ブログネタ:楽しいことと辛いことどっちが多いと思う? 参加中私は辛いこと派!
思う?じゃなく、断言するよね、これは。
人生なんか、辛い事が9割で、楽しい事なんて1割未満。
さて、こういった事を言うとですね、世の大抵の人々ってのは 「悲観的!」 だなんて言ってよこす訳です。
ところが、俺は悲観的どころか楽観的な見方をしているし、それが他人に伝わり辛いのは、俺の問題じゃなく他の人達の側の問題なんです。
・・・つっても意味解らんだろうねw
まぁ、俺の人生は、一般の平均からすると特殊ですよ。
それほどズバ抜けて珍しい境遇でもないけど、ごく普通ではないっていうね。
人生の苦労を語る時、人は大体、我が身の事として語るもんだけど、俺の場合はちょっと違う。
ってのも、人生をある程度の期間で区切って考えてて・・・つまり、今の自分は過去の自分とは別人って感覚なんですな。
勿論、過去の自分も自分ではあるんだけど、それは今を語る上での歴史の一端でしかないというか、もう完全に自分の手元を離れてしまってる人物の人生なんですよ。
って事は、過去の自分を見つめた時、そこにあるのは客観的に見た自分の人生で、当事者として当時の感覚のまま語るって事が出来ないんです。
さも他人の人生を客観的に見る様な感覚なので、当時の苦労も 「この子は大変だったんだな~」 的な捉え方。
妙な話かも知れないけど、ホントにそういう風にしか思えないんだよね、過去の自分の人生ってのは。
まぁ、そうは言っても、過去が俺の人生である事に変わりはない訳で、過去の影響は良くも悪くも今の自分や人生に大きく出てる訳ですよ。
「あの頃のあの経験が今の俺をこうさせてるんだな」 みたいなのは幾つもあって、それはやっぱり自分が世間とズレてしまってる部分であるとか、歪んだり壊れたりしてしまってる部分で顕著な訳よね。
でも、「だから自分は不幸」 とは全く思ってなくて、むしろ歪んだり壊れたりしながらも、よくぞ這いつくばって生きて来たなとね、そんな風に誇らしく思ってもいる。
それが防衛本能なのか何なのか知らないけど、少なからず柔軟性があったから生きて来られたのは間違いない訳で、真っ直ぐに生きる事しか教わらなかったわりに、その辺りはよく頑張ったもんだと我ながら思うよね、物凄く不器用なのに。
過去にしても今にしても、人生は常に辛いですよ。
自発的に何もしなかったら、楽しい瞬間なんて今の10分の1も無いかも知れないし、それが解ってるからこそ、常に何かしらの面白味を追求して生きてる訳だしね。
でも、その感覚ってのは、恐らく自分だけのものってか、ほぼ全ての他人様には理解出来ないもんじゃないかなと思う。
「生きてるだけじゃダメ」 っていうのって、ほとんどの人は解んないよね。
なんとなく手近なものとか人に目を向けたりするだけで、世の中の人達って笑ったり泣いたり出来る人達だと思うんだけど、俺はそれがどうしても出来ないんですよ。
そういう状況になっちゃったら、人生の絶望に耐えられないっていうか、絶対に腐るだろうなっていうのが解る。
腐り切らない為には、常に根底を流れてる絶望から目を逸らしてなきゃいけないっていうか・・・その常に目を逸らしてる状態ってのが、俺にとっての 「生きてる」 って状態なのかもね。
だから悲観的になんて生きられっこないんですよ。
楽観的なスタンスでなきゃ、前にもどこにも進めないから。
結局、世に言う楽しいとか辛いなんて、所詮は表面的な捉え方でしかない訳で、一見して笑ってるから楽しいんだろうとか、泣いてるから辛いんだろうなんて、そんな単純なもんじゃない。
辛いからこそ笑ってきたもんね、大体。
それが出来ない時期ってのも勿論あったけど、基本的には辛い時ほど泣けないしさ、物凄くシビアになるんだよね、現状を生きる事とかに。
そんな時に泣いてる暇は無いじゃない?、真顔になっちゃってw
真顔でしばらくあーだこーだ考え込んで、それから探すのは笑えたり楽しめる事だよ。
