能登半島地震から1か月あまりが過ぎた。

内灘町の液状化が大きく報道され、

その報道に私は少なからず衝撃を受けていた。

そして、この「内灘夫人」を求めようとしたが

なかなか手に入らず、ようやく文庫本を1冊、

古本屋で購入した。

大袈裟に書いたが、私は内灘にはなんのゆかりもない。

 

三十代に入ってまもなくの頃、金沢にひとり旅をした。

その時、偶然に金沢の駅で、友人Oの兄さんに出会った。

故郷に帰っていて、いまから内灘に行くのだという。

内灘は1960年の少し前「内灘闘争」のあったところ。

米軍の射撃場として内灘を提供することに反対した闘争で

戦後初めての米軍基地反対運動である。

学生と労働者が一体となった、歴史的な激しい闘争であった。

そういうことをわずかながら知っていた私は

友人Oの兄さんについて内灘へ行くことにしたのだ。

内灘は砂丘であった。

美しい砂浜があった。

 

間違っていると思うが

勝手な想像をするに、この砂浜の周辺を開発したとしたら

液状化の原因になったかもしれない・・・。

 

「内灘夫人」はこの闘争を背景に描かれた

五木寛之の青春小説である。

確か1970年前に発表された。

学生運動の活動家克己と小説の言葉で言えば

有閑マダム、といっても30代の夫人霧子との物語である。

 

1967,8年頃、私は友人Oの原子力空母寄港反対運動などのシンパとして、

京都駅などで署名募金活動を手伝っていた。

毎晩のようにバイトが終わると情宣ビラのガリを切り

朝には登校する学生たちにビラを配ったりした。

 

私と同じように新宿で署名募金活動をする学生活動家克巳の登場から

この物語は始まる。

夫人霧子はいまは広告会社を経営する夫と学生結婚をしていた。

二人が距離を縮めたのは実は内灘闘争であった。

克巳は親の仕送りを断たれるという現実、

さらには周りがどんどん就職を決めていく中で

将来への大きな不安が募る。

霧子の夫もきっとそうであった。

克巳と霧子の夫が重なっていく。

 

そして、物語ほど深刻ではないけれど

当時、私も焦っていた。

五木寛之らしい展開ではるが、

私に思い出させたことも多かった「内灘夫人」である。

 

余談だが、友人Oもその兄さんも

先年亡くなった。