水溜りのような陽だまりを避けながら、木陰の中を丘へ登る小道を登る。大戦前にできた古い浄水場を抜けて、明治時代の貴族が残した庭園を作り変えた岡の上の小さな動物園に着いた。日陰を選んで歩いても、夏の空気は重く沢山の熱を蓄えていた。田中さんの後を歩くと、綿の薄く白いブノースリーブのラウスの背中には汗が滲みブラジャーの紐が透けて見えた。
夏の動物園の香りは、男女が二人で歩くには少しばかり問題があったが、暑そうにしている白熊やペンギンを見ながら夏の動物園を散歩するのは楽しい。大きな孔雀が前を横切り、猛暑に興奮して観衆へ向けて便を投げつけるオラウータン、どんな場所も久しく来ていなかったから新鮮だった。
田中さんのお勧めの喫茶店は、動物園を抜けて道路を跨ぐ斜張橋を渡った公園の中にあった。横浜の下町を眼下に見下ろす小高い丘の上に建てられていた。中に入ると崖に向かって広く窓が張り出し、向こうには伊勢崎町や中華街、元町といった横浜の繁華街が広がっている。
案内された席向かう間汗で濡れ空けたブラウスの背中を見ていたら、視線に気がついたのか恥ずかしそうに薄いグリーンのレースのカーディガンを羽織った。通された窓際の席は日当たりが良すぎたので田中さんは窓から一つ隣の席に腰を下ろした。窓の直ぐ下には大きな飛び込み台のある大きなプールがあり、そこには夏休みを迎えた子供達が遊んでいる風景があった。
エアコンの冷たい空気は暑くなった体を冷やしてくれた。田中さんは、革製の黒いバッグからタオル地のハンカチを出し、額の汗を叩くように汗を拭いた。ウェイトレスは二人の前に水の入ったグラスを置く、田中さんがアイスティを注文したので、
「同じで……」
っと告げた。気温が高すぎるのか、前日に面白く無い事があったのか、ウエイトレスは全く白い歯を見せること無く不機嫌そうに入り口へ戻っていった。平日の暑い午後に動物園にやってくる物好きは多くはいない。店の中はガランと冷たい空気に満たされ、ここも森からの蝉の鳴き声が遠く響いていた。
「ねぇ、覚えてる」
「覚えてるって何を……」
「修学旅行の打ち合わせをした時の事よ」
高校の修学旅行は通常なら2年生に終わる筈だった。前年の秋に起ったテロのおかげで延期になってしまい修学旅行が3年生の前期にずれ込んでしまったのだった。大学の受験勉強を控えた3年生には、迷惑だった半面、高校生活での修学旅行が消えてしまわない事が嬉しかった。
しかし委員を任された人達は、受験勉強の時間が消える事へ一応に文句を言った。たいした大学を受験する予定もなく、のんびりと過ごしていた様子から、白羽の矢が立ち委員に任命された自分は、文句も言わず委員の仕事を皆の分も引き受けてやった。田中さんはきっとその時の事を言いたいのだろう。
「あぁ、覚えているよ。皆帰ってしまうし大変だったよね。」
「ええ、貴方が一生懸命やっている姿、かっこよかったわ。皆が帰ってしまった後も、一人で残って版下に出す前の枝折の手直しをしたり、残っている人にスナック菓子を買ってきたり。ずっと観てたのよ」
「よせよ、ただ受験、どうでも良かったから打ち込む事が必要だったんだと思う。そういえば田中さんはいつも最後まで残ってくれていたよね」
「ええ、ただ私は……」
とそこで言葉を軽く切って遠くに見える山手の丘の方へ目を移し、
「あっ、あそこにに見えるのが山手教会かしら……」
と言った。そして、田中さんは教会の方に顔を向けたたまま続けた。
「実は、9月になったら結婚するの、一昨日あの教会の予約したばかりなのよ」
「そうなんだ、おめでとう」
「えぇ、ありがとう。でも実は恋愛じゃないの。ごめんねこんな個人的な話……見合いという訳でもないけど親の関係で……随分古臭いでしょ。だから結婚式だけは自分の好きな場所で挙げようと思って……」
アイスティを注文してからどれ位の時間がたったのだろう、ウエイトレスは二人の前にコースターを置き、それから砕いた氷の入ったアイスティーとレシートを面白くなさそうに置いて戻っていった。ストローを袋から出して氷をかき回すと、蝉の鳴き声に混ざってカラカラと氷がグラスに当る音が風鈴の様に響いた。