>「Lost Decade and The Wall #5」
仲間の人肉を食べてしまったり、大勢の人々をガス室に送り込んで虐殺してしまったり、戦争という狂気の中においては、到底信じられない事が平然と行われ正当化される。当時のベルリンもそのような戦争の延長線上に在り、そして新しい形の戦争の戦時下にあったと認識している。
新しい形の戦争、それは人間同士の殺戮という物理的な戦いでは無く、冷戦と銘打たれた、主義構造上の戦いである。しかし主義構造上の戦争であったとしても、指導者に狂気がある限り、狂気は伝染し人々を蝕み、そしてその時代のその場所に確実に存在するのだ。
その日、朝からウーブと二人で東ベルリンへ出かけた。パスポートを用意し国境まで地下鉄に乗った。地下鉄(Uバーン)は、山手線のように東西ベルリン市内をぐるぐると巡回していた。乗客は西ベルリン側の駅では普通に乗降ができたが、東ベルリンの駅は全て閉鎖され、車両からの乗降どころか駅に止まる事がないためプラットフォームへ降りる事も許されない。車両は灯りの消えたその廃墟のような駅を回送車両のように無機質に通過した。
電車は東ベルリンの駅に向かって西とのDMZ(非武装地帯:本当は東の武装地帯であるバッファゾーンである)を抜けていく、白い壁の向こう側はフラットな更地になり鉄条網と監視塔があった。監視塔には武装した東ドイツの兵士が24時間DMZに侵入者がないか厳しく監視をしていた。車両はそんな穏やかでない地帯を通り抜けて東ベルリンに入る。
東側に入ると、一つだけ灯りの灯った駅があり、そこが東へ唯一のゲートウェイだった。東ベルリンへ行く人はその駅で降り東のイミグレーションを抜けなければいけない。駅を降りると、西ベルリンの住人とそれ以外の人に分かれて通関のゲートへ進む、ここでウーブと離れ一人きりになる。
駅であった西ドイツのご婦人は愛想がよく英語が堪能な事もあり、話しながら自分達の順番を待つ事になった。詳しくは語らなかったが、会話の内容から何度も東ベルリンの親類の話しが出てきたので、親類を尋ねて東ベルリンへ行く事が推測できた。
それで初めて東と西の人が交流する事ができる事を知った。それまでは、ベルリンは完全に分断され、ドイツ人の行き来など到底許されない事だと思っていた。東からの亡命は難しいが西の人々が東を訪れるのは比較的簡単なようだ。
相当長い間話をしていたが遅々として長い列は進まない。進みが悪いことに苛々してきたため、手の中にあったフェニック硬貨を貧乏揺すりのように、カタカタと手すりにぶつけて音を立てた。
すると皴ひとつ付いていない制服に身を包んだ東の職員がいきなり近づいて、手元をジロリと無言で睨んだ。
止めろという暗黙の指示だった。職員は何も言わず、鋭い目と怒った顔をこちらに向けた。すると今まで楽しく話しをしていた婦人も、そこでピッタっと会話を止め沈黙した。周囲に緊張が走る。職員は睨みを利かせただけでその場を離れてしまい。その場には張り詰めた空気が重く残された。
イミグレーションを越えてからも、ご婦人と話す機会はなかった。その事が起こってから、周囲には話す人もなく静けさに包まれた。あまりの静寂に恐怖心が芽生え緊張を覚えたが、既に西のパスポート・コントロールを過ぎているので、そこから引き返すわけにはいかなかった。
握ったパスポートは汗でぐっしょりと湿っていた。順番が来た、緊張で震える手でパスポートを係官に手渡す。係官は無機質な表情でスタンプを押しパスポートを戻す。怪しまれないように平静を装うが、それが逆効果だった。平静を装えば装う程緊張は増大した。そのイミグレーションを通過する体験で、始めて緊張で全身に脂汗が吹き出るという感覚を体感した。
建物の外でウーブが待っていてくれた。顔を見ると一気に安堵が訪れる。中での事を彼に話すとヒュ-と肩をすぼめた。イミグレーションの建物を出ると駅前の広場だった。そこからはテレビ塔と呼ばれる東ベルリンで一番高い塔を間近に見ることができた。
あの西から見えた巨大な塔だ。西ベルリンのどの場所からでも見えるので高い塔だとは思っていたが、傍で見ると改めてその高さに驚愕する。
広場の先には大通が走り近代的な街並みが続く。西ベルリンより計画的な区画整理が行われ、整然とし広々とした街並みが続いていた。だが、何故かその風景は平板な感じがする。まるで映画のセットのはりぼて様に見えた。
