ブログネタ:昔コレクションしてたもの、今コレクションしているものは? 参加中風はいつも形無く受けたときに何かを感じ、そしていつの間にか去っていきその形をとどめない。経験と記憶もまた同じように予告も無く現れた現実が今を支配し、そして記憶なって去っていく。ある時は、出会いのような楽しい経験かもしれない。ある時は別れのような悲しい経験かもしれない。経験がやがて記憶に変わり過ぎ去っていく。
生きている時間が現実だった頃、全てのコレクションは常に現実味があった。例えば高価な時計だったり、希少価値の高い小さな美術品だったりした。コレクションは、無秩序にガラスケースや箱の中を満たしていた。動きが止まり「機能」が止まったコレクションは、呼吸もなく静かに「生」を待っていた。
存在する意味は交換可能な莫大なキャピタルで、埋められた品物には「機能」も残るべき「思い出」も与えられてはいない。「存在」だけがケースの中に閉じ込められ「全」てキャピタルという長い数字の羅列に単純に変換されるだけだ。
その数字の大きさは大勢の人を魅了するかもしれないし、また羨望を受けるかもしれない。でも数字は単に無機質で論理的な価値でしかない。本当の素晴らしさは、与えられた「機能」や「歴史」そして染み付いた「思い出」や「記憶」の中に刻み込まれるものなのだ。
「機能」を引き出すためには、物に息を吹き込まなければいけない。それはガラスケースや箱の中で生まれるものではなく、人間の手の中や人間の辿る歴史の中で、エッチングの銅板のように細かく複雑に刻み込まれ深い意味を持ち、さらに人々の心に留まり価値を持つのだ。
そんなガラスの中のコレクションは、いつの間にか人手に渡り無機質な数字の羅列に変換し消えていき、今、もっと別の金銭的には何の価値も無い物が、古い箱の中に収められるようになった。箱の中には汚く染みがこびり付いた何枚もの厚手の厚紙が収められている。
誰がその箱を所有しても数字に変換する事などでききなし、何の価値も無い。汚い木箱の中に色々な種類の文字や絵が印刷された掌大のボール紙だ。幾つかには丸い染みが残り変色しているものもある。四角い形状をした物もあれば、丸い物も楕円形をした物もある。
裏側の白い部分に住所や名前が殴り書きされた物もある。古くなり黄色に変色した紙もあった。厚紙の一つ一つの染みや、落書き、変色、の全てが何時何処で手に入れた物かしっかりと記憶と結びついて、その紙を手にした時に、その情景が映画の一場面のように流れる。一緒にいた仲間も確りと記憶と共にその紙の中に生きている。
ビールを飲む時テーブルに敷かれるビアーマットは本当に色々な顔を持ち、今でも何処で手に入れたビアーマットなのかしっかりと思い出す事ができる。ヨーロッパ、アメリカ、オセアニア、日本だって実に様々なデザインのビアーマットがある。
持って帰って残しておけば友達と共にグラスを傾けた時の思い出を何時までもそこへ残す事ができるのだ。
■Run 0Km 夕飯はブラウニー……ってなんだよ、腹いっぱい。
■何を隠そうビアーマット(コースター)のコレクターです、個性的なコースターを集めてます。昔は腕時計を集めていたのですが、虚しくなり辞めました……愛着のあるものは残っています。
■Qチャンの不調原因が色々と判明してきましたね。やはりコンディショニング重要ですね。