「ギフテッドが見る世界は」を観て。 | おいしいごはんと、そらの日々。

「ギフテッドが見る世界は」を観て。

先日upしたこちらの番組、視聴しました。

 

 

 

むしろ、”そちらの側面”にフォーカスした内容でしたね...

 

一昨日はこの番組を視聴後、

都央と長男が一緒だったならいごとの

主宰者のかたと食事をする機会があったので

番組についても話しました。

 

もう1人、番組の中で取り上げられていた大西くんも

このならいごとと関係があるかたで

わたし達にとってとてもホットなトピックだったので爆  笑

 

前回の記事で書いた、

『いま日本で使われている「ギフテッド」という

言葉の捉えられ方があまり好きではない』

についてもうちょっと触れてみます。

 

いま日本には”ギフテッド教育”の選択肢がほとんどなく、

”可及的速やかに”整えなくてはいけない状況だと思います。

 

ただその方向性を、見誤らないでほしいなと。

 

「ギフテッド教育」というのは

”飛び抜けさせる”ための教育であってはならない、

と強く思っています。

 

件のならいごとにも、

「わが子はギフテッドです」という保護者が

お子さんを連れていらしたことがあるそうです。

そのお子さんはそのならいごとの場では

のびのびと生き生きと、その子らしさを

発揮することができていたそう。

 

でも保護者のかたは、

(ギフテッドなのに)学校の勉強をせず

成績が下がっていくわが子が許せない、と

ある意味、「ギフテッド」という言葉に

依存してしまっているように見えたと。

この状態、残念なのだけど

往々にしてあると思うのですよね...。

周囲の大人が、「ギフテッド」という言葉に

過大な期待や依存をしてしまう。

わたし、おおもとの”gifted”という言葉は

困りごとが多かったり、

感情のコントロールが難しかったりして

育てにくさのあるこどもを持つ保護者が

気持ちを軽くすることができるよう、

ある意味ちょっと逆説的に使われるようになった

という部分もあるのじゃないかなーと思うんです。

(giftという語にもともと、「才」という意味があるので)

 

でも日本での捉えられ方は、

前述したように”キラキラとした”、

”選ばれし天才児”、”恵まれた存在”の

”スター”みたいな。そんな印象を受けます。

 

「ギフテッド」に当たるこども達は少なからず

学校で”普通じゃない自分”に苦しんできた、という部分がある。

ところが、「ギフテッド」という枠の中に入れられると

今度は”飛び抜けられない自分”、

”普通”な自分に苦しむことになる。

(何か特定の分野で、早い段階に、

表彰される、賞を獲るなど

明らかな優位性を見せるケースは

そう多くはないと思います)

一方では”普通になれない”自分に苦しみ、

一方では”平凡な”自分に苦しまねばならないなんて

こんな悲劇、あってはならないです。

 

(rocket時代の東大先端研などに、

そうした側面があったように思います)

 

「浮きこぼれ」などの言葉も出てきたりして

ギフテッドや、特性のあるこどもへの

教育が注目を浴びてきていますが、

殊更に”飛び抜ける”ことを期待したり

逆に、弱点を克服させようとしたり、という

当事者のこどもを、意図せずして潰してしまうような方向に

進まないでほしい、と願っています。