目を開けて夢を見よ | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


ゆうべ何気なくTwitterを開いてみたら、某有名文化人のツイートがリツイートという形で上がっていた。

「国民の大多数が原発に危機感を覚え、脱原発を支持している現実があるのに、政党はどこもかしこも原発推進に意欲的で、再稼動させるべく動いている。 しかも、日本は世界で唯一の被爆国であるにも拘らず、核保有すべきだと言い出す政治家まで居る事が情けない。」

・・・といった内容のものだった。
こういった発言をする人達や、同様の考えを持つ人は恐らく多いだろうと思う。
3.11以来、原発に絡むあらゆる事柄が忌み事の様になってしまったのは、誰の目から見ても明らかだろう。
だから、原発反対、脱原発を絶対的なものとして支持する人達が多いのも仕方が無い。
事実、あの福島原発は未だに危機を脱したと言える状況ではないし、直接的・間接的被害は未だに収束していない訳だから、「原発はうんざりだ」 という国民感情は当然の事。
しかしながら、『原発は危ない⇒原発を無くそう』 という様な安直な発想で正義を振りかざしている人々というのは、結局のところ、球場で野次を飛ばしているのと大差ないレベルなのである。
再三言い続けている事で恐縮だが、物事の本質を知らずして語れるべきものなど無いのだ。
少なくとも、表面だけを見て出した結論に確固たる根拠などあるはずがない。

勘違いしないで貰いたいのは、俺は別に某有名文化人の事を責めようとか、その人格や思想を否定しようって訳じゃない。
ただ、「そんな単純な話じゃないでしょ?」 と思うし、「綺麗事だけ言ってても何も変わらない」 という、ごく当たり前の事を言っているだけである。
確かに正論は正論として全否定すべきものではないが、現実的にどうなのかという部分を踏まえないのであれば、それは正論であっても綺麗事に過ぎなくなってしまうのだ。
子供でない限りは大抵の人が理解している事だが、世の中においては1+1が必ずしも2にはならないし、白が黒になったり黒が白になったりもする。
つまり、そんな理不尽や不条理さえも、この現実社会を構成する要素の一つなのである。

大地震、大津波、そして原発事故。
3.11の悲劇は世界中の注目を集め、特に安全性が高いとされているはずの原発がいとも容易く致命的な大事故を引き起こした事は、原発を有する国々にとって対岸の火事で済ませられる話ではなかった。
当然、日本国内はそれ以上の深刻さを誰しもが身に沁みて感じ、それが今も尚続いている脱原発などの運動や活動、思想に繋がっている訳だ。
だからこそ、国民の大多数が原発に対し拭えない危機感を覚え、原発そのものに対してもその必然性について真剣に考える様になった。

ここまでの危機を経験しながら、それでも原発維持、再稼動を支持する人々が少なからず居る事を不思議に思う人は多いだろう。
一歩間違えれば日本という国自体が滅びたかも知れない瞬間を現実に味わいながら、それでもまだ危険極まりない自爆装置を抱え込む意味が解らない・・・と。
どう考えたって、もはや原発に未来は無いと結論付けるのが当然である。
脱原発、即時全廃炉と言い出すのも道理だ。
勿論、国民の大多数もそちらの流れに賛成する立場を取るに決まっている。
しかし、現実には逆走する方針を取っているのが日本という国家の流れ・・・それは何故か。

以前の記事でも書いたが、原発というのは大規模に複雑に利権が絡んだビジネスの一つである。
言わば金ヅルであるが故、それを易々と手放す訳には行かない輩がわんさと居るのだ。
資本家や企業が必要だと望むのであれば、彼らを資金源としてズブズブの関係を築く政治家もそれに準じた動きをして当然なのである。
つまり、国民の意見など二の次三の次どころか、最初から顔色すら窺われていないも同然なのだ。
そんな現実が一つ。
そしてもう一つ、国防に関する重大事項が絡む。

