狩るべき線 | weblog -α-

weblog -α-

なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


スマホ時代になり、あらゆるメディアがモバイル展開を中心に考える様になった昨今、当然ながら各業界内での競争も激化している様子。

かつてファミコンから始まった日本のゲーム大国振りも、この数年で事態が大きく変化した。
これまでTVに繋いで遊ぶ家庭用ゲーム機が主流だったものが、ここ数年で携帯ゲーム機やモバイルゲームにシフトし、わざわざTVにゲーム機を繋げて遊ぶユーザーは激減した。
次世代機と呼ばれる最新型のハードを出したところで、ユーザーはもはや最新の技術など二の次だと考えている。
故にゲームソフトの売り上げは落ち込み、それに反比例してスマホで遊べる様なダウンロード型のソフトがバカ売れしている状況。
それはCDが売れず、劣化音源のダウンロード販売が主になった音楽業界とよく似ている。
つまり、商品としての質の良さよりも、携帯性こそが重要な時代になったという事だ。

ここ数年、TVを眺めているとゲームのCMをよく見かける。
どれもモバイルゲームのCMである。
それだけモバイルゲーム業界が大儲けしている証であり、それ自体は当然の流れ。
が、最近になって、妙な気持ち悪さを感じるモバイルゲームのCMも目立つ様になった。

少し前にも同様の感覚を覚える事はあったのだが、タイムリーなものを挙げると、いわゆる 不倫ゲーム のCMである。
内容は、主人公の女性が、元恋人や同僚といった男達と不倫をするという、至ってシンプル且つストーリー性のあるゲームである。
それらはいわゆる恋愛シミュレーションと呼ばれるジャンルのゲームなのだが、不倫ゲームの場合は、設定が明らかにいやらしい狙いを感じるものであるし、世相的に見ても妙に現実的である。
いや、PCのエロゲーが広めたと言っても過言ではない恋愛シミュレーションというジャンルだけに、女性をターゲットにした不倫ゲームそのものを否定はしない。
しかし、主婦層がTVを観る時間帯を狙い、さも魅力的に演出された不倫ゲームを堂々と宣伝するというのはどうなのだろうか。
不倫を助長し、後押しした上での商売だとしか捉え様がない。
少なくとも、単純に考えて常識的ではない。

予め言っておくが、俺は別に不倫自体を悪だと言うつもりもなければ、それをテーマにしたゲームにも肯定的だ。
但し、それはあくまで 『タブーを扱うものである』 という点を大いに踏まえるべきだと思う訳で、そんな毛色のものを大っぴらに恥ずかしげもなく宣伝する品の無さや、ご都合主義的な解釈の商法には、気持ち悪さを感じざるを得ないのである。
秋葉原辺りのアングラなPC店での宣伝や、マニア向け雑誌に掲載されてる宣伝ではないのだ。

昔から、ゲームでも漫画や小説でも、ドラマや映画でも、不倫を描いているものはあった。
しかし、大抵の場合はタブーである事を前提とした娯楽として作られており、あからさまに賛美する様な類のものは稀であったはず。
映画 『マディソン郡の橋』 や渡辺淳一の 『失楽園』 がヒットしたのはひと昔前だが、その頃から徐々に不倫や浮気といったタブーがタブー視されない様にしようとする流れがあった。
それは実に気持ちの悪い流れであり、悪い予感しかしないものでもあった。

浮気や不倫はタブーである。
しかし、特に珍しい事ではないし、大昔から当たり前にあるものでもある。
かつて、「不倫は文化だ」 と言って叩かれた裸足の色男もどっかに居たが、実際、日本の歴史の流れの中で言えば、不倫や浮気はタブーでありながらも 『悪』 ではなかったと言える。
血族というものを重要視していたその昔、妻が居て家庭があり、そこには特に問題が無かったとしても、外に女を作る事・・・つまり愛人が居るのは 『甲斐性』 として見られていたし、愛人に子供を産ませる事で、本家の血が絶えても血族は絶えないという利点があった。
「それじゃまるで、男だけが良い思いをしてるだけじゃないか」 と思う人も居るかも知れないが、そこはそこ、きちんと生活の面倒を見てやるぐらいの余裕があって成立するものであり、単に女遊びをしたいだけの奴なんかは相手にされる訳もない。
とまぁ、そういう意味で言えば、不倫は文化であると言えなくもないが、説明も無しにそれだけ言うのはただのバカだろう。

もう一つ、不倫や浮気という括りに含めて良いものかどうか難しい事実がある。
かつて日本の各地では、現代で言うところの 『乱交』 や 『夜這い』 が一般的に認められていた。
勿論、それもタブーとしての歴史だから教科書には載っていない事だが、意外と近年までそういった慣習が残っていたのは事実である。

