予習の『グラインドボーンのフィガロ』を見終わりました。

さて、いよいよ楽しみにしていたピーター・ホール演出フィガロの番ですが、
いかに名作とはいえ、さすがに3つ続けてフィガロというのも飽きそう なので、
全然違う味わいのオペラを一つ挟もうと思いました。

見たいDVDは山ほどあるのですが、ずいぶん迷いました。
とくにまだ見たことのない作品を早く見たいという気持ちも強いのですが、
どうにも、ゼッフィレッリ演出の『ラ・ボエーム』が気になって仕方がないので、
さんざん迷ったあげく、結局また『ラ・ボエーム』を見ることにしました。

また、というのは、そんなに昔ではない以前、2週間くらいかけて
4つの『ラ・ボエーム』を続けて観たことがあって、
そのときわたくしは、コヴェントガーデン公演の分が特に気に入ったのですが、
世間一般的には、ゼッフィレッリ演出のが最高だという噂をよく聞いていたので、
自分が気に入ったのと比べて、どれだけ優れているのだろうと、気になっていたのでした。
で、ごく最近、2つのゼッフィレッリ演出のを入手することができたというわけです。

そういうわけで、本日は、以前4つ続けて観たときに、mixiの日記に投稿した感想を
そのまま転記させていただきます。
ゼッフィレッリ演出ミラノ・スカラ座公演のは、今、第1幕を見終わったところです。


1988年、 サンフランシスコ歌劇場公演
  ロドルフォ:ルチアーノ・パヴァロッティ
  ミミ:ミレルラ・フレー二
  コルリーネ:ニコライ・ギャウロフ
  演出:フランチェスカ・ザンベルロ
  指揮:ティツィアーノ・セヴェリーニ

1977年、メトロポリタン歌劇場公演
  ロドルフォ:ルチアーノ・パヴァロッティ
  ミミ:レナータ・スコット
  ムゼッタ:マラリン・ニスカ
  演出:ファブリツィオ・メラーノ
  指揮:ジェイムズ・レヴァイン

2007年、藤原歌劇団公演
  ミミ:砂川 涼子
  ロドルフォ:村上 敏明
  指揮:園田 隆一郎
  東京フィルハーモニー交響楽団

1982年、コヴェントガーデン歌劇場公演
  ミミ:イレアナ・コトルバシュ
  ロドルフォ:ニール・シコフ
  マルチェッロ:トーマス・アレン
  ムゼッタ:マリリン・チャウ
  演出:ジョン・コープリー
  指揮:ランベルト・ガルデッリ



サンフランシスコので、わざわざコルリーネを書き加えてあるのは、第4幕でのあの短いけど有名な「外套の歌」が特に素晴らしかったからです。
ここはバスの聴かせどころですが、ギャウロフの歌は、なんとも柔らかく、深い思いに満たされた、心に染み入るような「別れの歌」でした

同様に、メトロポリタンでムゼッタを書き加えてあるのは、第2幕の「ムゼッタのワルツ」が特に素晴らしかったからです。
ただこれはさすがに有名曲だけあって、サンフランシスコもコヴェントガーデンでもそれぞれ素晴らしい歌が聴けたのですが、何故かこのマラリン・ニスカの歌が、特に気に入って、このあとしばらく「ムゼッタのワルツ」が脳内で流れっぱなしになったのでした。

パヴァロッティの聴き比べも楽しめました。
私はパヴァロッティの経歴には詳しくないので分からないのですが、メトから10年後のサンフランシスコでの歌を聴いていると、このころ、この人は最盛期を迎えつつあったのではないかという気がしました。
メトのは、いかにも若々しいが、それだけに少し雑かな、という感じがします。

しかしながら、ここに管弦楽の演奏と、演出家の演技指導が加わってくると、感じがまた違ってきます。
サンフランシスコのセヴェリーニの指揮は、明確です。
このオペラにはいくつかの対比がありますが、たとえば、まるでオペレッタのように楽しい第1幕と第2幕に比べて、第3幕からはがらりと変わって、暗く切ない話になります。
セヴェリーニは、明るいところは明るく、暗いところは暗く演奏しています。
そのため、第2幕が終わって第3幕に入ると、あまりの雰囲気の違いにまるで違うオペラを観ているかのようなとまどいをおぼえます