日本は太平洋戦争において、原爆を二発も落とされ、主要都市を焼け野原にされ、ルール無用に非武装民間人の大量虐殺までされて敗戦、無条件降伏した。
それまで恐れられていた帝国日本は陥落し、属国に成り下がった訳だ。
その隙にロシアが北方領土を奪って未だ実行支配し続けている事や、沖縄返還のタイミングで中国・台湾が尖閣諸島の領有権を主張し出したのも、結局のところは日本が敗戦によりかつての力を失ったからである。

完膚なきまで捻じ伏せられてしまった日本は、GHQによる更生処置により牙まで抜かれてしまう。
高度成長期、一気に国家としての力を取り戻していった日本だが、同時に闇の部分をも裏でしっかりと根を張り進めていた。
そんな流れから、原発という体裁の良い金ヅル商品も具現化した訳だ。
やがてバブルで好景気に沸いたりもした訳だが、日本という国家は属国としてのレッテルを剥ぎ取れないままだった。
つまり、諸外国からバカにされ続けているのが日本という国であり、それは今も何ら変わりない。

原発が金ヅル商品なのは前述の通りだが、当初はある可能性を込めた上で推進された計画だったのである。
その可能性というのは、原子力エネルギーを転用し、核兵器へ利用するというもの。
これは対外的に好戦的で挑発的な事の様に思えるかも知れないが、目的としてはむしろ逆である。

核兵器と言うと、どうしても殺戮の道具としてのイメージが強く、特に唯一の被爆国民である日本人にとっては、広島・長崎の大量虐殺へ直結して考えてしまう。
確かに核兵器そのものはその名の通りの殺傷兵器なのだが、では実際に武器として使うべく存在しているのかと言えば、それは現実的に否である。
何故かと言えば、原爆の破壊力が大きすぎるが故、この現代で使ってしまえば世界中が滅びかねない被害を及ぼす事になるからである。
では大戦時に何故アメリカがそんなものを使ったのかと言うと、当時の核保有国はアメリカが唯一であり、最新兵器の実用データが欲しかったという理由が大きい。
アメリカという国があちこちで内政干渉まがいの事をし続けている大きな理由の一つが、所有兵器のデータ取りという目的なのはニュース等を見ていても明白だろう。

広島・長崎で核兵器の実用データが取れている現在、どの核保有国も現実的に使おうとは考えていないのが実状である。
大戦時の状況と違い、今では核保有国が増え、又、原発が存在する国も多数ある。
仮に一つの国を滅ぼす為に核兵器を使用したとしても、対象国に核兵器や原発があった場合、その被害は撃ち込んだ核兵器の何倍、何十倍にも膨れ上がり、その近隣諸国などにも多大な被害を及ぼす事になる。
そうなれば、被害を受けた近隣諸国からの反撃を食らうのは当然であり、直接被害を受けなかった他の国々からも危険視され、照準を合わせられてしまうのである。
つまり、現状の核兵器とは諸刃の剣であり、死なば諸共の覚悟がなければ使える代物ではないという事だ。
但し、核保有国は核兵器を 『使わないでいる』 だけであり、『いつでも使える状態』 にはしてあるという事を踏まえる必要がある。
それこそが核保有国の持つ 『力』 の意味。

核兵器は攻撃の為の武器でありながら、核抑止力という防御の盾でもあるのだ。
つまり、核保有国は絶対的な力を保持している事となり、それ故に外交上も強気な態度に出られるという利点がある。
それがいくら 『使わない武器』 であったとしても、『いざとなれば使える』 という脅威だけで充分に効果的な手札だという事なのである。
その手札を持たぬ日本は、代わりに原発を幾つも保持する事で国防のバランスを保とうと考えた訳だ。


国連という組織がある。
正式には国際連合と言い、主に国際的な平和維持を目的とした組織。
この国連には世界中のほぼ全ての国が加盟していて、つまりは世界中に統一したルールをもたらすものでもある訳だ。
しかしながら、この国連という組織は第二次世界大戦時の連合国により作られたものである為、戦勝国の五大国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国)が常任理事国という形で現在でも優位に立っている。

