チョキチョキマン物語(邂逅その二) | こんな話は面白い?

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小説を書くことにハマってましたが、現在、停止状態です。また、身近にあったことも、たまに載せてますので、興味があれば、どうぞよろしくお願いします。

興味がなくても・・・よろしくね。


 何日もしない中に、次から次へと色んな情報を知るようになった。先生はあの「日本文法論」の山田孝雄博士の御長男であるということ。孝雄博士のお名前も文法の大家であるということも既によく知っていたので、その大変な学者の御子息との邂逅に、上京してきてよかったと、何度思ったことか。

 酒井さんは、同級生によれば正式の助手ではないという。“押しかけ助手”だと聞いていた。要するに、先生の膝下でもっと勉強したいと、福井から上京してきた方だという。大学を卒業してからでも、酒井さんのように“押しかけ”という方法があるのだと、それだけでもいい勉強になったと、上京の収穫に一人浸っていた。

 先生は昼間の学生だけではなく、夜間の学生、更に通信教育の学生も教えておられ、このため、研究室には午後二時頃お見えになる。夜間の学生の講義を終えられ、九時過ぎにお帰りになる。通信教育のスクーリングがある夏の期間もあり、結構お忙しいご様子だ。

 この通信教育部用に、担当の先生方はそれぞれの領域の概論書を書かれておられる。それを知って、先生の「国語学概論」を手に入れた。この本は四分冊になっているが、その第一冊目の目録のあとの一ページに、本居宣長の「うひ山ぶみ」よりの抜粋が引用されていた。抜粋全文は次の通り。

詮ずるところ學問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也。いかほど學びかたよくても怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすればそれだけの功は有物也。又晩學の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、學ぶ事の晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし。すべて思ひくづをるゝは、學問に大にきらふ事ぞかし。
    (本居宣長 「うひ山ぶみ」より)

 本居宣長については、確か小学校六年の国語の教科書に「松坂の一夜」という題で賀茂真淵と生涯一度の対面をし、その門人となったという邂逅のくだりを習ったことを記憶しているし、その著述の「うひ山ぶみ」の名前も知ってはいたが、その内容を未だ一度も眼にしていなかった。

 そんな背景と、戦時中、学徒動員という名のもとに遊び惚けて落ちこぼれてしまっていたわたしに、この「うひ山ぶみ」の抜粋は何ものにも代え難い、温かい励ましのことばとして、わたしのために提示されたものと非常に有り難かった。嬉しかった。力付けられた。先生との邂逅。「うひ山ぶみ」との邂逅。人の世の中で人為では捉えられない不思議な邂逅の連続に涙したことだった。ことばでは言いあらわせない、またとない幸福感をしみじみと味わったことだった。

 その後暫くの間に、先生は「メイカイについて、何か一寸したことでもいいから気がついてこととか、疑問があれば教えてください。」と学生の誰彼なしに声をかけておられた。何度も耳にするが「メイカイ」ということばが、何なのか全く意味不明だったので、早速同級生に尋ねたら、「何も知らないんだねぇ。明解国語辞典ってあるだろう。先生がお作りになったんだよ。」と言う。更に突っ込んで「気がついたことや疑問があったのか。」と聞いたが、「先生が作られたものを我々が見て、そう簡単に気がつくようなことが見つかるわけがないじゃないか。」と簡単にあしらわれてしまった。

 わたしは国語辞典を二冊持っていた。「辞書は一生もの」ということを誰かに聞いていたこともあって、又、貧乏学生であったために、持っていないもので欲しいものは、食事を減らしてでも買ったが、二冊も辞典を持っていながら、更にもう一冊買い足す気も余裕もなかった。その上、これも誰に教わったというわけでもなかったが、辞書に気がついたことや疑問がある筈がない。辞書は百パーセント正しいのだという、いわば辞書神聖観が頑ななわたしという人間の思考の入り口に泰然として聳えているために、「メイカイについて気のついたこと」は全く門前払いに近い状態で、馬耳東風と聞き流してしまっていた。

 わたしが明解国語辞典を買ったのは、大学を出て実業に就いてからのことであった。それも、それまで使っていた辞書がボロボロになり、使うたびに綴じ込んである糸が切れて紙が破れ出してきたためである。“辞書は一生もの”と聞かされていたが、この言葉は「破損」によって潰え去ってしまった。しかし、そんなわけで「メイカイ」については先生に何の御報告もできずじまいで終わった。