自力で何か見つけて、笑ったり楽しんだりしてね、少しリラックスさせてやらないと殻に閉じ篭るだけだもんね。
でまぁ、泣くのはそういう時じゃなくて、普通に寝ようとした時に過去がフィードバックしてきたり、妙に鬱々として身動き取れなくなった時ぐらい。
それは別に誰が見てるって訳でもないから当たり前に泣くしさ、辛くても波が過ぎ去るまで堪えるしかないもんね、結局。
若い頃から俺はわりと明るくて社交的な奴って見られがちなんだけど、実際は全然そんな事ないのねw
確かに明るかったり社交的に振る舞ったりはするけど、それって礼儀としてそうしてる感じ。
恐らく、根っこはガキの頃そのままのバカ正直だと思うし、人見知りで愛想の無い人間なんですよ。
ムードメーカーとして生き抜いたガキの頃の習慣だろうね、そういう社交性のギアが自然と入っちゃうのは。
まぁ、その方が人当たりは良くなるし、ムスっと黙ってるよりはマシだろうと思って、入ったギアをわざわざ戻したりはしないけど、余所様はそれを見て俺って人間を判断する訳だから、良いか悪いかで言ったら良いとばかりは言えないよね、見当違いばっかりになるから。
そんな訳で、人格やら性格的な部分も誤解されまくりで生きてる俺なんで、まずマトモに俺という人間を理解した人って一人も居ない。
俺自身の解り辛さっていうハードルも決して低くはないんだろうけど、根本的にね、みんな他人の事に興味無さすぎなんだろうなと思う。
「相手を知ろう」 っていう探究心が物凄く稀薄だよね。
勿論、それは悪じゃないんだけど、例えば気になる相手とか惚れた相手とかが現れたら、その人の情報って知れるだけ知りたいってなるのが自然だと思うのよ。
直接聞くのは勿論だけど、ブログやらTwitterやらって、今は情報を仕入れるのも簡単になってる訳だから、そっから得られる情報って少なくないはずなんだよね。
でも、それをしてる人って少ない印象がある。
「昨日のブログ見た?」 なんて質問ぶつけられても答えられる様に・・・っていう事じゃなく、その人の興味とか、物の見方、捉え方、考え方なんていう生き様がさ、文章には色濃く出てるのよ。
それを読み解く力が仮に無かったとしても、読み解く努力をするのが、相手への敬意だったり、好意だったりするんじゃないかと思う訳。
それをしないとしたら、いくら口先で良い様に言ってたりしたとしても、俺は薄っぺらだとしか捉えないよね。
例えばその程度の感覚で好きだの何だのと俺が言われたとしたら、好意そのものを否定しないまでも、普通以上に悲しくなるし、ヘコむし、辛い。
一般的には嬉しいだけの事でも、俺には必ずしもそうじゃないんだな・・・嬉しさはあってもね。
そういうのって、解る人にしか解んないだろうね、きっと。
結局、なんなんだろう・・・孤独?なのかな、ポイントになるのは。
イマイチその辺りはハッキリしないけど、騙されるとか裏切られるとか、傷つく経験が多い人生を歩んじゃうと、インチキや薄っぺらで勘違いする事すら出来なくなるんだよね。
って事は、そうそうバカになれないし、バカになれなきゃ楽しくもないのよ。
恋愛でも何でもそうで、バカになれる奴が一番強い。
傍迷惑だろうと何だろうと、本人が楽しんでるならそれは 「楽しい」 だもんね。
「おめでたい」 と皮肉をぶつけたところで、そんなのは僻みにしか聞こえないだろうし。
だからやっぱり、俺にとっては今後もずっと、人生は根本的に辛いばっかりのもんだろうね。
それでも構わないけどね、別に。
強がりとかじゃなく、俺がこういう奴だからこそ得られたものってあるし、その得たものじゃないと救えない人とかも居たんで、俺の苦労も必要悪として納得すべき部分はあるなと。
じゃあ、そういう人生として受け入れ続けるのが正解なんじゃないかなとね、今はそんな風に捉えてる。
「辛いから死にたい!」 みたいな、そんな単純な話だったら簡単だろうけどねw
面倒臭いんだ、俺に関するあらゆる事はw