対して、レヴァインの指揮では、もう第1幕から、楽しい場面でも、ロドルフォとミミが愛を歌う場面でも、常にどこかに暗い影をさしているかのような響きがしています。
このオペラはどんなにどんちゃん騒ぎをしようとも、最後はミミの死で終わる立派な悲劇ですから、こういう解釈には説得力がある気もします。
同じスコアからこういう読み方ができるレヴァインの手腕はさすがです。
しかし、これは演出も関係しているのですが、管弦楽が先読みしているせいもあって、メトでのボエーム(=ボヘミアン、自由奔放な若者という意味です)たちは、
まるで中年男女のやりとりをみているような、どこか物わかりの良さ(先行きが予感できているという意味で)を感じさせてしまっています

それに比べて、セヴェリーニの単純明解な指揮と、ザンベルロの的確な演出で、
行き当たりばったりで刹那的な若者像が(演者たちの年格好にかかわらず)、よりストレートに表現されているのが、サンフランシスコの方です。
そのためかえって、第4幕で、ミミの死に際し、観ている方もより感銘を覚えるのではないかと思うのです。
私はこのサンフランシスコの終幕では胸にぐっとくるものをおぼえました。
物わかりのよい観客で、より感情移入する人なら、愚かとも思える若者達に腹立ちすらおぼえるかもしれません。

藤原歌劇団公演では、ミミ役の砂川涼子さんが、とてもとても素敵でした。
容姿だけでいえば、プッチーニの作った「ミミ」のイメージには、この人がまさにピッタリです。
(原作の「ミミ」はだいぶ違うらしい。コヴェントガーデンのコトルバシュも素敵で、原作も踏まえると砂川さんよりニュアンスに富んだミミという感じ。フレーニはさすがに歌と演技でカバー)

砂川さんは、最初黒髪のショートカット(可愛い)ですが、第4幕では、うすい茶色のロングのざんばら髪で、顔面蒼白のメイク(ある意味美しい)で、衣装も替えて現れます。
ここはなかなか心を衝かれる演出です。
ただ、ここはいいのですが、藤原公演(日本人演出家、まだ若そう)では、歌詞に合わない動き、意味の感じられない動きなどが頻発しますし、ツボを押さえてくれないもどかしさを感じるところも少なくありません。
細かいところはあまり書きたくありませんが、たとえば、第1幕幕開けで、ロドルフォがベッドに横になって登場するシーンを見ただけでも、私は萎えます。

歌手達の演技指導にしても、オペラですからある程度身振り手振りが派手になるのは仕方ないのでしょうけど、それにしても動かせすぎです。
日本人の顔にはそもそもああいう身振り手振りは合わないと思われるのに、欧米人よりも派手にやってます。
たとえばコヴェントガーデンでの歌手達の身振り手振りは、もっと控えめです。そして、より演劇的です。
もっとも、どこまで演出家が関与したのか、それは分かりませんが。
ほとんど関与してない(歌手任せ)のでは、と思えるふしもあります。

メトのメラーノ演出は、エンターテイメント指向とも受け取れるもので(特に第2幕)、それだけによく動きますが、全体の印象としては雑です。
今歌っている歌手には、それなりにちゃんと演技をつけていますが、その時歌っていない別の演者の動きには、なんの指示もしていないかのような印象を受ける場面が多かったです。

この3つのなかでは、サンフランシスコのザンベルロ演出が、特に特別なことはしていないけれど、細かいところまで神経が行き届いていて、安心して見られる演出でした。
このサンフランシスコ公演だけ、ベノアとアルチンドロは同じ歌手が演じています。これはなかなか気が利いてますね。
意図したものかどうかは分かりませんが。

そして、演出で言えば、コヴェントガーデン公演が、2、3の齟齬はあるものの別格の素晴らしさでした
さすがにイギリスは演劇の国ですね。

これについては、また後日。

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(前回からのつづきです)


この公演のDVDですが、鑑賞し終えてから実は2週間くらいが経過しています。

現在は2つめの予習「グラインドボーン公演のフィガロの結婚」の第2幕まで観たところでストップしています。

わたくしは、仕事から帰っても、自分の自由時間が1時間も無いということが多いため、1日で全幕通してオペラを観るということはほとんど無く、たいてい1日1幕みたいなペースになります。