そこを走る車は、西ベルリン市内で走っていた、ポルシェ、ベンツ、アウディ、オペル、フォルクスワーゲンなどの高価で高性能な西ドイツ車と比較すると、明らかに古ぼけて汚く低性能に見えた。今にも壊れそうな軽自動車と間違えそうな乗用車が酷い黒煙を吹いて走っていた。
故障しない事も凄いが、環境汚染もはなはだしい。そんな車を眺めていると、整然とした街並みとは明らかに対照的で違和感を覚えないわけにいかない。しかし、その対照性こそが東ベルリンなのだと、その光景を頭に焼き付けた。そのような極端な対照は別の都市では感じられない面白さであり、それこそが当時の東ベルリンだった。
見慣れない車に見入っていると、どこから現れたのか一人の少年が、ささやくような声で、「西ドイツのマルクを持っていたら良いレートで交換するよ」と英語で言ってきた。ウーブは彼をちらっと見るとドイツ語で何かを言い返した。その言葉を聞いて不服そうな顔を見せたものの大人しく引き下がりいつのまにか何処かに消えていた。
海外の通貨は、外国人が両替所で両外するレートと現地人が現地で両替するレートでは倍以上異なる。つまり旅行者は、正規の銀行や料外所を利用すると悪いレートで現地通貨へ両替しなくてはいけないのだ。
住人が両替すればかなり良いレートで両替できるから、旅行者から少しましなレートでキャッシュを買い取り、住人のレートで両替すればいくらかのマージンができる。このマージンを狙ったのが少し前の両替屋なのだ。
これは、自由経済国から管理経済国に入る都市には必ず存在するシステムである。中国でもあった。中国の銀行では兌換紙幣(FEC)に両替させられた。兌換紙幣は交換レートが物凄く悪い。中国人は、流通しない円や米ドルのキャッシュを得るために、旅行者から銀行より良いレートで現金を買うのだ。
旅行者は、そのようなシステムをうまく使えばお金をかなり良いレートで交換できる。しかしこれは違法行為なので、見つかって捕まるとかなり厄介な事になる。その厳しさは自由主義の国の比ではない。
その当時の東側諸国で捕まったら、大変な覚悟をしなければいけない。特に、我々のような団体旅行の客でもない旅行者には、必ず警察びマークがついている事を認識しなければいけない。少しでも変な事や行動をとろうものなら大変な事になるのである。相当な覚悟がなければそんなリクスを負って両替する交換する事はできない。
東ベルリンの街の中央にある美術館の中でウーブが、絵の解説をするために「ナチ」と言う言葉を発した事も、彼は周囲で誰かが、聞いていない事を確認し、小さい声で繰り返したのは象徴的な事実である。そこでは我々西の人間は常に誰かに監視されている事を、頭の隅に置いて、常に意識していなければいけなかった。
プロパガンダの塊のようなその街を宛てもなく歩きまわった。1日も歩きまわると見るべき所はもうなかった、最後には二人共歩き疲れ果てていた。街には新しい近代的な建物が整然と立ち並ぶ(作りは前近代的な構造、デザインだが建物は新しい)。
しかしそれらの近代的な建築物は何故かうすっぺらに見えた。時折姿が見える議事堂や博物館のような歴史的な建物とは対象的で、それが今の東ベルリンの存在を象徴していた。
西に戻る前にカフェに入り、高価な紅茶を飲んだ。ジャム入りの紅茶とバイオリンやチェロの生演奏は、優雅な雰囲気を味あわせてくれる。そんな演出も、張りぼてに金箔を張ったような薄っぺらな優雅さのように感じた。その喫茶店に入り高価な紅茶を飲む住人が本当にいるのだろうか?見回すと、座って紅茶を飲んでいるのは、旅行者だけのような気がした。
一体その街の何処に本当の人々が住み生活を営んでいたのだろうか。街様子は人々の生活と遠くかけ離れ存在していた。あの高い塔はまるでプロパガンダの象徴のように見えた。西の旅行者はこのようなプロパガンダを土産物として西へ持って帰り土産にするのだろう。紅茶を飲み終えると
「帰ろう」
ウーブが席から立ち上がった。本当に、もう東側で見るべきものは何も無いように思えた。テーブルに料金を置いて店を出ると、太陽は西の空に傾きかけていた。数羽の鳥達が太陽を追うようにブランデンブルグ門を越え、東ベルリンから西ベルリンの方に飛んでいく姿が見えた。我々もあの鳥達と同じようにこれから自由な西へ帰るのだ……
