忘却の代償 | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


人類は万物の長だという。
確かに他の動物から比べたら優れた機能を多く備えた生き物ではあろうが、万物の長とは思い上がりもはなはだしい事だろう。
コミュニケーション能力に長けていても、その能力が故に争いが絶えないのは事実。
言語も表情も思考も、他の動物達より遥かに柔軟に使いこなせるはずなのに、同種族間でいがみ合い、殺し合いを続ける人類が万物の長であるはずがない。
むしろ、他の動物達よりも劣っていると考えた方が説得力がある。

人類の価値を見出すならば、それは多才な資質と、そこから派生する多様な可能性だろう。
言語を駆使した表現、意思疎通というだけでも、他の動物には無い才能。
「好き」 と伝えるだけで、発情せずとも交尾せずとも意思表示が出来るのは、実は凄い事だ。
極端に言えば、それが可能だからこそ、人類はここまで大きな社会を築けている。
他の動物には絶対に不可能な事だろう。

人類の柔軟性の高さはやはり突出していて、世界中のどんな土地でも誰かしら暮らしていたりするのはそのせいだ。
種としての耐性は低いのに、極寒の地で何年も生活する事が出来、それでいながら常夏の島や灼熱の砂漠地帯でも暮らして行ける。
標高の高い山奥に暮らす者も居れば、生涯の大半を海上で過ごす者も居る。
ある意味、節操の無いレベルの柔軟さを人類は持ち合わせてる訳だ。

人類の柔軟性の高さはそればっかりじゃない。
記憶力というのもその一つだ。
見聞きした情報、知り得た情報を全てたかだかの大きさの脳内に蓄積し、必要とあらばそれらを引き出す事が可能な仕組みになっている。
勿論、どうしても思い出せない事や引き出すのが困難な情報もあるけど、基本的に脳内に蓄積された情報は、記憶として残り続けているらしい。
つまり、取り出し易い位置にあるか、取り出しづらい奥底にあるかの違いぐらいしかないそうだ。


さて、今回の本題はここから。
記憶というものに絡めて、少し触れたい事がある。

誰かと付き合った過去は、大抵の人ならあると思う。
その一人一人に良い思い出も悪い思い出もあるだろう。
付き合ったからには、当初は相手を悪く思ったりはしていなかったはずで、仮になんとなくで付き合っただけだとしても、大嫌いな相手ではなかったはず・・・あくまで一般的にだが。

別れた後、その相手の印象をどんな風に思っていただろうか。
当初と変わらずって事もあるだろうが、多くは当初と印象が違っていたりする。
「優しい人だと思ってたのに、実は物凄く冷たいところがあった」 とか、「面白い人だったけど、配慮が足りなくて不安にばっかりさせられた」 とか、まぁ色々だろう。
中には、「アイツはとんでもないクソ野郎で最低だった」 とか、「あれはロクでもないバカ女だった」 なんて印象になってしまった相手も居るかも知れない。
かく言う俺も、悪い評価しか下しようのない元カノが一人二人居る。

一番酷かった元カノというのはとにかくズバ抜けていて、その酷さを表すエピソードが大きいものだけでも幾つか挙げられる。
今となっては笑い話というよりもネタに近い極端な話だが、一般的な常識やモラルを持ち合わせている人であれば、聞けばあっさりと俺の判断が間違っていない事を解ってくれるだろう。
・・・いや、ここではそんな話しないけどねw

そんな酷い元カノでも、俺は相手の魅力について今でも認めているし、何かしら良い思い出や際立った長所があれば、酷さとは別でその事はちゃんと評価する。
まぁ、残念ながらその元カノに関しては、良い思い出も際立った長所も皆無なのだが、だからと言って全て一緒くたに 「最悪」 とは言い切らない。
脚の不自由な母親の為にあれこれやっていたのは実際に見ているし、付き合う以前も含め、俺の見えていない所でもそうやって来たのは解るから、娘の立場として当然だとは言えども、そういった部分まで否定するのは筋違いだろう。
だから、彼女として最悪で、人としてのデタラメさも際立っていたにせよ、全否定までは出来ない。
今現在、彼女に抱いていた愛情は皆無なのかと言えば、正直言って0%ではない。
ほんの1%か2%程度のもんかも知れないが、僅かばかりは残っている。
無論、もう二度と付き合いたくはないし、関わりたいとも思わない相手だが、一度本気で惚れてしまえば何かしらが残るもんだ。
そうでなくては愛じゃないだろう。
そもそも、本気で惚れてなきゃ、あんな酷い奴とは三日も続きっこないだろうし。

