早朝4時の散歩道。
昼間でもそれほど交通量の多くない広めの整備された田舎道は、夜中なんて尚更の事、車通りも人通りもほとんど無い。
それ故に散歩に好んで選んでいる道だ。
普段から妙に目立って怪しまれるのが俺なので、本来は日中の散歩の方が色々な点で良いんだろうが、どうも俺という人間は一匹狼気質というか、人目を避けたがるところがあって、多少のリスクはあっても、世の中が静まっている時間帯の方が好きなのだ。
そもそも都会向きの人間ではないし、夜型人間でもある。
そうなればおのずと、行動に積極的な時間帯は決まってくる訳だ。
それに、夏のこの時期、ただでさえ朝晩問わず暑いだけに、身体を動かすなら一番涼しい夜明け前を狙うのは理に適った事。
わざわざジリジリと陽の照りつける猛暑の中を歩く事もないだろう。
交通量も人通りも無いという事は、当然ながらその周辺に人家も多くない。
それなりに家が建っている場所もあるが、基本的には田んぼ道ならぬ畑道。
農道と呼ぶには整い過ぎてるものの、実質的には農道の様なものだろう。
それ故、歩いていても怪しまれないというか、怪しむ人がまず極端に少ない。
俺にとっては好都合という訳だ。
道をしばらく進むと、少し下り坂になって丁字路にぶつかる。
左にそこそこ大きな病院があり、右は農家であろう民家。
ぶつかった丁字路はというと、更に人気の無い田舎道。
やはり整備はしっかりされているが、土地的に開拓の出来ないエリアが片側にかなり広くあり、雑草の生い茂る絵に描いた様な田舎の光景だ。
そんな丁字路まで行くと、そこで散歩は折り返し地点となる。
なんせ、右へ行っても左へ行っても、自宅方向へ戻るにはかなりの遠回りとなる上、街灯もさほど多くない薄気味悪い道。
まぁ、左へ少し行った所に急坂になった林道的なものがあって、そこを行けば適度な折り返しルートにはなるんだが、その急坂というのがまた短いわりに雰囲気のある場所で、竹林沿いに湾曲した坂道の途中には、なにやら古めかしい墓の様なものがポツンとあり、街灯も無い。
所謂、『いかにも出そうな場所』 という訳で、わざわざ夜中に肝試しをする必要もないので、昼間以外は通らない事にしている。
という訳で、丁字路で折り返すと、今度は上り坂が数分続く。
急な勾配は病院脇ぐらいなのだが、その先も地味に勾配はある。
坂だらけの土地で育った俺は、そういった地味な勾配が長く続く方が体力的には辛いと知っている。
行きは良い良いというやつで、折り返し後はそんな勾配のせいでペースダウン必至。
まぁ、その程度の変化も無いと、歩いてて面白くないのは事実なのだが。
勾配を上り切ると、ちょうど寺の脇に着く。
左側には自販機の並んだ明るいスペースがあり、何故か業務用の灰皿が置かれているので、ついつい休憩がてらに一服してしまう。
冷えた水を買って二口程度飲み、タバコを半分ほど吸ったら再出発・・・という自分ルール。
それ以上休むと、身体が一気に冷えて宜しくないという判断。
もっとも、タバコを吸ってる時点で宜しいも宜しくないも無いんだが。
そこからは再び平坦な道をずっと進む。
家の前から続いている行きに歩いてきた道には戻らず、そのまま道なりにずっと進むと街道にぶつかる。
街道はさすがに交通量も多く、店なんかも多い為、その手前で昔は水路だったと思われる小道を抜ける。
そこさえ抜ければ家まですぐだが、大体その辺りでねこじゃらしを一本摘んで帰る。
家で待つパンダ柄ストーカー猫の為の手土産だ。
もはや玄関で待ち伏せしてるぐらい期待されてたりするから、下手に持って帰らないと文句がうるさかったりするのである。
・・・とか言いつつ、こっちが待ち伏せに期待してると全然居なかったりもするんだが。
さて、そんな散歩をここ最近は日課にしている。
ヘルニア発症後の二年ほどでガタ落ちした基礎体力を戻す為でもあり、今もまだ右脚を中心に残る症状のリハビリでもあり、数ヶ月前に軽度ながらも原因不明で唐突に再発した為、今後の予防処置でもある。
いずれにしても病気と違って完治するものではないので、爆弾を抱えて生きるなら、ある程度は出来る事をしといた方が良いだろうという判断である。