仲間の人肉を食べてしまったり、大勢の人々をガス室に送り込んで虐殺してしまったり、戦争という狂気の中においては、到底信じられない事が平然と行われ正当化される。当時のベルリンもそのような戦争の延長線上に在り、そして新しい形の戦争の戦時下にあったと認識している。
新しい形の戦争、それは人間同士の殺戮という物理的な戦いでは無く、冷戦と銘打たれた、主義構造上の戦いである。しかし主義構造上の戦争であったとしても、指導者に狂気がある限り、狂気は伝染し人々を蝕み、そしてその時代のその場所に確実に存在するのだ。
その日、朝からウーブと二人で東ベルリンへ出かけた。パスポートを用意し国境まで地下鉄に乗った。地下鉄(Uバーン)は、山手線のように東西ベルリン市内をぐるぐると巡回していた。乗客は西ベルリン側の駅では普通に乗降ができたが、東ベルリンの駅は全て閉鎖され、車両からの乗降どころか駅に止まる事がないためプラットフォームへ降りる事も許されない。車両は灯りの消えたその廃墟のような駅を回送車両のように無機質に通過した。
電車は東ベルリンの駅に向かって西とのDMZ(非武装地帯:本当は東の武装地帯であるバッファゾーンである)を抜けていく、白い壁の向こう側はフラットな更地になり鉄条網と監視塔があった。監視塔には武装した東ドイツの兵士が24時間DMZに侵入者がないか厳しく監視をしていた。車両はそんな穏やかでない地帯を通り抜けて東ベルリンに入る。
東側に入ると、一つだけ灯りの灯った駅があり、そこが東へ唯一のゲートウェイだった。東ベルリンへ行く人はその駅で降り東のイミグレーションを抜けなければいけない。駅を降りると、西ベルリンの住人とそれ以外の人に分かれて通関のゲートへ進む、ここでウーブと離れ一人きりになる。
駅であった西ドイツのご婦人は愛想がよく英語が堪能な事もあり、話しながら自分達の順番を待つ事になった。詳しくは語らなかったが、会話の内容から何度も東ベルリンの親類の話しが出てきたので、親類を尋ねて東ベルリンへ行く事が推測できた。
それで初めて東と西の人が交流する事ができる事を知った。それまでは、ベルリンは完全に分断され、ドイツ人の行き来など到底許されない事だと思っていた。東からの亡命は難しいが西の人々が東を訪れるのは比較的簡単なようだ。
相当長い間話をしていたが遅々として長い列は進まない。進みが悪いことに苛々してきたため、手の中にあったフェニック硬貨を貧乏揺すりのように、カタカタと手すりにぶつけて音を立てた。
すると皴ひとつ付いていない制服に身を包んだ東の職員がいきなり近づいて、手元をジロリと無言で睨んだ。
止めろという暗黙の指示だった。職員は何も言わず、鋭い目と怒った顔をこちらに向けた。すると今まで楽しく話しをしていた婦人も、そこでピッタっと会話を止め沈黙した。周囲に緊張が走る。職員は睨みを利かせただけでその場を離れてしまい。その場には張り詰めた空気が重く残された。
イミグレーションを越えてからも、ご婦人と話す機会はなかった。その事が起こってから、周囲には話す人もなく静けさに包まれた。あまりの静寂に恐怖心が芽生え緊張を覚えたが、既に西のパスポート・コントロールを過ぎているので、そこから引き返すわけにはいかなかった。
握ったパスポートは汗でぐっしょりと湿っていた。順番が来た、緊張で震える手でパスポートを係官に手渡す。係官は無機質な表情でスタンプを押しパスポートを戻す。怪しまれないように平静を装うが、それが逆効果だった。平静を装えば装う程緊張は増大した。そのイミグレーションを通過する体験で、始めて緊張で全身に脂汗が吹き出るという感覚を体感した。
建物の外でウーブが待っていてくれた。顔を見ると一気に安堵が訪れる。中での事を彼に話すとヒュ-と肩をすぼめた。イミグレーションの建物を出ると駅前の広場だった。そこからはテレビ塔と呼ばれる東ベルリンで一番高い塔を間近に見ることができた。
あの西から見えた巨大な塔だ。西ベルリンのどの場所からでも見えるので高い塔だとは思っていたが、傍で見ると改めてその高さに驚愕する。
広場の先には大通が走り近代的な街並みが続く。西ベルリンより計画的な区画整理が行われ、整然とし広々とした街並みが続いていた。だが、何故かその風景は平板な感じがする。まるで映画のセットのはりぼて様に見えた。