これは別に、元カノや元彼といった関係に限った話じゃない。
人と人との関係、他人との繋がりという事柄全てに言えるもので、例えば、「誰が自分に何をしてくれたか」 といった事実は、永久に不変のはずだ。
もし、今現在は大嫌いだったり憎んですらいる相手だったとしても、過去を掘り下げた時、その相手が自分に対してしてくれた事は変えようがない。
そこに裏があったり魂胆があれば話は少し違って来るが、基本的にその当時に感じた恩や愛情、感謝といったものは、今現在の感情をものさしにして測るべきものじゃない。

例えば、かつて自分が親身になって相談に乗ったりフォローをした相手が、今は自分を嫌ってるとする。
今は嫌いだからと、そんなかつての出来事を全く無かったみたいに、自分の事を悪く言ったり思っていたとしたらどうだろう。
そう思われてしまうだけの大きな出来事があったなら別にしろ、特に事件も無く、感覚だけで嫌っているとしたらどうだろうか。
そんな経験が無ければ、身近な人物を使ってでもリアルに想像してみて欲しい。
どんな心境になるのか。

俺は今まで、そんな思いを何度もして来た。
当然、それらは傷になり、あらゆる部分に影響を及ぼしてもいる。
単純にバカを見る羽目になったんだから、その点で俺はバカなんだろうなと思う。
でも、困った事にそこで悪いのは自分じゃないと解ってる訳で、堂々としていれば良いとも解っているのに、それでもとんでもなく気が滅入ってしまう。
「あの相談の時の感謝の言葉はなんだったんだ?」 とか、「あれだけフォローに動いたのにこんな扱いをされるのか?」 とか、とにかく自分のバカさ加減に嫌気が差して、人という存在を嫌いになる。

じゃあ、せめて怒りだけでもぶつけてしまえば良いのかと言えば、そういった言動をする奴というのは、言ったところでまず意味が無い。
自分勝手で他人という存在を根本的に尊重していないからこそ、平気でそういった振る舞いが出来るんだろうし、だったらいくら正論をぶつけたところで通じるはずもない訳だ。
「嫌いな奴にキレられた」 ぐらいにしか思わないであろう事は容易に想像がつく。
全く以って、嫌われ損というもの。

人は不完全で完璧には行かないから、かつての恩や感謝などをさて置いて動いてしまう事もある。
でも、後からその事に気付きさえすれば大した問題は無くて、一時的な感情に流されてしてしまったミスは、謝る事である程度許されるものだろう。
又、過去をこれみよがしに持ち出して恩着せがましいのも違うから、そこに固執するのもどうかとは思う。
但し、事実は変え様がない。
仮に命を助けた過去があったからって何をしても許される訳じゃないし、それを理由に 「嫌ったり悪く思ったりしてはいけない」 という事にもならないだろう。
とは言え、ちゃんと過去を踏まえていれば、極端に嫌ったり悪く思ったりはそうそう出来たもんでもないはずだし、少なくとも平然と態度に表す様な真似なんて、まともな人ならまずしない。

結局、肝心なのは 「恩をどれだけ恩と感じているか」 という事だったり、「自分の為に費やしてくれたものをちゃんと把握してるかどうか」 という様な受け手側の問題なんだろう。
前述の例の様に命を助けられた過去があっても、「そんなの当然じゃん」 と高飛車なスタンスで考えていたとすれば、おのずと感謝も恩も稀薄なものか、全く感じていないという事になるだろう。
つまり、そんな奴に愛情を注いだりフォローの手を差し伸べたって、まともなリアクションが返って来るはずもないという事だ。
薄情者と真正面から向かい合えば、結果として正直者がバカを見てしまう。


さて、そんな薄情者は、いわゆる勝ち組なのだろうか。
好き勝手やって、平然と恩知らずな真似をして、本来味方である人を攻撃する。
それに反撃しても通じないから歯が立たない。
まるで無敵の様にすら思えてしまうが、長い目で見れば、大きな代償を支払う羽目になるのは薄情者の方だ。
何故なら、そのまま自分自身を変えずに居たら、人として求めているであろう幸せは確実に得られないから。

簡単に考えても解る事だが、そんな薄情者と深く関わり合いを持つ人種というのはごく限られる。
要は、自分と同じ様な連中しか残りっこないのだ。
薄情者だらけの人間関係の中では、正論ではないデタラメな攻防を繰り広げるしか無い。
本気で心配したり気遣いをしてくれる味方も居なくなるだろう。
上っ面の友情や愛情で接する連中を仲間や友達だと認識し、必然的に裏切られ、傷つけられる事を繰り返す様になる。
そして、己の方向性が間違ってるとも気付かずに、「どうして自分ばっかり幸せになれないんだろう?」 と悩む様になる。
それが必然だとも気付かずに。

