わってくるだろう。
初老の道化師、カルヴェロが酔っ払って帰宅したところ、階下に住む住人の部屋がガス臭いことに気付く。カルヴェロは毒を飲んで自殺を図っていた若い女性テリーを助けた。
目を覚ましたテリーはカルヴェロに悩みを打ち明ける。バレリーナだった彼女は5ヶ月前にリューマチを患い、もう前のようには舞台には立てないだろうと絶望して自殺を図ったのだった。
かつては名を馳せた喜劇俳優として有名だったカルヴェロも今はすっかり落ちぶれて人気も低迷していた。道化師として売れていないカルヴェロは「人生は願望だ」とテリーを励まし、勇気付ける。
↑カルヴェロは自殺を図ったテリーを助けて自宅で介抱する。優しく声をかけて元気付ける紳士なカルヴェロは年相応にカッコ良い。
テリーは足に感覚がないと絶望するのだが、医師の診断によればそれは精神的なもので現在は疾患と言える状態ではないらしい。
テリーは懸命に元気付けてくれるカルヴェロを信頼し、かつて文具店に務めていた時に思いを寄せていた男性ネヴィルのことも打ち明けるなど、次第に自分の人生にも向き合い始めてくる。
カルヴェロは献身的にテリーを支え、次第にテリーも年の離れたカルヴェロに惹かれていく。
一方、カルヴェロの仕事はやはり軌道に乗らなかった。
ベテラン風情で仕事を選り好みするカルヴェロだが、エージェントから指定される仕事は新人が与えられるおこぼれのような仕事ばかり。
もっとも、そんなステージでもカルヴェロの芸は観客を湧かすことができなくなっており、いつしかカルヴェロは舞台で再び成功することを夢見るようになっていた。
そんなある日、仕事で失敗したカルヴェロを励ますテリーは勢いに乗って立ち上がることができた。足が動き始めたのだ。喜ぶ二人。
動き出すことができるようになったテリーはカルヴェロに恩返しをしたいと願うようになった。
↑落ち込むカルヴェロを励ますテリーは感情的になって勢い余って立ち上がる。ついに精神的な障壁を乗り越えたのだ。
6ヶ月後、テリーは舞台に復活してバレリーナとして人気を取り戻していた。一方のカルヴェロは仕事が減り続け、今では酒浸りの日々である。
ある日、テリーとカルヴェロは舞台で共演することになった。だが,その舞台の音楽担当はかつて彼女が恋していたネヴィルだった。
ネヴィルはテリーを想うのだが、テリーはカルヴェロと結婚するつもりでいた。そして、自らカルヴェロへとプロポーズするのである。
だが、カルヴェロはテリーの想いには応えられなかった。自分の年があまりにも離れ過ぎていることに引け目を感じていたのだ。
舞台初日。
プレッシャーに潰されそうになっていたテリーは再び動けないと泣き出していた。そんなテリーを一喝するカルヴェロ。脇役として働いて出番を終えたカルヴェロは舞台袖で彼女のプリマの成功を祈り、テリーは無事にステージを終えて拍手喝采を受ける。
舞台を終え、ネヴィルの恋心を知ったカルヴェロは、これ以上、テリーの人生の負担になってはならないと彼女の前から姿を消した。
それからしばらくして、テリーはすっかりスターバレリーナになっていた。
ある日、テリーは街中でカルヴェロと再会する。カルヴェロは大道芸人として酒場を回って日銭を稼いでいた。
カルヴェロに舞台に立って欲しいと強く願うテリー。プレッシャーを乗り越えて念願の成功を収めた今の彼女にとって、恩人の願いを叶えることこそ人生の願望であった。
テリーの企画の下、カルヴェロの記念公演が開催される。残念ながらそれはテリーが用意したサクラを観客に交えての開催となったものの、カルヴェロにとってはあまりにも久しぶりの大舞台であった。
カルヴェロの演技は観客を大いに沸かせた。
相棒の道化師と共にアンコールに応えるカルヴェロ。だが、興奮のあまりカルヴェロは演出上の転落に失敗し、背中に激痛を感じてしまう。医者の診察では、それは心臓発作だった。
カルヴェロはテリーに感謝し、彼女と共に世界を回ることを願う。テリーはその思いを受け止めてステージへと上がった。
カルヴェロは舞台袖で彼女の演目を見守りながら、静かに息を引き取った。
【チャップリンの現実と虚構の融合】
初老の道化師が再び舞台で輝ける日を夢見て奮闘した哀愁のある物語。
とにかくカルヴェロという人間が切ない。