宴会の席で、「今日は無礼講だから気を遣うな!」 みたいな事を言う人が居ると思うが、あの無礼講というのは、実際に各村々などの祭事の時、日頃は事なかれ主義的に過ごしている村民の不満や愚痴などを酒を飲ませて聞き出し、コミュニティとしての問題点を解決する目的があった。
根本的な問題の解決には、権力者の顔色を窺わずに問題提起や指摘をする必要があった為、無礼講という形が浸透した・・・と同時に、もう一つ裏の部分も実はある。

無礼講・・・身分の差などを気にせずに酒を酌み交わすものとして一般認識されているが、実のところ、その現場というのは乱交が許される場でもあったとされている。
『村の物はみんなの物』 みたいな価値観は日本全域で見られた様で、これは視点を変えれば 『村の女はみんなの女』 という解釈でもあった訳だ。
ただ、勘違いしてはいけないのは、決して女性を奴隷の様な差別的に扱っていたという意味ではなく、むしろ子供を産み、村の繁栄に直結した役割の女性は宝と同等に考えていたという事。
そこにはルールがあり、それを破れば命すら奪われただろう。
まぁ、基本的に大昔の日本を語る上で念頭に置くべきは、『繁栄こそが最重要だった』 という点。
個人単位でも家系や村単位でも、とにかくは絶えず存続し、繁栄する事が第一という価値観だった訳だ。
という訳で、祭りの日は無礼講の大宴会が行われ、乱交の夜になった。
あるいは、祭りの日ばかりは夜這いが見逃される為、意中の人の寝床に忍び込んでも許された。
もっとも、夜這いというのは響き的にレイプを連想させるが、実際のところは大半が女の方から気に入った男を招き入れる事の方が多かった様だし、その為に事前の暗示もしてたらしい。
勿論、レイプ的な夜這いもそれなりにあっただろうが、その結果として生まれた子供は 「座敷童子」 と呼ばれたり、「天狗の子」 などと呼ばれた訳である。

余談ではあるが、誤解無き様に少し解説もしておく。
まず、祭りというのはその名のとおりに 『祭事』 であり、祭事とは 『神事』 でもある。
つまり、そこには神という象徴があり、現代の価値観において淫らで不道徳であっても、それらは全て 『神事の一環』 という価値観の下に行われていた事である。
そもそも、酒というのは神の水であり、神聖で清めの効果があるとされている。
つまり、飲酒とは身体全体を内側から清める意味があり、穢れの無い状態に戻す・・・禊(みそぎ)の意味がある訳だ。
そして、その状態で行われる行為は神に捧げるものであり、繁栄を祈る儀式でもあった訳だ。
乱交であろうと何であろうと、それによって子供が産まれるのなら村は安泰という事になる。
現代的な価値観を抜きにして考えれば、実に理に適った考え方ではあるのだ。

こういった事実は、事実でありながらもタブーであり、今では封印された歴史とも言える。
時代と共にそういった風習は無くなっていったものの、夜這いなどに関しては高度成長期の頃まで一部地方で残っていたらしい。
ちなみに、ほんの60年ほど前までという事だ。


さて、話を戻すが、不倫や浮気というのは一概に悪いと言い切れるものではない。
「不貞行為は法律で禁じられている!」 と言いたがる人は少なくないと思うけども、残念ながらそれは大きな勘違いで、不貞行為は勿論、浮気や不倫を禁じる様な法律など、この日本には無い。
何故なら、『人を好きになる事を法で縛るのは不可能だから』 である。

民法で触れられている不貞行為とは、配偶者以外との肉体関係の事。
つまり、夫や妻以外とのSEXは不貞行為に当たる訳だが・・・ここからが重要、不貞行為そのものを禁止するとはどこにも書かれてない。
不貞行為の有無が意味するものは、「もし配偶者に不貞行為があった場合は、それを離婚の理由として認めますよ」 というだけの事。
だから、浮気や不倫を罪悪として取り上げるのは法律的解釈ではなく、単なる感情論であったり宗教的価値観という事になる。

前述のとおり、好きという感情は法律やルールでは縛り様がないし、妙な話、当事者である本人にすらどうにも出来ない事だったりする訳だ。
「結婚しているから」 とか 「恋人が居るから」 なんて理屈を並べたところで、生まれ出た感情を即座に消し去るなんて芸当は誰にも出来っこない。
それが一過性のものだったとしても、その瞬間にそう思ってしまったならそれは真実な訳だ。
だから浮気も不倫も悪だと言い切れるものではないし、言い切ってしまう人ほど人間という生き物を理解していない愚か者である。