 少年期、「辞書に書いてある」ということが何にも増して正しいことの証明であるという考え方が強かったように思う。中学時代、先生方は「サボ(アンチョコ)を見るな。辞書を引け。」と事あるごとにおっしゃっていた。そのことが余計に辞書の神聖視化を加速させていたのではないかと思う。全く不肖の弟子であった。酒井さんのように、進んで自分の近くにいて勉学に励むと思っておられたと思う。しかし、私は家庭の事情で実業に就く。

 大学後半の二年間という甚だ短い期間だけお世話になっただけである。同級生達に「やめておけ!」と忠告され、「厳しいので単位を貰えないぞ!」「卒業できなくなるぞ!」と嚇かされて幾分躊躇しながらも過ぎた二年間だったが、過ぎてみると同級生達の忠告する面は多分に感じていたが、何よりも何かにつけて温かかった。同級生達が言うように厳しくって、冷たくってということだけならば、二年過ぎたら「ハイサヨウナラ」ということになっただろうが、実業に就いても多少時間があれば、予告なしにお訪ねした。何時も何の用件もなかった。が、嫌な顔もされず、何時も御父君や先生の御本を頂いて帰っていた。私が何時現れても渡せるようにちゃんと準備しておいて頂いていたようだった。

 そうこうしているうちに、実業の方がどんどん忙しくなって、製造と出荷に日夜追われるようになっていった。当時は、外貨獲得のため、輸出貢献企業ともてはやされ、それこそ工場内に缶詰の状態であったために、かなりの間、先生と無音に打ち過ぎてしまっていた。

 工場では新製品の開発も進み、これの販売などのため、都心に営業所を持つことになった。しばらく都心と無縁だった間に交通事情が一変してしまっているのに、大袈裟に言えば驚愕に堪えなかった。

 卒業後しばらくの間、東京蔵前から埼玉県草加へよく行き来していた。片道約二十分位の行程だったのが、十年程の間に片道二時間以上もかかることがざらになっていた。渋滞でわずかずつしか進まない。止まっていても何もできない。ただ前の車が動けば、こちらも動かすというだけで時間だけをどんどん空費させられてしまう。それもディーゼルエンジンの吐き出す嫌な匂いの汚れた空気の中でである。二十分の行程を二時間もかけていては人生六十年としても、わずか十年しか生きていないのと同じであるし、実質六十年生きるには三百六十年生きなければ勘定に合わないことになるが、こんな人生の浪費から何とか早く抜け出したいという願望が、急成長しだしていた。どう考えても脱都会、都落ちしかない。二十分の行程の所へは二十分で行けるし、きれいな空気の所もまだまだあるはずだ。渋滞という時間の浪費に何とか対処する方法がないか、四六時中わたしはそればかり考えていた。

 そんなある日、この不肖の弟子に、恩師は新明解国語辞典の初版を郵送して下さった。明解の時には「何かあれば・・・。」と仰有って頂いても、肝心のその明解を持っていなかったが、今回は新明国を頂戴したわけであるから何としても「何か」を探し出さねばいけないという義務感に、意を決して一般の書物と同様に最初から最後まで読み通すことにした。

 しかし、これは一つの経験としては有効であったかもしれないが、「何かあれば、」ということのためには余りにも正攻法過ぎる嫌いがあった。それでも幾つかの問題点を見つけ、ひと通り読み終えた時点でお宅にあがり、御報告申し上げた。

 辞書には絶対間違いがないという頑ななわたしの石頭は、この時微塵に砕けてしまった。間違いがあってもいいものでは決してないが、さりとて人間の作るもの、しかも何人もの人が何度も眼を通しても通過してしまうミスがやはりあるものだ。

 漢語の造語成分「隅」の例として「隈州」というのがあった。単純なミスだがわたしのようなシロウトでも簡単に判るミスを見つけ、大きな驚きと共に、まるで鬼の首を取ったような気分になったことであった。「よく見つけましたねぇ。これではワイシュウですね。いくら校正しても残っているんですねぇ。」

 在学時代から「何かあれば」と言われていた先生に、十数年してやっと初めて御報告申し上げたこの件が、昨日のことのように脳裏に焼き付いている。


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