このザルツブルク公演も、けっきょく4日かけて全部みました。

したがって、幕と幕の間で、仕事をしたり、飯を食ったり、風呂に入ったり、TVを見たりと、ぼ~っと考える時間が多いため、わたくしの鑑賞日記はどうしても妄想だらけ になりがちであるということを、前もってどうぞご了承ください。

しかも、2週間も経過しているので、細かいところは忘れてしまっています。。。


さて、このグート氏の演出では、時代設定をおそらく現代かそれに近い時代に移されている と思われます。

第1幕の舞台は、本来これから新婚生活をおくることになるフィガロとスザンナの部屋という設定なはずですが、この舞台装置は、なんだか階段の だだっぴろい踊場のような感じで、独立した部屋という感じではありません。


第1幕は、伯爵夫人以外の主要登場人物がほとんど出てきますが、スザンナとフィガロ以外は、そもそもこの部屋に居ては不自然な人物であるため、いろいろな騒動が持ち上がることになります。

この舞台では、部屋、という感じがしないため、そのへんの演出はどうしてもあいまいになります。

使い回すためか、あるいはグート氏がそういう本来の設定をここでは無視しているということなのでしょう。


無視しているとすれば、どういうことなのでしょう。

観ていると、この登場人物たち(もともとの設定は、この地方の領主の館、登場人物は貴族とその使用人たち)

は、本当にここに住んでいるのか?、どうもそんな感じがしないな~というふうに思えてしかたありません。


もうひとつ気になることは、人物たちの仕草に現実感がうすい ことです。特に誰かがアリアを歌っている間、同時に舞台上に居てアリアを歌う番ではない人物たちが、揃いの身振り手振りで並んで踊っていたりします。

たとえば、スザンナが歌っている間、伯爵とフィガロが踊っていたり、ケルビーノが歌っている間、伯爵夫人とスザンナがせくしぃなフリで踊っていたりします。


伯爵夫人が身をくねらせていたら、それは欲求不満の表現だろうと受け取ることはできますが、新婦のスザンナに同じことを求めるのは、無理があります


登場人物の仕草やフリは、それぞれの心理表現の一部と受け取るのが普通だと思いますが、ここではそれだけではないようです。

アリアの歌詞に対して、演出家が提示するひとつの解答なのかもしれませんが、それでは難解すぎて、わたくしには一度観ただけではとても読み解くことが出来ません。


そこで、妄想の出番となりました。


彼らの揃いの身振り手振りを観ていて、わたくしは、彼らは何か大きな力によって操られている存在なのではないか、と思いました。

それには、あのイケメン天使くんが一役買っているようです。かれは、とにかくしょっちゅう舞台に姿を現して (けっこう うっとおしい) なんかやっているのですが、ときにハンドパワーで彼らを動かそうというマイムをやったりしているのです。


では、その何か大きな力というのが、この天使くんによるものなのかというと、そうではないように見えます。


生活感のない舞台装置にしても、なんか変です。

調度品といったものが何もなく、薄汚れていて、壁際には、落ち葉がたくさんたまっています。左側に開け放たれた窓があり、白い無地のカーテンがかかっているだけです。

階段のところには、カラスの死体とおぼしきものが落ちていたりします。

カラスといえば、第2幕では、その左側の窓のところに、カラスのフィギュアが3体配置されます。窓辺に留まっているのとか、羽根をひろげて飛び込んできたところのようなのとかですが、フィギュアですから、動きは止まっています


まるで、この館は、廃墟のような感じです。


かれらは、その何か大きな力によって、もともと住んでいたところから、この廃墟とおぼしき館へ、集団で運ばれてきた存在なのではないか と思えてきました。

たとえば、次元転移装置のようなもので。


この館のなかでは時間が停止しているのかもしれません

カラスが動かないのは、それが単なるフィギュアだからというのではなくて、この館の中だけ時間が止まっているからなのです

もともとこれは、フィガロとスザンナの結婚式当日の朝から夜までの物語、という設定ですが、左側の窓からは、ときおり朝の光のような強い光がさすこともあれば、夕方のようにオレンジ色になることもあるし、暗くなることもあります。

館の外では、普通に時間が進行しているかのようなのです。


こう思いついてから、妄想がさらにどんどんふくらんでいきました。


この廃墟には、かつてはやはり貴族一家のような人たちが住んでいたのでしょう。

それがなんらかの理由で、この館は捨てられたものと思います。

その理由とは、なんでしょう?

