ブログネタ:自分が北島康介選手なら、SPEEDOの水着、着る? 参加中競技会場に選手紹介のアナウンスが響く、名前が呼ばれると立ち上がり観客席に向かって手を振ったり腕を回し上着を脱ぐと、筋肉の鎧に覆われた上半身が露出される。瞬間、選手の顔は集中と緊張でピリッと引き締まり、緊張感がモニターを通して伝わってくる。
最後の選手の紹介が終わるとジャージを脱ぎ椅子の背もたれに丁寧にかけスタート台へ向かう。観客席からは割れんばかりの歓声と拍手が選手に贈られる。会場の賑やかさとは反対に、プール水面は少しの波もなく鏡面のように滑らかに競泳場の天井とスタート台に乗った選手の姿を冷淡に写す。
スタート準備の合図が送られる。それまで騒がしかった会場はプールの水面と同じ静寂を取り戻し、張り詰めた空気が会場を包む。選手一人一人の鼓動が会場に共鳴し、水面は鼓動に合せて揺れて見える。スタートの合図が鳴ると同時に鏡のような水面には荒々しい水飛沫が舞い、大きな波が叩き合う。
思えばオリンピックの商業化はロサンゼルス・オリンピックの成功に始まった。スポーツ・メーカ各社が競うようようになっり、プロ選手も競技に出場できるようになった。オリンピックの大きな変革だった。おかげで選手はスポーツを通じて生活を送れるようになり、個々のスポーツのレベルが格段に上がった。
世界記録はオリンピックが来るたびに量産された。そして生み出された世界記録はお金を生みだした……スポーツ商業化の連鎖の始まりだ。良いスポンサーの付いた選手は記録を伸ばし、記録を出した選手には良いスポンサーが付いた。努力を重ねても条件に恵まれない選手は消えていき、商業化に乗った選手が生き残る。
そんなスポーツの社会が形成された。選手がスポーツを通じて生計を立てる……仕方の無い選択肢だ。一方スポーツの純粋性が失われてしまったと思う人も沢山居ただろう。お金のためでなく、自分の力を信じて練習を重ねてきた選手には衝撃的な事だったに違いない。
「炎のランナー」は、自分の信仰心を尊ぶゆえに金メダルを取れるのに、日曜日(安息日)に開催された試合に出場をしなかった。そんなスポーツの純粋性はいったい何処へ行ってしまったのか。寂しい気持ちを感じる。しかし時代が変われば社会も通念も変わる仕方が無い事だ。
北島には金メダルを取って欲しい、だから彼がLRを着用するのは仕方が無い事だと思う。それが現時点で決められた基準だからだ。だから誰がなんと言うとLRを着る事は止められないだろう。もし水泳を純粋なスポーツとして捉えるならば体型を変えてしまう程締め付けるような素材は禁止し、個人の持つ運動能力で記録の差異がつようなギアに統一するべきなのだと思う。
これは選手個人の問題ではなく、競技を先導する組織の問題だ。組織自体のガバナンスも経済に左右される事を考えれば歯止めは無い。運動と技術が結びつき、技術を生むのは資本だ。運動と技術の進歩が結びつく事が良い事なのかどうかオリンピックがキャピタリズムと結びつく事が本当に必要なのか。人が記録を作るためにスポーツのために生きる事が良いのか、もう一度考えてみる時期に来ていると思う。
次のジェネレーションのためのスポーツはどうなるのか。もし東京オリンピックがあるとしたら、スポーツがどう変化しているのか楽しみだ。
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