そこを走る車は、西ベルリン市内で走っていた、ポルシェ、ベンツ、アウディ、オペル、フォルクスワーゲンなどの高価で高性能な西ドイツ車と比較すると、明らかに古ぼけて汚く低性能に見えた。今にも壊れそうな軽自動車と間違えそうな乗用車が酷い黒煙を吹いて走っていた。
故障しない事も凄いが、環境汚染もはなはだしい。そんな車を眺めていると、整然とした街並みとは明らかに対照的で違和感を覚えないわけにいかない。しかし、その対照性こそが東ベルリンなのだと、その光景を頭に焼き付けた。そのような極端な対照は別の都市では感じられない面白さであり、それこそが当時の東ベルリンだった。
見慣れない車に見入っていると、どこから現れたのか一人の少年が、ささやくような声で、「西ドイツのマルクを持っていたら良いレートで交換するよ」と英語で言ってきた。ウーブは彼をちらっと見るとドイツ語で何かを言い返した。その言葉を聞いて不服そうな顔を見せたものの大人しく引き下がりいつのまにか何処かに消えていた。
海外の通貨は、外国人が両替所で両外するレートと現地人が現地で両替するレートでは倍以上異なる。つまり旅行者は、正規の銀行や料外所を利用すると悪いレートで現地通貨へ両替しなくてはいけないのだ。
住人が両替すればかなり良いレートで両替できるから、旅行者から少しましなレートでキャッシュを買い取り、住人のレートで両替すればいくらかのマージンができる。このマージンを狙ったのが少し前の両替屋なのだ。
これは、自由経済国から管理経済国に入る都市には必ず存在するシステムである。中国でもあった。中国の銀行では兌換紙幣(FEC)に両替させられた。兌換紙幣は交換レートが物凄く悪い。中国人は、流通しない円や米ドルのキャッシュを得るために、旅行者から銀行より良いレートで現金を買うのだ。
旅行者は、そのようなシステムをうまく使えばお金をかなり良いレートで交換できる。しかしこれは違法行為なので、見つかって捕まるとかなり厄介な事になる。その厳しさは自由主義の国の比ではない。
その当時の東側諸国で捕まったら、大変な覚悟をしなければいけない。特に、我々のような団体旅行の客でもない旅行者には、必ず警察びマークがついている事を認識しなければいけない。少しでも変な事や行動をとろうものなら大変な事になるのである。相当な覚悟がなければそんなリクスを負って両替する交換する事はできない。
東ベルリンの街の中央にある美術館の中でウーブが、絵の解説をするために「ナチ」と言う言葉を発した事も、彼は周囲で誰かが、聞いていない事を確認し、小さい声で繰り返したのは象徴的な事実である。そこでは我々西の人間は常に誰かに監視されている事を、頭の隅に置いて、常に意識していなければいけなかった。
プロパガンダの塊のようなその街を宛てもなく歩きまわった。1日も歩きまわると見るべき所はもうなかった、最後には二人共歩き疲れ果てていた。街には新しい近代的な建物が整然と立ち並ぶ(作りは前近代的な構造、デザインだが建物は新しい)。
しかしそれらの近代的な建築物は何故かうすっぺらに見えた。時折姿が見える議事堂や博物館のような歴史的な建物とは対象的で、それが今の東ベルリンの存在を象徴していた。
西に戻る前にカフェに入り、高価な紅茶を飲んだ。ジャム入りの紅茶とバイオリンやチェロの生演奏は、優雅な雰囲気を味あわせてくれる。そんな演出も、張りぼてに金箔を張ったような薄っぺらな優雅さのように感じた。その喫茶店に入り高価な紅茶を飲む住人が本当にいるのだろうか?見回すと、座って紅茶を飲んでいるのは、旅行者だけのような気がした。
一体その街の何処に本当の人々が住み生活を営んでいたのだろうか。街様子は人々の生活と遠くかけ離れ存在していた。あの高い塔はまるでプロパガンダの象徴のように見えた。西の旅行者はこのようなプロパガンダを土産物として西へ持って帰り土産にするのだろう。紅茶を飲み終えると
「帰ろう」
ウーブが席から立ち上がった。本当に、もう東側で見るべきものは何も無いように思えた。テーブルに料金を置いて店を出ると、太陽は西の空に傾きかけていた。数羽の鳥達が太陽を追うようにブランデンブルグ門を越え、東ベルリンから西ベルリンの方に飛んでいく姿が見えた。我々もあの鳥達と同じようにこれから自由な西へ帰るのだ……