「Lost in Berlin #1」
日本の90年代は本当に失われてしまったのだろうか、当時の事を改めて考えると確かに記憶も曖昧だ。ブルースにジャズそして古典ロック50,60年代の文化はDNAに刻印されたようにその音を頭の中で響かせる事ができる。
60年代後半ビートルズから反戦を根底に置くイデオロジカリーな70年代ロック、そして70年代後半はアナーキーなボリュームとインパクトのある音を思い出す事ができるし、80年代はフュージョンやレゲエなどの温度と平和的リズムのあるライトな音を思い出す。
音は確実に血の中に溶け血管から吸収されてDNSに刻印されて体の芯に埋め込まれた。そして21世紀、言葉とリズムのあるヒップホップやラップそんな音楽がメディアを通して血の中へ送り込まれ続けている。
90年代を振り返った時いったい何かあったのか思い出せない。その時代は自分の中で本当に失われてしまったのだろうか……そんな疑問から回想が始まった。
1987年8月日本のバブル経済が終焉を告げる少し前だ。1ヶ月のスコットランド旅行を終え、厚い雲に覆われたグラスゴーからハノーファーを経由してもう秋の青空が広がる西ベルリンへ入った。街並みは、振興的なグラスゴー市街と比較すると近代的で落ち着いた雰囲気がある。
スコットランドの北西部は、田舎でのんびりした街並み、グラスゴーは新興都市という印象だったが、ベルリンは都会と自然がうまく調和した街だ。運河からボートに乗り込むと自然と森の中へ入り、都会の喧騒と自然の静寂の両面を一度に味わえた。
街中に立ち、ほんの少し首を上げると巨大な監視塔が見えた。何処に居ても東ベルリンの領土に立つ巨大で未来的な監視塔が威圧的にこちらを見下ろしていた。塔が見えなくなるのは、郊外に広がる深い森の中に入った時だけだった。
西ベルリンに留まる間、常に東の政府の監視下にいるような窮屈な感じを受ける。威圧的な監視塔は巨大な目玉のように空中に浮かび、昼夜問わず西の市民へ存在により緊張を与えていた。
市民は森に逃げ込む事により緊張から開放され、森の散策を楽しんでいた。深く黒い森が街を取り巻くように囲み、その向こうには白く長い「ベルリンの壁」が横たわっていた。
当時ベルリンの居住者には9万円程の給付金が無条件で支給されていた。職に就いていれば家賃が少々高くてもちゃんと生活が送れた。それを狙いベルリンへ移住を計画する西ドイツ人も多かったが、過度な人口の増加を抑えるため、西ドイツ政府により厳しく規制されていた。
西ベルリンの住人の大多数は経済的に裕福な人々だった。限られたテリトリの湖や運河には巨大なクルーザーが浮かび、小さな運河を豪華なクルーザーが窮屈そうに往来していた。それが当時の西ベルリンの姿であり、テリトリの中に存在する物全てをプロパガンダという名詞に結び付ける事ができる場所だった。
夜の闇は街の姿を変える。ベルリンの夜は昼間とは違う顔を持っていた。昼間の顔が等級がきっちり刻印された上質のワインなら、夜間はスーパー・マーケットでガロン売りされる調理用のワインだ。無秩序で荒々しく幻や幻想が意図無く折り重なった架空世界の様だった。秩序ある現実的な街から地下へ潜ると、退廃と虚構の地下都市が果てなく広がっていた。
重い金網の格子を空けると、かっしりとした体格のスキンヘッドのバウンサーが横目で「おまえには用は無い」と言いたげにこちらを睨む。ウーブがお金を渡すと、腰から大きな鍵の束を外して中から一つを選び太いチェ-ンに付いた南京錠のロックを解いた。
格子の隙間を素早く抜けると背後でチェーンに南京錠をかける音がする。入ると、人間を見る前に煙の塊にぶつかる。気分は瞬時に別の世界へ飛ばされた気分になる。「ハッシッシ」の煙だ。
西ベルリンの市街の一角、戦火をかろうじて免れたビルの白い壁には弾痕や火薬の黒い染みが生々しく残っていた。戦後に修復された小さな石積みの入り口を降りるとその場所へたどり着く。
大音響のユーロビートが体を巡り頭から抜けていく、どれも日本では聞いた事の無い曲だ。さらに白い石で出来た階段を降りると闇の中で無数の蛆虫がうごめくように人々が動き回っていた。狭い地下室に良くこれ程大勢の人が入る物だと感心する。長身のウェイトレスが腕を天井に向けて一杯に伸ばし掌の上に大きなトレイに大きなビール・ジョッキを載せて歩き回っていた。
3分とたたない間にアラブ系のバイヤーに捕まる。ドイツ語で何かを話しかけてくる。ウーブは慣れたもので、彼を一蹴すると人を押しのけさらに奥へ進む。
その頃になると全て行動の具体性が消え失せ感覚だけが残る。顕著な変化は音感からはじまり、音に対しとても鋭敏になる。遠くでパチンと何かが切れるような音聞こえると、その音がいつまでも頭の中を回り続けた。実際にそんな音が鳴らされたのかどうか確かではない。音楽は一つ一つの音が
紡がれたカラフルな糸のようにスピーカーから流れ出し部屋を生める。
地下に入ってどれくらい歩いたのか、もう正確に時間や距離を測るだけの意識は無くなっていた。
「隣接するビルの地下室か、もう東ベルリンに入ってしまったのではないか?それとも同じ場所をぐるぐると周回していたのか」
そんな風にも思われた。突然、音の嵐が吹き荒れ、バラバラになった糸が体に絡みつき、脳を両手で捕まれたような感覚に襲われた。誰かが頭蓋骨を開け、手で「ぬか味噌」をかき混ぜるように脳を荒っぽく掻き混ぜるのだった。また耳の奥には小人が居で大きな声で小学校の校歌を歌ってい始めた。
店の一番奥にあるカウンターに辿り着いた頃にはシャワーを浴びたようにぐっしょりと汗をかいていた。ウーブが振り返り何か話し掛けてくる。
「ドイツ語??」
ドイツ語で話し掛けているようだ。ウーブの目もすでに焦点がない。ドイツ語で
「ビール注文した」
そう言ったようだった。どう返事をしたのかわからない、何れにしても手の中には濃厚なドイツ・ビールの大きなジョッキが納まっていた。