かつては栄華を極めた喜劇俳優だったようだが、残念ながら本作が始まった時には既に彼はもう落ち目の元スターである。
彼は本気で面白いと思って「ノミのショー」を演じているのだろうが、誰がどう見たって三文芝居。というか、この芸風で本当にかつては観客を沸かせたのかとすら思ってしまう。
しばらく表舞台に現れなかった大御所芸人が久しぶりに舞台に立って大滑りする様子ほど見ていて虚しいものはない。「あぁ、この人の芸はもう終わったんだ」と誰もが心の中で感じてしまう。
そして、現在の自分の芸がつまらないということも本人自身が実感しているのだ。
これがカルヴェロの切なさの最たるもので、せめて本人が鈍感で気付いていなければ救われるのだが、勘のいいカルヴェロはおそらく自身の評判も適正に自覚しているのである。
「戻れない。前に進むしかない。それが進歩だ。」
かつての栄光にしがみつき、元の状態に居座るのではなく、現在の状態を受け入れて前へと進もうとする老いた道化師。
舞台がダメになった時も、彼は大道芸人となって前へ進もうとする活力をやめなかった。芸人を辞めようという選択肢を取らなかったのである。
自殺未遂を図ったテリーを説得した時の言葉のように、人生とは死ぬことと同じぐらい生きることにも向き合わなければいけないものなのだ。
さらにカルヴェロの虚しいのは、テリーという若い女性に想いを寄せられたことだ。
もしもカルヴェロがもっと若ければ、テリーの想いに応えることもできたのかもしれない。だが、芸人としても落ちぶれて、毎日酒に酔って生きているカルヴェロは年の若いテリーの人生を背負うことに引け目を感じていた。
彼女に対して女性として好意を持てないわけではない。むしろカルヴェロもテリーに想いを寄せているはずだ。だが、客観的に見てテリーにはネヴィルのような若くて未来ある若者が相応しいと自分の想いを否定してしまうのだろう。
老い先短い人生を感じて自ら恋心に蓋をして身を引くカルヴェロの切なさに哀愁を感じる。
↑ちなみにネヴィル役を演じたのはチャップリンの実の息子で二男のシドニー・チャップリン。実はこの映画には長女のジェラルディン・チャップリンも出演している。
この役を老いたチャップリンが監督し、演じるには、あまりにもキャラクターが重なり過ぎている。
どれほど自分の半生や思いを乗せてこの作品に挑んだことだろう。
テリーを励ます言葉の一つ一つが、彼自身がこれまでの喜劇王としての道のりで実感してきた教訓のようにも思えてならない。
本作公開後、チャップリンはアメリカから国外追放された。
かねてより作品を通して痛烈に政治批判を行なっていたチャップリンは共産主義的であると非難されていたのだ。彼の思想は現代から見れば平和主義的とも見られるのだが、当時の体制から見れば危険因子だったらしい。本作のワールド・プレミアのためイギリスへ出発したチャップリンは、その後、帰国することを許されなかったのだ。
本作は始めヨーロッパで公開され、20年後にようやくロサンゼルスで公開。そして、アカデミー賞で劇映画作曲賞を受賞する。チャップリンに対する政治的圧力が映画という芸術作品に介入した影響は大きかったようだ。
チャップリン自身はカルヴェロほど喜劇俳優として落ちぶれることはなかった。カルヴェロの役柄がチャップリンの自伝であるわけではない。
だが、プロの喜劇王だからこそ年相応に手応えを感じなくなることを敏感に感じとることもあるだろうし、アメリカからも冷たい視線と非難の矛先を向けられていた当時のチャップリン。
舞台で最後の花火を打ち上げ、幕を閉じるカルヴェロの姿に、チャップリンの現実と虚構が融合して何とも言えない寂しさが残った。
ちなみに、本作のカルヴェロ記念公演シーンでカルヴェロの相棒役を演じたのが、喜劇王の一人、バスター・キートンである。
三大喜劇王同士の夢の共演。このシーンが本作でもっとも笑えるシーンであり、二人がやはりカルヴェロと違って年老いても実力を衰えさせなかった名優であることは確かであった。
↑バスター・キートン(左)との絶妙な掛け合い。楽譜をバラバラ落とすバスター・キートンと服の仕掛けで笑わせるチャップリン。奇跡の共演の化学反応で本作最大の笑いが生まれる。
(137分)