もしかすると、この伯爵一家のように、恋愛だの不倫だののもつれが、収拾のつかない大騒動となり、ついには一家が全員死に絶えるほどの、惨殺事件にまで発展したのかもしれません。


あの天使くんは、「愛」を司る神のもとにいる「愛の天使」たちの一人なのかもしれません。

人間という愚かな生物たちは、もともとは素晴らしい力をもつ「愛」というものの使い方がたいへんヘタなので、ある一家に不倫騒動が持ち上がったときに、「愛の神」によって、ある一人の「愛の天使」がつかわされたのです。


彼は、ハンドパワーだの、リンゴだの、白い羽毛だのといったアイテムを駆使して、その一家たちに愛のすばらしさ を教えて、本来あるべき関係に修復しようと努めますが、失敗し、凄惨な集団殺人事件という結末を迎え、華やかだった館は、廃墟となりました。


その「愛の天使」は責任を問われることとなりました。

彼は、なぜ失敗したのか。

それはもしかすると天使の身分でありながら、人間の女性につい「恋」をしてしまったせい なのかも、しれません。


そこで、同僚の、(あるいは先輩の)天使くんが見本を見せることになりました。

神の力によって、放っておけばおなじような騒動がおこりそうな(現代の)一家を、かつて事件があって今は廃墟となっているこの館に集団で転送してきて、芝居をさせることにしたのです。

そして、あの失敗した天使は、罰として羽根をとられ、ここの使用人の一人に転生させられたのです。それがケルビーノです。


イケメン天使くんは、この転送させられてきた一家に、騒動の種となるよこしまな恋愛感情をまず増幅させます。

彼らは思ったとおり、どたばたの騒動を始めます。

象徴的なのは、第2幕で、イケメンくんがハンドパワーで、壁一面に登場人物の相関図のようなものを浮かび上がらせたりする場面です。

イケメンくんは、ケルビーノに見せつけるように、愛の持つ素晴らしい力、たとえば親子愛であったり、信じる心であったりを駆使して彼らを導き、よこしまな伯爵を懲らしめようとします。

しかし、ケルビーノは、失敗にも懲りず、人間の女性に恋する気持ちを捨て去ることがどうにもできません


一方、イケメンくんは、第4幕の冒頭で、哀しそうに膝をかかえて座り込んでいます。

ここがよく解せません。

思ったほどはうまくやれないなぁ、人間という生物はなんとやっかいなものか、そんな感じかもしれません。


しかし、策略は結局うまく図にあたり、伯爵は悔悟し、全員が愛のすばらしさを高らかに歌い上げて、この芝居もおしまい、となるはずでした。

イケメンくんは、さいごの重唱が歌われ始めると、満足した表情で窓から飛び去ろうとします。


ところがそのとき、人間たちがそれぞれ勝手に動き始めます

それまで、たとえば伯爵とかがときにイケメンくんのハンドパワーに抗うような動きを見せたりするのも、彼らがまだ本当の愛を知らないからでした

本当の愛を知った今となっては、かれらは天使の操るままになるはずでした

ところがそうはいかなかったのです。

イケメンくんは、なんとかまた操ろうとしますが、無駄でした。とうとう、なんてぇこった、とでもいうような表情を浮かべて諦めて帰ってしまいます。

その瞬間、ケルビーノだけが、まるで糸でも切れたようにその場に倒れ込み、照明が落ちて幕となります。


オペラは終わりましたが、その後、彼はどうなったのか。


ケルビーノが気がついたとき、周りにはもう誰もいなくて、彼だけが一人取り残されていたかも知れません。

廃墟は元の時代に戻され、ケルビーノはこれから、新しい人生を歩むことになりました、、、とか。


このケルビーノが成長した姿が、いわゆる、ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)だ、という説もあるそうです。


・・・


いかがでしょう?

