「3.エレベータ」
そんな事が起こる朝は、前日から何らかの兆候があるものだ。目覚まし時計の電池が切れてしまっていたり、金魚の餌をあげようとしたら餌の入った瓶が割れてしまったり、着ていこうと思っていたワイシャツが見つからなかったり、
食パンを焼いたらマーガリンが終わっていたり、冷蔵庫の奥に入れた苺のジャムの瓶を取り出そうとしたら手前に置いてあった器の中の物をこぼしてしまったり、出勤途中、信号のタイミングが悪くていつもの様に交差点を渡れなかったり、いつも自転車を停めている場所に別の自転車が停められていたり、
一度も引っかかった事の無い改札がスムースに通れなかったり、その日の電車待ちの列が妙に長かったり、電車が遅れてなかなか来なかったり、やっとやって来た電車が異常に混んでいたり、コンビニへ行くと毎朝購入する飲み物が切れていたりする日の事だ。
誰にでも一年に一度位はそんな日があるだろう。一般的に見てみると、其れは後に起こる可能性のあるさらに重大な問題の兆候だったりするものなのだ。
そんな朝を迎えた日には何をやるにも慎重になるが、起こり得る必然のある重大な問題は、絶対に我々を逃さないよう腕を広げて待ち構えているもので、我々は高い確率でそのトラップに引っかかってしまう。
前日も例外なく嫌な感じのする日だった。そして、その朝に起こるべき事が確実に起こっただけの事だった。外気は先ほどと比べても何倍も重みを増し、太陽は突然厚く重い雲に覆われて、湿気を含んだ空気はベッドに入る前の三倍も重く感じられた。
湿気を肺に入れないように小さく、ゆっくりと呼吸をしながら脱ぎ捨てられ皺のついたダーク・グレーの背広に手を通した。シャワーを浴びている時間も無い、ケィが暗いオペレーション・ルームで一人待っているのだ。
長年使い込まれたブリーフケースを手にすると、踵が磨り減った古い革靴に足を通し、重いサッシの扉を開けた。扉の向こう側からはさらに重みのある空気が、室内へ流れ込んでくる。廊下へ一歩踏み出すと、そこにはおきな蛾が部屋の中をうかがうようにじっとこちらを見つめていた。
ほんの少しの間時間が止まったような気がした。慌てて外へ出て扉を閉めると、その蛾と目を合わせないように蛾の横をすり抜ける。何故こんな小さな昆虫に怯えなければいけないのか自分でも良くわからない。こうやって朝は始まった。
エレベータの扉が開くと、クリーム色をした内壁にも一匹の灰色をした蛾が張り付いていた。その蛾もじっと動かず壁に張り付いてこちら凝視しているようだった。先ほどと同じように、その蛾と目を合わせないように一定の距離を保ったまま、立つ位置を確認してエレベータに乗り込んだ。
首筋に汗がじわっと滲むのを感じる。とても嫌な冷たい汗だ……そしてパネルに取り付けられた1Fのボタンを押す。エレベータ自体も普通とは何かかがいつもとは少し違っているようだった。はっきりと具体的に何が違うと言うのではなかったが、腕の組み方を変えたときの様な違和感があった。
扉の開くスピードがいつもより百分の三秒遅かったからなのかもしれない、室内を照らす蛍光灯の明るさが百分の五ルクスだけ暗いからなのかもしれない、それとも、エレベータが降りるスピードが三百分の1メートル/秒だけ遅いからかもしれなかった。
色々な要因が考えられたが、きっと先ほど起こったシステム障害が気になっているからだろう……という風に思い込んだ。目を瞑るとエレベータの室内に心臓の鼓動大きく響き渡り、内壁に反響しさらに頭の中でこだまする。
深呼吸をしても一向に動悸は収まらない……早く1Fに着き扉が開かないかとインジケータのパネルに表示された数字を睨みつけるが、一向に減る様子がなかった。急いでいる時はいつもそうだ。
本当にエレベータが動いているのか少し不安になった。肩越しに視線を蛾の方向へ移すと、先程と同じ格好で同じ場所に張り付いている……その姿を見てやっと安心し、落ち着きが戻ってきた。パネルの数字がいつの間にか2を示した。
「あと少しだ……」
そう音にならいくらい小さな声でつぶやいて自分を落ち着かせようとしている自分がいた。
「あと少し……あと少し……」、
ほんの微妙な速度の違いは少しずつ気持ちを不安定な状態へ引き戻そうとする。突然、ズンっと足に重みを感じたエレベータに制動がかかったのだ。インジケータの数字も2から1へと変わる。やっと1Fに着いた、扉が全部開くのを待ちきれない襟元には汗が滲んでいた。
扉がゆっくりと開く、完全に開き終わるまで待っている事もできない……開きかけた扉の隙間へ体を滑り込ませ外に踏み出す。片足がタイルを踏むと頭が自然にエレベータの壁の方を振り返った。
同時に視線が壁の方を向く、さっきまで死んだかのように動かなかった蛾の姿が消えていた。エレベータから降りて閉まりかけた扉をボタンで開いて内部を隅々まで見回してみたが、逃げ場の無い空間から蒸発してしまったかのうように、蛾の姿は消えていた。
手をボタンから離しもう一度見回していると、やがてゆっくりやはり不自然なスピードで扉が閉じその後のエレベータ・ピットには、廃墟の中にいるような静寂が訪れた。
少しReviseしてみました。
今日は台風の影響で大量の湿った空気が流れ込んでいるようです。どこもかしこも湿気だらけ。昨夜はあまりに暑いので夜中にエアコン入れました。![]()