何が良くて何が悪いとか、どこまで良くてどこからが悪いとかの基準がまるで判断つかないから厄介で、実のところ、日常生活を送れる様になってからの一年ほどは、かなりビビりながらのリハビリしかしていなかった。
その後、どうやら大丈夫そうだと安心し始めていた矢先、軽度の再発に見舞われ、あの生き地獄の再来かと冷や汗を流した。
再発の痛みが沈静化して以降、やはり少々ビビりつつだが、もう少し積極的なリハビリをするタイミングを探していた。
その結論が無理しない程度の散歩だったんだが、実を言うと、俺は足も健康体では無い。
別に障害者という程ではないんだが、十代の頃から突発的な足の激痛に悩まされてきた事実がある。
その激痛というのは、いわゆる軟骨の成長異常によるものであり、恐らくは軟骨が神経を直接刺激する事により、歩けない程の激痛が走るんだと思われる。
治療は手術さえすれば可能だろうが、軟骨の切除、あるいは削り取る事になるはず。
いずれにしても、本来なら必要の無い手順を踏まなければ、俺は普通の人達の様な足になれない。
障害者と認定されてなくとも、それは人生においてわりと邪魔臭い事だったりするのである。
足の激痛は、ホントに突発的すぎて困る事が多かった。
別に全力で走ったから症状が出るとか、滅多にしない様な角度に曲げると痛いとかではないのだ。
ただ普通に歩いていて、何かを踏んだとか歩幅を変えたとかでもないのに、唐突に激痛でまともに歩けなくなる。
その場で休めたりすれば良いが、買い物帰りで荷物を抱えていたり、仕事中で移動してる時なんかに症状が出ると、足をもいで投げ捨てたくなるほど腹が立ったもんである。
腰のヘルニア治療は、ピーク時だけ西洋医学に頼り、その後は骨盤矯正に通って治療した。
骨盤矯正は身体全体の歪みを正す事を目的としたものなので、腰だけに効果があった訳ではない。
足の痛みに関しても効果があった様で、この数年は軟骨による痛みが出なくなった。
とは言え、それだっていつまた痛くなるかは解らない訳だ。
散歩がヘルニアのリハビリに効果的でも、足には負担が掛かって痛みが出るかも知れない。
そんな不安は常にどこかにあるが、それでもヘルニアの生き地獄よりはマシだろうと思ってる。
どうせ少ない選択肢のどれかを選ばなきゃいけない訳だし。
数時間前、日課の散歩に出掛けた。
いつも通りの道を進み、丁字路で折り返した。
坂を上り、寺の脇の自販機前で休憩し、再び歩き出した。
両側に畑が広がっている場所になると、空を見上げる様にして歩く。
視界の両端に邪魔な建物は無く、空の広さを感じられる風景が短い間だけ楽しめる。
建物だらけの風景に住んですると、なかなか味わえない光景。
切り取られていない空。
自宅前の道から続いている道を過ぎた頃、顔を上げ気味にして歩いていた視界の右端、道路上に何か大きめの物体がある様に見えた。
まだ薄暗く、一瞬では判断がつかなかったが、歩きながら振り返ってそれを確認すると、一匹の猫が道路上に横たわっていた。
前に向き直って、大きく息を吐いた。
途端に悲しさとか空しさの様な感情が溢れてくる。
しかし、よりによってあんなに車通りの少ない道で撥ねられるなんて、なんてドジな奴なんだろう。
ほんの数秒でもズレてたら、恐らく死なずに済んだだろうに。
そんな事を考えていたら、可哀想で堪らなくなった。
昔、幾つの頃だったかは忘れたが、やはり轢かれた猫に遭遇した。
その子はまだ轢かれたばかりだったらしく、辛うじて息があった。
俺が覗き込んだのが分かったのか、小さく鳴いた。
可哀想で溜らなかったが、何一つ出来る事は無かった。
いや、病院に連れて行く事は出来たかも知れない。
金も無いのに勝手な事をするなと怒られても、病院に運ぶ事だけなら出来ただろう。
でも、その子はもう虫の息で、例え病院に運んだところで助けてはやれなかったと思う。
それでも、今まさに目の前で横たわっている瀕死の猫は生きていて、俺に対して小さな声を上げた。
なのに何も出来ない。
その悲しさや悔しさや怒りは生涯忘れないだろう。
俺は何度も謝って、その子が事切れる前に立ち去った。
その罪悪感もきっと一生消えない。
今朝も轢かれた猫を見た時、その事を思い出した。
