次に蝉の鳴き声が聞こえた時、眠りから目覚めた。いつの間にか眠りに落ちてしまった。どれ程の時間が経ったのか見当もつかない。1分なのかもしれないし1時間かも、1日かもしれなかった。瞼を開いても暗い天井が見えるだけだった。蝉の鳴き声のような音は近くから響いていた。それが蝉の鳴き声ではなく、鼻をすするような音に気がついた。
隣をみると白い背中かが見えた。視線を少し変えると艶かしい女性の後姿があった。自分が何をしたのか思い出すまでには時間はかからなかった。その白い背中を見てどんな言葉を口にする事も、何をすればいいのか全く事も思いつかない。良くみると白く美しい肌は波打つように動いている。
甘い汗の香がもう一度鼻の傍を横切る、有里にはこんな香を感じた事はない。その甘く官能的な香は脳の深い場所を柔らかくくすぐった。夢の中で蝉の鳴き声の様にに聞こえた音は、田中さんが鼻をすする音だった。背中に掌を乗せると、田中さんは体を回してこちらを向いた。
成熟した胸が目に入る。改めて目の前にいる人が有里ではないのだという事を思い起こさせた。顔にかかった髪の毛をそっと掻き揚げると、僅かに光る部屋の明かりが頬を流れる水の筋を光らせていた。「田中さんが泣いている」頭の中でそんな言葉を繰り返した。
「ごめんね」
田中さんが呟き、大きくしゃくりあげた。返す言葉は無いかったが、腕は自然に肩を引き寄せ、抱きしめていた。田中さんは、胸に顔を押し付けししゃくりあげた。暫くそうしていたが、落ち着くと床に落ちていたタオルを拾い上げ浴室へ向かった。灯りが点くと、ガラスの向こうに田中さんの姿がはっきりと見えた。
ベッドから自分の姿が見える事に気がつかないのか、巻いていたタオルを取りシャワーのノブを捻った。暫くすると浴室のガラスが摺りガラスのように曇りシルエットだけが浴室の中で動いていた。浴室から漏れてくるシャワーの音は喫茶店で聞いた蝉の鳴き声を思い出させた。暑い夏は始まったばかりだ。
二人共、まだ濡れている服を身に着けると、お金を受付で払い、身を潜めるように二人で建物を出た。腕を掴む田中さんの左指にはもう指輪が戻っている。建物から遠ざかるまで誰とも出会う事は無かった。濡れた路面は車のヘッドライトを反射し、タイヤは水を掃ける音を響かせて通りを横切った。
あんな雨が降ったというのに蒸し暑さは変わっていない。少し歩くと額に汗が滲んだ。図書館の駐車場に停めた車を取りに田中さんと野毛の坂を上る。坂の途中にある交差点を折れれば、図書館の高い建物が見える。田中さんは腕にしがみ付く様に図書館まで来た。
雨で泣き止んでいた蝉は再び鳴き始め、その鳴き声が夜の山を埋めていた。鳴き声は煩いと感じる程になり、塊となって山を下り横浜の下町に響いていた。電気の消えた真っ暗な図書館が坂の中腹に見えた。玄関をを回り真っ暗な駐車場へ行くと、それほど広くない駐車場の隅に車が一台だけポツリと残されていた。
車へ近づくと人影が見えた。暗い駐車場の車の横にはっきりと誰かがいるのがわかった。近づくと、有里の姿がそこにあった。もう少し近づいていくと有里は身動きもせず真直ぐに此方を向いてた。田中さんが掴む腕を振りほどき、有里の所へ走りより有里の体に触れると服が濡れていた。
「どこへいったいたの」
有里は静かに言った声は震えていた。
「ここで、あなたが来るのを待っていたのよ……」
そう続けたがそれ以上言葉にはならず、大粒の涙が目から零れ落ちた。何の言葉を発する事もできない。だまって有里を抱き押せる。有里は肩に頭を押し付けて震えた。
「ごめん……」
と言うと、有里は頭を上げ突然後ずさりした。
「何故謝ったの……それに貴方からするその香り……。その人、図書館の人でしょ、ここへ君をつれてきてくれたの。あなた、今朝図書館のカードが入った定期券が拾われていると教えてくれた人、教そわったように町田の駅まで行ってきたのよ。駅員さんに聞いたら、探してくれてけど、そんな拾得物はないって言われて。図書館に戻ってみると席の荷物は片付けられて、受付に定期が届いていた。荷物は、図書館の人が預かってくれたらしいの……どうして、どうしてそんな嘘をついたの」
そこで言葉を切って続けた
「それから、君が来るのをずっとここで待っていたのよ……」
田中さんの影になった顔にも光る物が見えた。
「ごめんなさい。あなた達のことは前から知っていたわ、今朝、有里さんの定期を受付に拾った時に思いついたの、結婚前に……」
言葉を終わらせないまま、田中さんは突然森の小路へ走り暗い森の影の中へ消えてしまった。有里は黙ってその場に立ち尽くしていた。有里に歩み寄ると「いや」という言葉にもならないような小さな声を残し走り出した。有里の顔からは波がが零れ落ちていた。走り出す有里の背中が見えるが、どうしても足が動かない。
そうしているうちに有里の背中は登ってきた坂に向こうに消えてしまった。蝉の鳴き声が駐車場を包む、晴れて星の出た空を見上げると涙が溢れてきた。潤んだ目には、坂の中腹にある図書館の建物が、夏の夜空にへ聳えているのがぼんやりと映った。
「有里」と叫んだでみたが、そんな声も蝉の鳴き声と混ざり合って夜の街へ消えていった。
- 完 -
ご精読いただき、本当にありがとうござます。風のように駆け抜けた2日間の短編でした。推敲が完全でないので読みにくいかもしれません……申し訳ありません。機会があったら書き直します。引き続き赤と青シリーズの方も宜しくお願いします。
この物語は「エド吉」自身の話か?というご質問がありますがそれは読者のご想像にお任せします。物語の中に作者はいません、読者と主人公の関係があるだけだと思っています。ではまた!