まぁ、我ながら ひどい妄想 だなと思いますが。。。


グート氏の演出意図がホントウはどうだったのか、とても気になるところです。

誰か聞いてきてくれませんかね。。。


・・・


長くなりすぎたので、あとは簡単に。


ネトレプコ様の歌は、最初この人はモーツァルトに合わないのではないか、などと思ったりしましたが、聴いているうちに とても素晴らしい と思うようになりました。今まで聴いたネトレプコの歌の中では、これが最高かも知れません。(そんなにたくさん聴いているわけではないんですけど)


しかし、それよりも、私にはやはりシェーファーの歌が絶品だったと思います。

それに、彼女に半ズボンを着せて男性役をやらせるというのは、とてもマッチしたキャスティングだと思います

ここではもう詳しくは書きませんが、いずれ、かつて観た「ヘンゼルとグレーテル」や「ルル」の感想を書くことがあったら、(「ヘングレ」の感想はかつてmixiに書いたことがありますが)、そのときに言及したいと思います。


また、収穫だったのは、イルデブランド・ダルカンジェロというバス歌手を知ったことです。

すっかりお気に入りになりました。

シェーファーとダルカンジェロは、同じ年のザルツブルクで、『ドン・ジョヴァンニ』にも出演しています。

近いうちに観たいなと思います。


マルチェリーナ役の人は、NHKの表記では、マリー・マクロックリンとなっていますが、この人は、マクローリンとわたくしが理解していた人と同一人物ですかね?

だとすると、かつてグラインドボーンでミカエラ役を観たことがあるのですが、とてもきれいな人です。

「椿姫」の外題役でも有名な人ですよね。

歌もきれいでした。


また、短いけど素晴らしく印象的なアリアを聴かせるバルバリーナ役も、よかったです。



※モーツァルト

  歌劇 『フィガロの結婚』


アルマヴィーヴァ伯爵 : ボー・スコウフス
伯爵夫人 : ドロテア・レシュマン
フィガロ : イルデブランド・ダルカンジェロ
スザンナ : アンナ・ネトレプコ
ケルビーノ : クリスティーネ・シェーファー
マルチェルリーナ : マリー・マクロックリン
ドン・バジリオ : パトリック・ヘンケンス
ドン・クルチオ : オリヴァー・リンゲルハーン
バルトロ : フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒ
アントニオ : フロリアン・ベッシュ
バルバリーナ : エヴァ・リーバウ


指揮:ニコラウス・アーノンクール
ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヴィーン国立歌劇場合唱団


演出:クラウス・グート


2006年7月 ザルツブルク、モーツァルト劇場
(2006年、ザルツブルク音楽祭)



よけいなひとことになりますが・・・


世界中で何人いるか、一人もいないのかわかりませんが、

この公演で初めて『フィガロの結婚』を見たという人がいるならば、

その方は不幸だと思います。。。


いろいろ考えることができたのは楽しかったですけどね・・・


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デアゴスティーニから、アイーダの次に送られてきた『フィガロの結婚』を観ようと思ったのですが、

(もうすでに次の『ラ・ボエーム』まで送られてきているので、急がないと・・・)

演出が、ピーター・ホール氏ということで、これは予習しなきゃいけません。フィガロは、もう長いこと観てないのです。

ホール氏の演出では、以前『カルメン』で、相当感心したことがあります。

(だいぶ前になりますが、mixiの日記で感想を書いたことがあります。あまりに長くなりすぎたので途中で放棄してしまいましたが、まとめてこちらに転載する予定です)

特に難しい演出をする人ではないけど、なにか斬新な見せ方をしてくれているんじゃないかという期待がもてる人です。


フィガロの結婚』は、うちには他に3つDVDがありますが、その中から2つを予習として観ることにしました。今回は、2006年ザルツブルク音楽祭での公演です。


演出は、クラウス・グートという人。有名な人なんですよね?