包括的核実験禁止条約というものもある。
これは先の戦勝五大国以外が核保有する事を禁止とする条約である。
当然、こんなご都合主義的なルールを作ったのは当の五大国だ。
つまり、勝ち組の核武装は合法的で、それ以外の国が核武装するのは非合法で許されないとされてしまっているのである。
道理からすれば、原爆により非武装民間人を無差別に大量殺戮したアメリカがここに含まれて良いはずがないし、極めて強引なやり口で力を誇示したがる中国なども適切とは思えないのだが、『戦争に勝つ』 というのはそういう事であり、負けてしまえば正論の一つもぶつけられないのである。

さて、敗戦国である日本は核保有を認められていない国であり、唯一の被爆国である事実や、大戦時に敵国であったという状況からしても、核保有しようと思えばハードルが高い。
その事は敗戦直後から解っていた事である。
しかし、核兵器という驚異的破壊力を持つ武器が登場した時点で、核兵器の有無こそがその国の後ろ盾になるであろう事も解っていたのだ。
核兵器を持ちたくとも、それが簡単ではない現実が目の前にあった時、日本はいずれ核兵器にもノウハウが転用出来る原発建設を推進したのである。
核兵器が無くとも、原発があれば最低限の抑止力が確保出来るという意味合いも強かった。
それが今の原発だらけな日本の状況なのだ。
そう、原発建設の本来の意図とは、クリーンエネルギーどうのとか莫大な電力確保なんかではなく、核武装化が困難な状況下で、いかに合法的に国防力を高めるかというものに過ぎない。
この事実を知らずして、脱原発もへったくれもないのである。

3.11の原発事故により、原発そのものの実態がかなり明らかになった。
緊急時の想定が低すぎた為に、今回の津波被害が致命的になった事実は誰しもが知るところとなり、これまで大々的に掲げていたクリーンエネルギーという点においても、結局は放射性物質の大規模拡散という事態で全く信憑性を失った。
発電コストも実際は特に安上がりという事にはなっておらず、むしろ核廃棄物処理や廃炉手続きが厄介だという点が含まれる為、従来の火力を始めとした発電技術の方が遥かに安全で安上がりである事が目に見えて裏付けられてしまった。
この事からしても、原発反対という声が圧倒的多数を占めるのは当然の事である。
だが、先に述べた通り、原発の本来の目的とは電力確保などではない為、発電云々の議論で反原発を訴えもほぼ無意味なのだ。

庶民感情として反原発や脱原発に拳を振り上げるのは解る、もっともな事だろう。
俺自身もこうなった以上、心情的には反原発という思いが強い。
だが、だからと言って現状で原発を無くせるはずがない事も承知している訳だ。
何故なら、再三言っている様に、原発の目的は国防力の確保にあるからである。
正規の軍隊すら無く、核兵器も持たず、原発という盾のみに頼って国防力としているのが日本という国だと認識していたら、果たして簡単に原発を無くせなどと言えるだろうか。
丸腰になった日本を乗っ取るべく攻め込んで来るであろう近隣諸国に対し、どこの誰が守るというのだろうか。

オスプレイ導入問題が騒がれ、米兵による犯罪も騒がれている最近だが、沖縄駐留米軍により日本の国土が守られている事実は認めざるを得ない。
特に何かをしてくれている訳ではないし、むしろ米兵による犯罪で被害ばかり出ている様ではあるが、沖縄の米軍基地というのは極東アジアにおける前哨基地であり、あの場所に米軍が駐留しているという事自体に意味がある。
現状でさえ尖閣問題で中国が強気な態度を示しており、韓国も竹島を実行支配して日本を牽制している。
もし日本から原発を無くし、米軍を追い出したとしたら、彼らは日本本土すら自分達の土地だと侵略して来るのが筋である。
武器も無く防具も無い丸腰の豊かな国を、みすみす見逃して放っておくほど彼らが平和的な民族だと思うバカは居ないだろう。
つまり、日本という国や日本人を守る為の必要悪として、米軍の駐留や原発というものが現状では必要なのである。
それが現実というものであり、その現実を踏まえた上でなければ先の話もしようがないのだ。


