山川健一さんの、8月26日から27日にかけてのTweetを掲載させていただきます。
もちろん、許可はいただいております。 一人でも多くの方に読んでいただきたいという思いでいっぱいです。お読みになったあとは、ゆっくりと考えていただきたいと思います。我々が、子どもたちが生きてゆく未来のために・・・
今から小一時間ほど、原発に関する連続ツイートを行います。よろしくお願いします。
この頃よく、2050年のことを考える。
今年生まれた赤ん坊は38歳になっている。
日本や地球はどうなっているのだろう? もちろん、ぼくはその時にもう生きていないだろう。だから想像してみるしかない。
今でも先進国の中でもっとも高齢化率の高い日本国民の高齢化と地球の温暖化はピークに達しており、人口はさらに増えつづけているだろう。
国連は今年の5月3日に「世界人口推計2010年改定版」を発表した。世界人口は今年10月末に70億人に達し、90年後の2100年までには101億人になると予測。1987年に50億人を突破した世界の人口は、その時2倍になるわけだ。
すると、2050年は80億人ぐらいにはなっているのだろうか? そんなに人間がいて、食料は足りているだろうか…。
原子力発電所の「もんじゅ」はこの2050年の実用化を目指している。その「もんじゅ」は2010年8月26日 に作業員の操作ミスで、原子炉容器内に筒型の炉内中継装置(重さ3.3トン)を落してしまい、そいつを取り出すことができないでいた。
「もんじゅ 復旧作業の着手了承 原子力機構 福井」(産経)→http://t.co/P5Ygjgg
日本原子力研究開発機構は24日、敦賀市内で外部有識者による検討委員会の第4回会合を開き、野口茂雄・敦賀本部長代理が冒頭で「来週にも復旧作業に着手したい」と述べたのだそうだ。
誰もが口を揃えて「高速増殖炉のもんじゅは危険だ」と警告しているのに、彼らはまだあれを動かそうとしている。なぜ?
東京電力福島第一原発にしろ「もんじゅ」にしろ、2050年にどうなっているのだろう。どれくらいのシナリオの幅があるのだろうか。いずれにせよ、使用済み核燃料の処理はその時もまだ手つかずのままだろう。
20年ほど前に、ぼくは『セイヴ・ミー/ぼく達の未来 』(立風書房 1991/02)という本の中で、この「もんじゅ」を取材しに行き、長い文章を書いた。
この本では、ぼくなりに、なぜ日本はこんなに危険な高速増殖炉なんてものにこだわるのか、その理由を探った。
原子力とは蒸気機関と同じで、蒸気を発生させてタービンを回し発電するわけだ。前にもこのブログで書いたように、それは60年代には日本人が共有する夢だった。科学的な合理性があるのだと誰もが信じた。
日本ばかりではなく、世界の人々がそう信じた。
だが1970年代半ば、まずアメリカは夢から覚めた。建設中の原発がキャンセルされ、79年のスリーマイル島の事故がアメリカ合衆国の原発にほぼピリオドを打った。
その頃、フランスなどの例外はあるものの、ヨーロッパのほとんどの国も原発をあきらめる。
原子力を人間が利用するのは、ファウスト博士(ゲーテ)が悪魔との取引きするみたいなものだ、失うものの大きさに較べてメリットがないという判断があったからだ。
天然資源としてのウランは40年程度しかもたないのだ。そんなものとリスクを引き換えるのは馬鹿げている──と彼らは合理的に考えたのだろう。
しかし、日本だけはそうならなかった。なぜか? 国家がやると言い続けたからだ。それに、電力会社、東芝、三菱、日立などが従ったのだ。
国家として、日本は核を求めた。原子力の平和利用というスローガンを掲げながら、核兵器を求めた。『セイヴ・ミー/ぼく達の未来 』では、何となくそういうことがわかるように書いたつもりだった。
だが、断定はできなかったから、あくまでも個人的な推論という形でそのことを書いた。
ところが、2010年10月 3日、NHKが衝撃的な番組をオンエアした。”核を求めた日本:被爆国の知られざる真実” という番組である。これ、必見です。
番組では、「佐藤内閣が核兵器開発の検討をしていた」という、内閣調査室主幹の証言を紹介している。当時の西ドイツと秘密交渉して、互いに核武装の方向性を探りあったというのである。
西ドイツは東ドイツに配備されたソ連ミサイルに照準を合わせられていて、常に核攻撃の不安を抱いている状況だった。だが、「東西分割されている今、自分では決められない問題だ」として検討から降りた。
この時代、中国やインドが核保有して、日本の安全も脅かされていた。
第二次世界大戦の敗戦国である日本は、国連の常任理事国にも入れない。5カ国は核兵器を持っているのに、日本はそれさえも禁じられている。