俺の様な変わり者なら、いわゆる一般的な幸せは最初から縁遠いもので、理解者を得られたとしたら、それは奇跡に近い事。
そもそもが向いてないし、根本的な価値観が全くズレているだけに、端から難しい事だと認識もする。
でも、これまで述べてきた薄情者というのはそうじゃない。
一般的な幸せを得られるはずの人達で、スタンス一つ変えたらいつでもそうなれる資質がある。
なのに、自己中に生きる事で、その可能性を極端に狭めている愚か者だ。
得られるべきものを自ら逃しているんだから、その代償はとてもデカいと言えるだろう。


愚か者がいかに愚かなのかを語っても不毛なのでこの程度にしておくが、前述の薄情者の言動というのは、なにもごく一部の特殊な連中だけに見られる事ではない。
むしろ、それならわざわざここで取り上げたりもしない訳で、問題なのは、極めて一般的なフツー人達の中にも、同じ様な言動を平然とする傾向が多く見られる様になった事だ。
勿論、程度で言えばさほど酷いというレベルではない場合がほとんどだろうが、それでも非常に怖い事だと俺は見ている。

もう10年ほど前の話になるが、俺は同世代から下の世代までの相談事をよく持ち掛けられていた時期がある。
別に望んでそうなった訳じゃなく、自然とそういう立ち位置に立たされていたという感じで。
俺のところに持ち掛けられる相談は、大抵がシリアスだったりシビアな話。
「あんびにはどう見える? どう思う?」 といった訊かれ方しか俺は基本的に受け付けなかったけど、それに納得してくれる人は多かった。
そして、「そういう話ならあんびにでも訊いてみれば?」 というご意見番的な役割が勝手に与えられていた。
引き受けるでも断るでもなくそんな事を続けていたら、変に一目置かれてやり辛くもなった。

当時、何人の相談に乗ったかとか、どんな相談に乗ったかって具体的な事はあんまり覚えてないけど、とりあえず感謝してくれる人は何人も居た。
人生に関わる事、極めてプライベートな内容についても聞いたりしてたから、そこで感謝の一言ぐらいはまぁあるだろうと思ってたし、だからこそ調子こいて鼻高々になったりもしなかった。
今現在、その頃に多少なりとも面倒を見た連中とはほとんど連絡を取ってない。
連絡がつかない奴の方が遥かに多くなった。
年月と共に一人また一人とそんな奴らが姿を消して行った頃、薄情な奴らだなと思った事もあった。
でも、それで構わないと思い直した。
奴らが俺を必要としなくなるのは、恐らく良い流れなんだろうと気付いたから。
で、今は妹分ぐらいしか残ってない。
妹分はまた変わった感性の持ち主だから、俺みたいな変わり者の意見が時々必要になるんだと思う。

あの頃、相談に乗ってやった奴らにとっては、俺は単に便利な存在でしかなかったのかも知れないし、当時は本気で感謝していたとしても、今はすっかり忘れ去った過去になってるかも知れない。
いずれにしても、俺はそれを改めて感謝しろとは言わないし、過去の話を具体的に持ち出されてもこっちの方が困る。
ただ俺が気掛かりなのは、そんな連中が今も元気で居るかどうかだけ。
ある意味、奴らは薄情だと言えるのかも知れないけど、少なくとも俺の知り得る範囲で悪く言ったりはしなかったから、恩を仇で返されたという思いにはならない。
所詮、誰が誰を腹の中でどう思ってるかなんて解りっこないんだから、伝わって来なければ基本的にはどうでもいい話だ。
もし妙な噂でも流されて、それを鵜呑みにする奴が居たら、そいつはその程度の単細胞だと明確になるだけの事だし。

つまり、これもまたいつもの道理や筋の話で、一度は味方として力添えをしてくれた相手に対して、特段の理由も無く反旗を翻すのは、社会的にテロ行為と同等だという事。
他者の恩恵を受けながら、その相手を愚弄する様な言動を少しでもすれば、それで充分に挑発になるという事。
そんな事をするのは、基本的にテロリストか救い難いバカだけ。
でも、そういった振る舞いをする輩が目立つ世の中だという事は、テロリストか救い難いバカが増えたって事なんでしょう、きっと。