話を最初に戻すが、国民の大多数が脱原発を望んでいるのは事実だろうし、本来なら民主主義としてその方向に政治も動かなければおかしい。
しかし、政治という視点において考えれば、今すぐ原発を無くすのは原発を存続させる以上に自殺行為であり、決して受け入れられるものではないという事だ。
それに託けて利権を貪ろうとしている輩が少なくない事も事実だろうが、原発を無くせないという事に変わりが無いのも事実なのである。
核保有に前向きな政治家が目立つ様になるのは状況的に仕方無いし、そもそも国防的には原発か核兵器かという二択以外に無い訳だから、あの原発事故を受けて 「原発は危険すぎる」 という判断に達した場合、出すべき結論は 「核保有せよ」 しか無いのである。
これはどちらが善でどちらが悪かを問うべき問題ではなく、極めて現実的に国防を考えるという事。
確かに唯一の被爆国である日本が核保有を考えるなど過去を無視した行為の様ではあるが、正論を振りかざして国が滅ぶ事を選択する方がよっぽど愚かというものだろう。
だって、たかが一個人が生きるとか死ぬとかの話ではないんだから。

「夢を見る資格があるのは現実を見ている者だけである」 という俺の持論がある。
現実を無視して理想論や綺麗事ばかり言うのは愚か者に過ぎないし、逆に、現実を重んじる余り夢や理想を求めないのも愚か者である・・・という意味だ。
現実をしっかりと見据えた上で向上心を持ち、夢や理想を追求するのが人間というものだと俺は思う。
原発が危険で無い方が良い物だという思いは大多数と同じだが、今まで当たり前に推し進めて来たものを、手品の様に一瞬で消せると考えるほど俺は幼稚ではない。
しかし、この期に及んで 「原発が無くては電力不足に陥る」 だの、「エネルギー資源の無い日本は原発に頼らざるを得ない」 だのという大嘘を平然とつき続ける政府に対しては腹立たしい限りである。
いい加減、国民がおめでたい奴しか居ない様な扱いはやめるべきだ。
まぁ、確かに表面的な部分しか見ずに声を上げている人達ばかりではあるが・・・。

いずれにしても、日本人は日本の現実をもっとちゃんと知るべきであり、盲目に踊らされるのではなく、しっかりと自分の目を開いて物事を捉えるべきである。
どれだけ目を見開いても見えない裏側というものが実際にはあり、そんな裏側の影響力が絶大である事実もあるのだが、それにしたって安直な判断ばかりするのはどうなのかと思うのだ。
結果的にはどうにもならない事ばかりだったとしても、核心に目を向けているのと向けていないのでは大違いだ。

例えば、愚か者にも程度というものはあるだろう。
ならば、救い難い愚か者にはならぬ様に生きるべきではないだろうか。
底無し沼に突き落とされて、もう決して助からないと察したとしても、ただ無抵抗に死んで行くのが潔いと言えるだろうか。
最後の最後まで足掻いてもがき、無様に苦しんで見せるのが生きているという事である。

今生きている我々が後の世の事を考えるのであれば、根本的に守らなければならないのは日本という国土と日本人という民族の存続である。
その根本を危機にさらしてまで丸腰になる必然性があると言うのなら、一体それがどこにあるのかを明確に示して欲しいものである。
自分や家族、親類、友人、知り合い、愛すべき人達が、侵略者によって犯され殺される事を俺は望まない。
今毒を飲まなければそうなってしまうというのであれば、毒を飲む事に何の躊躇があるというのだろう。
基本的に人嫌いの俺ですらそう思うんだから、人嫌いではない多くの方々はよっぽどじゃないのかと俺は思うんだが・・・どうだろうか。