読み替え演出系ということで、今まで敬遠していました。

指揮は、ニコラウス・アーノンクール。オケは、ヴィーン・フィルです。


歌手では、なんといっても、ネトレプコ様シェーファー様の競演が聴けるということで、わたくし的にはとても魅力的です。シェーファー様がズボン役というのも個人的にはツボです。


序曲が始まると、なるほど、さすがに雰囲気が全然違います。暗いのです。一言で言えるような単純なものではありませんが、こんなフィガロ序曲を聴いたのは、初めてです。

アーノンクールってモーツァルトをこんなふうに演奏する人だったか、と、わたくしは恥ずかしながら そもそもモーツァルトをあまり聴かない人間なので、よく分からないのですが、そんなことを考えるいとまもなく、序曲の途中でするすると幕が上がり始め、導入劇が始まりました。


舞台上には、主要登場人物である、3組のカップルが、立っています。

フィガロとスザンナ、アルマヴィーヴァ伯爵と伯爵夫人ロジーナマルチェリーナとバルトロです。

まるで、時間が止まっているかのように、彼らはみな微動だにしません

そこへ、不可解な人物が現れます。彼の背中には白い羽根がついています。

天使かなにかでしょう。モーツァルトの原作には登場しない人物です。


この若いイケメンの天使は、いたずらっぽい表情を浮かべながら、3組の周りを巡って、白い羽毛を散らしたり、カップルの間にリンゴを置いたりしています。


序曲が終わりに近づいたころ、スザンナと伯爵が動き出します。

スザンナは伯爵の方へ近づいていきます。手をさしのべながら。

(あるいは、伯爵に何かを訴えようとした仕草だったか?)

そのネトレプコ様(スザンナ)を、伯爵め は、いきなり抱きすくめて接吻し、部屋に連れ込んでしまいます。


な、なんでしょう、これは?


ひょっとして、これは、(に聞く)スザンナと伯爵は実はデキていた、という設定でしょうか?

あるいは、ただ単に、物語の前提を示しただけのものでしょうか?

はたまたあるいは、未来の二人を(物語後の)、象徴的に見せたものなのでしょうか?

スザンナが見せた、やや複雑な表情(この後も時々見せる)を読み解けば、が解けるのでしょうか?

今後の展開に俄然興味がわいてきました。


そんなこんなで、ようやくオペラの本筋が始まるわけですが、

まず気になるのは、序曲同様、全体的に暗い雰囲気が続くことです。


もともとはブッファ(喜劇)なのに -ブッファと呼んでいいのか分からないけれど-

ここでの登場人物たちは、みなそれぞれ陰があるのです。

そして、それぞれが誰かに対して、怒りというよりも憎しみ の感情を抱いているかのように見えます。

憎しみ合う大人たちが、(ブッファの軽快なセリフのまま)本心を隠してやりとりしてる感じです。


照明、セット、どれをみても暗さがあります。

そして、ときには、まるでスプラッター・ホラーにでも発展しそうな雰囲気が醸し出されることすら、あります。

たとえば、第2幕で、伯爵が、ケルビーノが隠れている部屋のドアをこじ開けようと、道具をもってくるところでは、ボー・スコウフスがあの貌で、大きな斧を担いで現れるものだから、シュールなユニークさがあって、普通なら笑えるところです。現に会場にも笑い声は漏れますが、わずかなものでした。全体的に笑えるような雰囲気の劇になってないのです。

そして、現に、このすぐ後の場面では、このまま殺人劇が繰り広げられても何らおかしくないような、重苦しい演出が続きます。


また、順序が逆になりましたが、第1幕で、ケルビーノが、フィガロにからかわれる場面、有名なアリア「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のシーンですが、ここなども、サディスティックです。

いじめられるシェーファー嬢萌え~~となる人がいても理解できなくもないところですが、萌えない人間にとっては、とても息苦しい気持ちになります。あの軽快で楽しげなアリアの時に!


ケルビーノといえば、第1幕で最初に現れたときには、不思議な行動をします。

彼は、あのイケメン天使と同じ服を着ています(半ズボンです)。

バルバリーナと思わしき女性を追いかけて、部屋から飛び出してくるのですが、急に自分の背中に羽根が無いことに気づいて、困惑したような表情を見せます。

そして、目の前に立っているあのイケメン天使に向かって、助けを求めるような演技をします。

その天使くんは、導入劇のあとでも、しょっちゅう舞台に現れては、なんかしています。登場人物たちには、彼が見えていないようです。

つまり、ケルビーノだけ には、この天使の姿が見えているということです。

ケルビーノは、元天使だったのに、なにか神の怒りに触れるようなことでもしたのか、翼をとられた堕天使とでもいうような設定なのでしょう。

この2人、天使と元天使という設定から、読み替えとなっている全体のプロットを、少し考えてみることにします。


(翌日以降につづく)


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