人は過去の上にしか生きられなくて、過去は美しかったり優しいものばかりじゃない訳で、だからこそ過去に救われた瞬間があるのなら、その事は片隅にいつも置いておくべきだと俺は思います。
助けてくれた人に何が出来る訳じゃないとしても、その事を忘れるのであれば、また同じ苦境に立たされるのが道理ってもんでしょう。

俺は、人生で揺ぎ無く感謝し続ける人がほんの数人だけ居る。
まず誰より感謝してるのは、俺が精神的に瀬戸際だった時、どうしようもなくて泣きついてしまったAという人。
事情も知らず、それほどベッタリと仲良くしてた訳でもないのに、黙って受け止めてくれたおかげで今日の俺がある。
あの時、あのタイミングでAと連絡がつかなかったら、俺は間違いなく精神崩壊してただろう。
そんな命の恩人なのに、何の恩返しも出来ないままで彼女はみんなの前から姿を消して、今は連絡の取り様もない。

それから、今は亡き友人のH。
当初はお互いになんだか嫌い合ってたけど、いつの頃からか他の人達以上に深く話す様になって、俺の当時の元カノと仲が良かった事で、尚更腹を割って話せる間柄になれた。
彼女は恋愛絡みでメンタルを病んで、一時期はかなり酷い状態にもなってたけど、俺が相談らしい相談を持ち掛けられる唯一の相手だった。
俺のメンタル面も真剣に心配してくれて、変な気を回さず、まともに人間として接してくれた最初の人かも知れない。
30になんかなりたくないと冗談で言っていた彼女は、誕生日の少し前に29歳のまま急逝した。

もう一人は、やっぱり10年以上前からの付き合いで、俺がご意見番的な立ち位置に居た頃、主に俺らより上の世代のご意見番的な位置に居たDという人。
俺は相談に乗って貰ったりはほぼしてないけど、とある事件があった時、難しい立場なのにちゃんと大人として俺が求めた見解を述べてくれた。
あれほど人として誠実に向き合ってくれた大人というのは、Dが初めてだったと思う。
みんなの母親的存在で、俺も未だに敬意を表する人。

そして最後は、妹分のC。
知り合った当初は海外に居て、事情も過去も全然知らないのに、何故か最初から特別な存在という認識だった。
帰国してから顔を合わせてもやっぱり不動の何かを感じさせる奴で、それは今も何一つ変わらないし、今後何があったとしてもきっと変わらないんだと思う。
長い付き合いで、ディープな事なんかもリアルタイムでずっと知ってるのに、お互いの過去の事とかはほぼ知らないまま。
なのに、お互いに200%信用し合ってるっていう不思議極まりない間柄。
類友と呼ぶに最も相応しい奴なのは間違いなくて、関わった人達の誰よりも俺はCの事を理解出来る自信があるし、俺の事を一番的確に理解してるのもCぐらいだと思ってる。
そんな奴だからこそCの存在は俺にとって重要で、特に俺が自分の存在価値を見失いかけた時は、Cに助け舟を出せる奴なんてそうそう居ないんだから、それ考えたら迂闊に死ねないなと何度も思って踏ん張れた部分がある。
いわゆる恋愛感情が原動力じゃないのにこういう関係性が成り立ってるのも面白いし、そんなに頻繁に連絡取り合ってるでもないんだけど、俺の人生において欠かせないキーパーソンなのは間違いない。

とまぁ、これ以外の人達に感謝してないって事じゃないんだけど、ここまでの人生という歴史を踏まえた場合、上記の人達については揺ぎ無いなと言い切れる。
付き合いの長さってもんもあるし、深さもあるけど、とにかくは生きる上でのスタンスが重要なんだと思う。
俺はどうしてもその人の根本にある部分を見透かしてしまうから、良くも悪くも等身大で向き合おうとする人に、より魅力を感じてる気がする。
俺自身がサービス精神を主軸にしたキャラをやめて、こういったほとんど素の状態で文章を書く様になったのも、他人に等身大を求めるからこそフェアなスタンスを心掛けようと思った表れ。
まぁ、そのせいで昔より遥かにつまらん記事しか書けなくなったのに、わざわざ読んでくれてる方々にも常に感謝してます。

こんな毎度オチがあるかどうかも知れないクソ長い文章を読んでるのは凄いわ。
俺自身が読み返すの嫌になる長さだったりするのにねぇw
とりあえず、長い中にも少しは足しになるであろう何かを折り込みつつ数時間掛けて書いてるつもりなんで、今後とも暇を見てお付き合い下さいませ。