戻るのは簡単だったが、もしまたあの子の様に息があったらと考えると、確認に行く事なんて出来なかった。
例え既に事切れていたとしても、今のご時勢、昔の様にそこらに穴を掘って埋めてやる訳にもいかない。
死んだ者を土にも還せないなんて、なんだか妙な時代だ。
とにかく、すっかり滅入りながらも残りを歩いた。
ねこじゃらしも摘んだ。
サイは待ち伏せしておらず、少しだけホッとした。
猫の死を目の当たりにした直後に家族である猫を見たら、きっと余計な事ばかり考えてしまう。
動物の死を見ると、彼らにとっての幸せとは?・・・とよく考える。
車に撥ねられ、唐突に命を失ってしまった猫は、それまでにどれだけ彼らなりの幸福を味わったのか。
幸せなんて所詮人間の価値観でしかないのは解っているが、動物達にだって喜怒哀楽の感情はある。
だとすれば、きっと嬉しい事や楽しい事だって感じてるはずなのだ。
ウチの猫は、俺がねこじゃらしを持って帰るのを待ち焦がれていて、見せた途端に目を輝かせる。
嬉しさのあまりにあちこちに身体を擦りつけ、尻尾をピンと立てて遊んでくれるのを待つ。
明らかに喜びを感じていて、いかにも楽しそうに遊ぶ。
それは人間とは違う生き物の猫にとっても、きっと至福のひと時だろう。
そういった瞬間は、きっとどんな動物達にもあるはずだ。
だったら、死ぬまでに出来るだけ多くそんな瞬間を感じていて欲しいと思う。
彼らにとっては、幸も不幸も全てに意味なんて無いのかも知れないが、それでもそう思う。
人間の支配したこの世界で、人間よりずっと幸せを感じて欲しいと。
そして強欲な人類を鼻で笑っていて欲しい。
人間は恵まれ過ぎているぐらい恵まれていて、俺の身体の不具合なんか、それを幾らでも凌げるぐらいの楽しみや喜びが当然の様に存在してる。
仮に車に撥ねられたとしたって、そのまま死んだとしたって、道にずっと放置なんかされず、それなりに誰かしらが葬ってくれる。
恵まれ過ぎていて、なんだか動物達に申し訳ない。
俺は撥ねられた猫より上等な存在だという自信が無い。
むしろ、彼らにはどう頑張っても敵わないだろうとすら思っている。
それでも世の中は動物の命より人間の命を尊み、人権は過剰な程に保護しても、他の動物達の存在を軽んじている。
俺なんて死んでも放っといてくれていいよと言ったところで、まずそうはならない。
別に動物保護団体みたいな事を言うつもりはないし、人間社会に生きる以上は人間を軸にした考え方で正解だろう。
でも、それはあくまで建て前的なものであるべきで、人間は動物達のフィールドを奪った侵略者である事を忘れてはならないと思う。
人間同士ですら相手を尊重する事すらまともに出来ない輩ばかりなのに、動物達を尊重する社会なんて不可能に近いだろう。
それでも、言うべき事を言い、伝えるべき事を伝えるという事をほんの僅かな人達でも出来るのだとしたら、その先に繋がるものはあるのだと思う。
まるで綺麗事を言ってる様だが、これは綺麗事じゃない。
猫や犬が嫌いな人だって居るだろうし、石を投げつける事だってあるかも知れない。
一概にそれを悪いとか言うつもりはないし、動物を傷つけない事が正義だとも思わない。
ただ、自分という人間の根本に、動物達も我々同様に生きているという当たり前の事を置いているかどうかは重要だろう。
ガキの頃、俺は猫を虐めた事があるし、酷い事をしたのも覚えている。
いくら後悔しても過去は塗り替えられない。
ガキだったからといって言い訳にはならないし、自分を取り巻く環境に問題があった事だって理由になんてならない。
時折、不意に思い出して苦しい思いをする事も、何一つ罪滅ぼしにはなっていないだろう。
仏教の言葉で 「業」 というものがある。
カルマというやつだ。
自分のした事により自分自身に返ってくる影響。
それは修行でも苦難でもなく、ただただ己の罪だ。
そんな罪に苦しみながら生きるのは、まさに自業自得。
綺麗事なんかで生きられっこない。
複雑に出来ている人間として生きるのも大変だが、複雑だからこそ持ち合わせたものを活かせるのも人間だけである。
当たり前過ぎて忘れてしまっている事を、少し思い出してみるのも大事な事だ。
そこに自分という存在がある。