内閣調査室は学者や外交官、防衛庁などを含むチームで、原子力発電所で使う濃縮ウランから、あるいは原子炉から出るプルトニウムからどれだけの核弾頭が作れるかを検討していたのである。
日本では国策として、原子力の平和利用と言いながら、核兵器所有への可能性が長らく模索されてきたのだと思う。こうして、悲願としての「もんじゅ」が建設され、核兵器の原料になるプルトニウムを手に入れることに成功する。
核抑止力に相当するものを、日本は「もんじゅ」で持つことができた。核兵器の技術と原発とは、表裏一体なのだ。
だがそれも、もはや風化している。日本が核武装するということは、IAEAレジームの中では国連を脱退することを意味し、そんなことが不可能なのは第二次世界大戦の敗北を例に引くまでもなく明らかではないか。
IAEAというと、何か立派な国際組織のようだが、あれは端的に言ってしまえば日本が核武装しないように目を光らせる組織なのだとぼくは思っている。
国策としての原発建設が進行するうちに、その巨大な権益に群がる二流、三流の政治家や官僚がはびこり、電力販売の独占をつづける電力会社は肥え太っていった。
やがて関係の逆転が生じ、電力会社に流れ込む原発マネーが官僚組織や政治家を支配するようになっていった。
かつての国策は既に風化してしまい、今や権益だけがのこったのだ。妥当性や合理性など、もはや存在しないのだと言うしかない。
今の内閣を指して「学級会レベルだ」と言う人は多い。内閣だけではなく、野党も官僚組織も東電も、ジャーナリズムも科学技術もすべてが稚拙である。それは、われわれが等しく、理念を喪失し権益だけがはびこる国で生きているからだ。
「もんじゅ」が生産するプルトニウムを使用する日本の核武装なんて幻想なのであり、日本は一刻も早く核オプションの亡霊と決別しなければならないのではないだろうか。
そして、新しい国家のための新しい理念を、皆で力を合わせて構築していくしかない。政党の枠組みを超えて、信頼できる人物に1票を入れつづけるしかない。
エネルギーの消費量と幸福はイコールではないのだ。
原発がなくたって、電力は足りている。いや、電気が足りようと足りまいと、これ以上原発を推進してはいけない。
ぼくら人間には、ファウスト博士のような悪魔との取引きなんて許されてはいないのだ。今年生まれた赤ん坊が、幸福な38歳を迎えていられることを、祈らずにはいられない。
お嬢さんを今年無事に東電に入社させた自民党の石破茂政調会長は、8月16日の報道ステーション「原発 わたしはこう思う」にゲスト出演した。
石破茂政調会長は、こう述べた。「原子力発電というものがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原子力政策というのは核政策とセットなわけですよね」
「ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は(核を)作ろうと思えばいつでも作れる。1年以内に作れると」(石破茂政調会長)
「それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。」(石破茂政調会長)
石破茂政調会長が出演した時の報道ステーションをぼくは見ていません。このブログからの引用です。→ http://t.co/cBsTisc
原発推進は、日本が核武装するための隠れ蓑だったのだ、とぼくは思ってきた。いやいや、そんな生易しいものではなかったのだ。防衛庁長官(第68・69代)、防衛大臣をやった人物が「ひとつの抑止力ではある」とテレビで言ったのだから。
「日本は(核を)作ろうと思えばいつでも作れる。1年以内に作れる」(石破茂政調会長)──ずいぶんあっさりと言ってくれるよなぁというのがぼくの率直な感想でる。
原発推進論者は、原爆は核だが、原発は核の平和利用だ──という立論で相手を欺いてきた。だが、自民党の石破茂政調会長自らがテレビで「原発=核」だということを公言したことになる。
原発はコントロールできる核のはずだった。だが一度それが暴走すれば原爆と変わらない代物だったのだということを、東電福島第一の事故が露にしたのだ。
人類が核を制御できないことを、東電福島第一の事故が証明したというのに、まだ「核」の魔力から逃れられない──いや、金の魔力から逃れられない人々がいるのだ。
東京新聞が8月17日の朝刊で重要な記事を配信した。これです。→ 交付金で原発後押し レベル7翌日「新設は増額」http://t.co/CYNffJ5
記憶をたどってみる。4月12日に46自治体の69の選挙の開票が行われた。この日──つまり投票直後、いかにも唐突に「レベル7」の発表があった。「しかし、フクシマはチェルノブイリほどではない」とテレビも新聞も報道しつづけた。#genpatsu #原発 #nuclearJP