「でもダメじゃん!」 という人は居るだろう。
確かにダメな場合も多々あるが、ダメだというのを前提にした見方というのも偏っている。
『恋人や女房(あるいは旦那)が居るのに合コンに行って浮気しました』 といった場合なら、それはダメなパターンだろうが、人と人との出会いや繋がり、関係性ってのはそんな薄っぺらなものばかりではないし、むしろ人生を抱えた者同士の繋がりな訳だから、簡単に良いとか悪いと言える事の方が恐らくは少ない。

浮気や不倫といったテーマは特にだが、世の中は物事を表面的に捉えて評価を下したがる傾向が一般的に見られる。
つまり、「浮気(不倫)した」 という事象のみに罪悪の価値観を当てはめ、「だから悪だ」 と言い切る場合が多い。
しかし、それが正当な評価であったなら、そもそも法律にもそう書かれているはずである。
重要なのはそこに至った経緯であり、理由や心理といった人間的思考や感情こそが核なのだ。
納得するかどうか等はまた別の話になってしまうだろうが、とりあえずは理屈として流れを把握しなければ始まらない。
そもそも、人を好きになるのは誰しもに共通した可能性であり、浮気性だからとか、いい加減だからそういった感情が生まれる訳ではない。
第一、恋人や配偶者が居るとすれば、そのパートナーを好きになったのだって浮気や不倫で好きになるのと畑は同じである。
つまり、『恋人や配偶者が居る』 という事と、『もう他に誰も好きになってはいけません』 というルールをセットにしてしまっているのが大きな間違いなのだ。
大体、『一人の人間は一人の人間にしか惚れちゃいけない』 なんて無茶な価値観に疑問を抱かない方がどうかしている。
浮気や不倫をする事よりも、そんな価値観で生きてる事の方がよっぽど罪深い。
『一人に一人』 というフォーマットは、あくまで理性でそうする様にしているだけの事である。
しかも、日本古来の価値観ですらない。
まぁ、理性を怠る事が罪だという論点なら理に適っているが。


さて、ここまで浮気や不倫を肯定しといて何だが、だからと言って俺は不倫や浮気を推奨するつもりは無いし、それを堂々と賛美する様なものに対しては憤りすら感じる。
冒頭の方で触れたモバイル用の不倫ゲームの話だが、あれはまさに浮気や不倫を煽ってる様にしか見えない。
『ゲームなんだからセーフ』 という事には決してならないはずである。

児ポ規制の絡みでアダルトゲーム・・・いわゆるエロゲーも取り上げられるが、少なくともエロゲーのCMを民法のTVのCMで見かける事はない。
それは儲かっていないからではなく、常識的にそれはマズいという判断があるからである。
AVだってエロ漫画だって同じ事だ。
内容的には俺すらドン引きする様なものだってあるだろうし、監禁やレイプといった犯罪行為を扱うものだって多い世界だが、それらが何故堂々と宣伝しないのかと言えば、その世界の人達は基本的に 「タブーを扱う商品だ」 という事を自覚しているからだろう。
勿論、自覚しているから安心という事ではないにせよ、最低限のラインというものが見えているのは明らかだ。
故に、児ポ規制の強引なやり方には堂々と反対の声を上げられる訳だし、タブーを扱っているからこそ、内輪で閉鎖的な価値観にならぬ様な情報共有などもしている訳だ。

さて、それでは件の不倫ゲームはどうだろうか。
タブーを扱っている事は当然ながら解っているだろうが、あくまでエンタテイメントというスタンスで責任逃れしている様にしか思えない。
「実際の不倫をゲームにしている訳じゃないからセーフ」 なのであれば、ハッキリ言って何だってアリになってしまう。
実際の監禁やレイプをゲームにしてないからセーフ、擬似SEXだからセーフ・・・と、エロゲーでもAVでもOKと言えるのだろうか。

結局、俺が感じる気持ちの悪さというのはそこで、『極めて非常識な事を平然とやっている異常さ』 なのだ。
繰り返しだが、不倫自体も不倫ゲーム自体も否定するものではなく、それは必然的なものとして捉えている。
だが、それ自体を認めてはいても、それを一般的な普通の商品と同等に宣伝する常識の無さは、どうあっても問題視せずにいられない。
これはつまり、「人は殺さないけど虫や動物をいじめるのはセーフ」 といった感覚に近い非常識さなのだ。
それを見逃す社会など、決してあってはならない。

不倫ゲームを売るなとも作るなとも言わないが、それを昼間っから民法のCMで宣伝する様な会社、常識のある人間ならば絶対に高評価などしない。
むしろ、淘汰すべきだと判断するだろう。