チョキチョキマン物語(邂逅その一) | こんな話は面白い?

こんな話は面白い?

小説を書くことにハマってましたが、現在、停止状態です。また、身近にあったことも、たまに載せてますので、興味があれば、どうぞよろしくお願いします。

興味がなくても・・・よろしくね。


 突然ですが、私の亡き父が生前、本にすべく書いていた「チョキチョキマン物語」の一部を紹介しようと思います。辞書の編纂の前段階として、用例採集をしていた父の話です。映画でやっていた「舟を編む」を見られた方なら、興味があるかもしれません。よろしければ、どうぞご覧になって下さい。



一、邂逅

 昭和二十八年(一九五三年)三月、大学三年編入試験のため、生まれて初めて上京した。通学に便利である京都の大学で、三年編入の合格通知は受け取っていたが、模擬試験の心算で受験したまでなので、入学手続きは何もしていなかった。

 戦争中の旧制中学時代は学徒動員に駆り出され、中学生とは名ばかりで、これから勉強という時期、学徒動員に名を借りて遊び惚けてしまっていた。殊の外、奥手のわたしは、大学二年になってようやくもっと本式に勉強したいという気持ちになり、大悟一番、東京へ出て残されたあと二年間、悔いのないように勉学に勤しむことを誓っていた。

 編入試験は思いの外、受験者は少なかった。法文学部のみだったからかもしれない。いや、三年になるというのに、うろちょろしているような輩は、ごく一握りぐらいしかいなかったんだろう。

 幾人かしかいない控え室で、隣室から番号と名前を呼ばれ、暫くで面接は終わる。わたしの名前が呼ばれ入室する。ふつうの教室の中で、幾つかの机の向きを変えて先生がおられ、その前約二メートル程の処に先生に対するように椅子が一脚おかれてあった。白面の若い方が一人おられるだけだった。

 わたしにとっては拍子抜けの事態だった。というのは、二、三人の方がおられ、矢継ぎ早に色々な質問を浴びせかけられるというようなことを想定していたうえに、五十歳代、六十歳代の方や四十歳代位の方を想像していた。というのは、京都の大学では、教授は大抵五、六十歳代、助教授は四十歳代位の方だったためで、面接はそのような教授、助教授がされるものとばかり思い込んでいたからだった。しかし現実には三十歳になるかならないか位の方お一人だけである。

 かなり緊張していたのが急に緊張感がゆるみ、編入受験生が少ないので教授、助教授の先生方は筆記試験の採点にまわり、面接試験は助手か事務員さんにまかされているのか。助手や事務員さんといっても、大学関係の方だから夜は夜で何処かの大学院に籍を置いておられるんだろうと、一人勝手にそんなことを想像していた。

 幾つか質問されたあと「三年になると国文科は、国文学と国語学とに専攻が分かれますが、何を専門にするか決めていますか」と仰有られた。わたしはすかさず「国語学です。」とお答えした。それからが質問だけではなくお話が続く。「国語学の何をやりたいのですか。」「今までにどんな本を読みましたか。」「有坂秀世の『音韻論』を読みましたか。いい本ですよ。是非読んでおいた方がいいですよ。」「期待してますよ。」「頑張って勉強して下さい。」

 こんな面接試験とは思いもしていなかったが、その前にこの事務員さん(わたしは勝手に事務員さんと思い込んでしまっていた)、恐らく法文学部というからには法学関係の勉強をしておられるんだろうのに、有坂秀世の『音韻論』まで読んでおられる。専門外のものまで勉強しておられる。大したものだ、と一人感心していた。他の受験生の面接よりも何倍も時間がかかったように思ったことだった。

有坂秀世博士は、この面接の少し前に他界。そのことも有ってこのお話が出たのだと思う。

 四月になって、下宿生活が始まった。

 大学三年生にしては、何もかも初めてのことの連続だった。国文科では編入生はわたし一人だけらしいこと、同級生達は一年生からの者ばかりで、気安そうで話題は専攻科目のことに集中していた。

 万葉集をやるという者、著名な作家を取り上げるという者、文学は文学だけど未だ何をやるか迷っているという者、そんな中で「国語学です。」と言ったわたしに皆一様に頓狂な声を上げ、中には「やめておけ!」と忠告する者も出た。

 「あの先生、厳し過ぎてついていけないぞ!」と言う。国語学の普通の講義でも単位が取れにくいのに、そんな国語学を専攻するのは無茶だという言い分であった。山田先生と仰有るらしい。国語学はこの先生お一人だけらしい。お若いけれど教授だという。とにかく厳しいらしい。特に点は非常に辛いという。そんな先生についたら卒業がおぼつかなくなるぞ。だから、同級生で国語学をやるという者は一人もいないという。あとから知ったのは一年上のクラスには二人いたが、これは「二人もいた。」ということだった。

 散々忠告をされても怯むにわけはいかなかった。今更文学をやるといっても、文学の何をやるかというようなことを考えたこともなかっただけに、何時になったら結論が出せるか全く茫漠たるもの、忠告は忠告として聞きおくにしても、とにかく、この最後の二年間は自分の思うように勉強したいという、上京の意志を翻すわけにはいかなかった。

 「それなら研究室へ挨拶にいってこい。」と、同級生達はわたしの真意を試すようにして口々にそそのかす。実をいって、わたしは研究室がどこにあるのやら、勝手に入っていってよいものかどうかさえも、判らない“御上りさん”だった。

 “善は急げ”で研究室の場所を教えてもらい、先生がいらっしゃらなくても、酒井さんはおられるから聞けば判るよ、という同級生の懇切な発破を受けて、教えられた研究室のドアをノックしたのだった。

 名前と理由を告げると「先生はもうすぐ来られますよ。そこで坐って待っていて下さい。待てるでしょう。僕、酒井と言います。」狭い部屋で、一人留守番をしておられたのは、酒井さんだった。もちろん初対面だった。

(酒井憲二さん、後年 文学博士。元調布学園女子短期大学学長。『甲陽軍艦大成』で新村出賞を受賞された。)

 入り口からすぐ入ったところの椅子に坐った。「先生が喜んでおられましたよ。」と仰有った。国語専攻の学生が昨年は零、今年の四年生は二人、三年生は又零かと思っておられたのが、京都からの編入生が一人専攻するようですよと、その理由を説明して下さった。わたしのことらしいのだが、京都からの編入生が国語学を専攻するということを、何故先生が御存知なのか一瞬変だなあと思った。

 その時に後ろのドアが開いた。酒井さんは、「先生、お話されておられていた待ち人が来ています。」「どういうことだろう?」わたしのことは先生にも酒井さんにも、共通認識だったなんて想像もしていなかったが、どうしてわたしが国語学専攻だということがばれてしまっているのか。しかし、先程まで同級生から「あんな厳しい先生につくと卒業できなくなるぞ。」と嚇かされていただけに、頭を下げたままの姿勢で名前と用件を申し上げて畏まっていたら、「期待してますよ。この部屋は自由に使ってもいいから頑張って下さい。」何処かで聞いたことのあるような声だった。恐る恐る頭を上げると,此は如何に、あの面接試験の時の、わたしが勝手にそう思い込んでしまっていた法学部の若い事務員さんだった。大変な思い違いであった。事実は小説より奇なり。


人気ブログランキング