その翌日の4月13日に、交付金を支給する仕組みを全面的に改正していたのである。東京新聞から引用する。
「原子力関係予算を握る経済産業省と文部科学省が福島第一原発事故の一カ月後、原発の立地自治体などに交付金を支給する規則を全面改正し、新増設時の交付額を増やす一方、既設の原発では発電実績に応じて交付額を決める方式に変更していたことが分かった」
「事故収束に向けた見通しが立たず、原因究明もままならない時期に、新増設や運転を後押しする改正をしていたことになる」
これは許せない。断じて許すことができない。東京新聞からさらに引用させていただく。
「改正したのは「電源立地地域対策交付金」の交付規則。四月十三日に改正され、海江田万里経産相と高木義明文科相の連名で、同日付の官報に告示した」
「経産省原子力安全・保安院が福島第一原発事故の国際評価尺度を、旧ソ連チェルノブイリ原発事故と同じレベル7に引き上げた翌日のことだった」
「資源エネルギー庁は今回の規則改正を記者発表せず、官報に告示しただけだった」
何度も言うが、日本は民主主義国家ではなかったのか? こんな野蛮なやり方が認められるのなら、民主主義は死んだも同然である。
海江田万里と高木義明。この二人は、国民のために全身全霊をかけているフリをしながら、もっとも福島第一があれだけシビアな時に、密室でこっそり交付金の仕組みを変えていたのである。
海江田万里経産大臣と高木義明文部科学大臣は、官僚が書いた原発再稼動のスケジュールを忠犬のようにこなしていただけなのだろう。だがその行いは、悪魔に魂を売ったファウスト博士と同一である。
その海江田万里は、民主党の代表選に立候補を表明している。おそらく高木義明文科相と密室にこもって謀議している時に既に、原発マフィアの力を背景に次の首相になろうという野望を胸に秘めていたにちがいない。
福島がチェルノブイリを超え、たいへんなことになりそうだということは、政府首脳にはわかっていたはずだ。だから「レベル7」の発表をせざるを得なかったわけだ。
そんな時に、今後は原発を動かすほうが儲かり、止めているとお金が入らず財政が厳しくなるという改正を行ったのである。鬼畜の所業である。
長くなってしまった。が、今夜はもう少しつづけさせてほしい。
国連の枠組みを超えようとして、日本は秘密裏に核兵器を開発しようとし、そのために原発が必要だった。原発という悪魔に魂を売り渡し、原発マネーという麻薬に冒された人々が国家の中心に居座ることになった。
日本は民主主義国家だったはずだ。その枠組みを無視しているのは政府のほうだ。この国をいい方向へ導くには、まずTwitterやブログで「原発はもう止めないと」という空気を作っていくことが大切だと思う。
日本の政党は民主党も自民党も一種の利権集団であり、強固な理想や思想はないものと思われる。したがって、同じ政党に所属していても、基本的な考え方でさえバラバラなのだ。個々の政治家が原発について何と言っているのかをチェックする必要がある。
市議会や県議会議員から国会議員の選挙まで、彼らの原発に関する主張をチェックし、地縁・血縁のシバリを乗り越えて自らの1票を投じる。とりあえあずそれがもっとも有効な方法だとぼくは思う。
前向きな発言を繰り返していても、肝心な部分で言葉を濁す政治家が多いので騙されないようにしなければならない。
子供達の命が危ない。ぼくの周囲にも、日本脱出や九州や沖縄に移住した人がいる。これから子供を産もうととする女性や、子供をかかえるお母さんにとってそれは当然の選択肢だと思う。家族やある集団が崩壊するからと言って、それを責めてはならない。
ぼくは個人的な決断として、もう58歳だし、この国で生きてここで死んでいくしかないのだと思っている。ただ、原発を止めることができさえすれば、長い時間をかければ大地と空と海を回復できる可能性はゼロではないはずだ。
皆がそれぞれの場所で真実を告げることができさえすれば、そしてぼくらがぼくら自身の魂を救助することができれば、未来が拓けてくる可能性だってあるはずだ。それは、ここ数ヶ月のぼくらの選択にかかっている。
政府や官僚がそいつを踏みにじったとしても、ぼくらは民主主義というものを建て直すべく努力するべきだ。
未来への可能性は、原発を止めることができれば──という仮定の向こう側にしか存在しないとぼくは思う。一度バラバラになったとしても、また皆でいっしょに暮らしたいものだ。
原発事故を克服した国──そうなりたいものだ。
長時間お付き合いいただき、またリツイートしていただき、ありがとうございました。これで、今夜の原発に関するツイートを終わりにします。
山川健一さんのブログ 「イージーゴーイング」
http://ameblo.jp/yamaken/






















