夏の終わりの影がありますね。

 

上旬に体調を崩して

なんだかんだとグダグダしていた。

ようやく普通に生活できるようになった。

歳をとると復帰に時間がかかる。

3年前とはまったく違う。

そんなことを身をもって感じた。

 

 

 老人はころがる残暑の冬瓜も 坪内稔典

 

 長尻の老人糸瓜の二,三本

 

 老人へペンギンが来る雲は秋

 

 老人と犀は仲良し秋うらら

 

 老人の秋のスープは具だくさん

 

この句集、とにかく老人の句が多い。

その中から秋の句をちょこっと選んだ。

少し前ならわからなかった感覚が

とてもよく通じてくる。

老人になったら、こうありたいなあ、の気分が

描かれているのかなあ。

 

「残暑」と「冬瓜」は秋の季語。

季重なりという指摘が

特殊な人からあるかもしれない。

季語の強弱を考える、

なんでもかんでも教条的にならない、

そういった思考をもたないと

俳句は前進しない。

 

掲句の中の「秋」という「季語」が気持ちいい。

「雲は秋」「秋のスープ」が

秋を広げてくれる。

季語は基本、「春、夏、秋、冬」でいいのではないか

という坪内稔典氏の言葉が素直に受け取れる。

 

この句集、夏に苛められた心身によく効く。

 

 

 

 

 

 

この暑さの中、1週間ほど寝込んでしまった。

気持ちは前向きのつもりなんだけれど

身体がついてこなくて

だらだらと過ごしている。

気分を変えるために、昨日の夕、

万博公園に出かけた。

綺麗な夕焼けだった。

 

句集「ヤツとオレ」は坪内稔典氏の

第12句集である。

60歳代から70歳代にかけての作品と

著者があとがきに書いている。

 

 カバを見て宇治金時へ来たばかり 坪内稔典

 

 だれそれに浮沈があって夏のカバ

 

 哲学の日和ぐちゃっと赤いカバ

 

 そうめんを食べた日赤いカバ見た日

 

 水を出るぐんにゃりと出る夏のカバ

 

 へなちょこもカバも午前の虹の中

 

この句集、とにかくカバがたくさん出てくる。

夏のカバのいくつかを引いてみた。

新しいキャラクターのカバだ。

カバを「坪内稔典」として読むと

ねんてん氏の日々が見えてくる。

 

この句集、カバのほか

次回紹介するが

たくさんの老人も登場する。

坪内稔典氏の私俳句集かもしれない。

 

 

 

 

句集「髙三郎と出会った日」の表紙だ。

句集っぽくない。

意図があるのだろうが意図がボクには読めない。

 

 草の秋ペルシャから来て腰おろす 坪内稔典

 

 星冴えてフィラデルフィアの窓みたい

 

 アフガンのガラスの花器と文旦と

 

坪内稔典氏の作品には外国の地名がよく出てくる。

外国人の名も多い。カタカナが多い。

俳句っぽくない。

 

句集っぽくない、とか

俳句ぽくない、とか書いたが

そういうことなのだろう。

いわゆる「俳句」のイメージを壊す。

「俳句」の領域を広げる。

従来の俳句を超えようとしている。

 

坪内稔典氏は俳句を「過渡の詩」と位置づけた。

誤解を怖れず、大胆に要約すれば

俳句は常に、日々、新しくなっている。

俳句にゴールはない。

そういう定義であり、その主張を常に前向きに

作品として提示する。

それが「俳句っぽくない」のだろう。

 

この句集で提議する「俳文」とは

いまもって理解できていないが

俳人がよく書くエッセイを

単なるエッセイとしてではなく

俳人の文章として書いてみたらどうかという

提案ではなかろうか。

 

そのようなことをこの句集を読みながら

考えてみたのだ。

 

百日紅が満開である。

ボクは夏の花と言われると

この百日紅と夾竹桃を思う。

どちらの花も勝手だが

暑苦しい感じがするのだ。

 

 

 月欠けて髙三郎と出会った日 坪内稔典

 

 東風の日の淡路貝類研究所

 

 東風吹いて弥生遺跡は穴ばかり

 

句集と同名の章「高三郎と出会った日」から

3句を選んだ。

前回、この句集は難しいと書いたが

なんとか読んでみようとチャレンジしたくて。

 

この句集を初めて手にしたとき

恥ずかしい話だが

「髙三郎」ってどんな人?と思った。

検索して、植物、

小さな雑草であることを知った。

因みに「タカサブロウ」と読む。

 

1句目は

いつもは振り向きもしない髙三郎と

道端で出会った。

そのことが月の欠ける夜になっても

とても気になっている。

文字通りに読めばこうだろう。

さて、ボクは拡大解釈して

いつも気づかいなちょっとしたことが

とても気になっている。

そんな日とはどんな日、どんなことのあった日?と

イメージする。

もちろん?この日、作者に何があったのだろうと

想像しながら。

 

この読み方が正しいかどうかは知らない。

俳句は読者が結末をつくる詩だから。

話は逸れるが

小説を読んでいると主人公のイメージを勝手に

つくっていったりしている。

極端に言えば、それと同じと考えている。

 

後の2句も解説したかった。

疲れてきたので

機会があればまた・・・。

 

 

 

 

 

紅白のアメリカフヨウ。

大きな花が目立つ。

道端で出会うと華やかさに戸惑う。

 

 

 枇杷咲いてインクの青の青いこと  坪内稔典

 

 落ち葉してピアノになったハイヒール

 

 探偵の靴に日がさし牡丹雪

 

 馬肉屋をぞろぞろと出る寒月光

 

 停泊の者らは灯す冬の暮

 

句集「高三郎と出会った日」の最初の章から

気になる句を選んでみた。

いままでの坪内稔典氏の作品と少し趣が違うように思う。

とても難しい。

描いてあることは普通かもしれないが

どう解釈していいのか戸惑う。

 

「ピアノになったハイヒール」とは?

「馬肉屋」とはどんなところ?

アタマの中がぴかぴかになったり

こころがザラザラとしたりする。

 

この「高三郎と出会った日」には

「俳句と俳文」という副題が付けられている。

 

そもそも俳文とは何だ?

「俳句は読みづらい。ことに句集となると、その読みづらさが

はなはだしい。(中略)というわけで、俳文を添えるというか

俳文と俳句をいっしょに収めるだけでもいくらか読みやすさが

増すのでは・・・。」と坪内稔典氏はあとがきに書いている。

因みに掲出の5句がある章に

5つの「カバになる」という俳文が添えられている。

 

さて、読みやすくなったかどうか。

ボクはその差、違いがいまのところ判らない。