闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
中島みゆきの 『ファイト!』 が胸に突き刺さる。
まともに聴いた事がなくたって、聞き流せない棘の様なフレーズ。
先日起きたバスケ部員の体罰自殺問題について、ついさっきテレ朝にあの戸塚宏が出て、持論を展開した様だ。
戸塚氏と言えば、かつて世間を騒がせた戸塚ヨットスクール事件のあの校長である。
戸塚ヨットスクールは、プロ育成を目的としたフリースクールとして始まった。
やがて、その厳しい指導と訓練により、不良の更生施設としての役割を求められる様になる。
当時、世は校内暴力が社会問題になっていた頃。
当然の様にマスコミも戸塚ヨットスクールのスパルタ教育を取り上げ、それは明らかに不良を淘汰しようとする流れを意味していた。
しかし、そんな校内暴力ブームが終焉を迎える頃、戸塚ヨットスクール事件が発覚。
過剰な体罰や訓練により、生徒の死亡や行方不明が数件あると発覚したのである。
これにより、熱心な教育者として持ち上げられていた戸塚氏は、一気に人殺しだと批難される。
結論から言えば、戸塚ヨットスクールでの事件は関係者15名が全員有罪となり、戸塚氏自身も実刑を受けて服役している。
つまり、彼らは紛れもなく人殺しの前例があるという事。
刑を終えたとは言え、その事実が無かった事にはならない。
しかし、忘れてはならないのは、事件の被害生徒達が自ら進んでスクールに入った訳ではないという点である。
彼らが戸塚氏らの手により殺されたのは事実であっても、何の問題も無く生活していたところを拉致されて来た訳ではないのだ。
殺した側に問題があったのなら、更生施設としてのスクールに送り込まれてしまう側にも問題はあったのだろう。
比べてどちらが悪かという話ではない。
どちらも問題があったのである。
TV出演した戸塚氏は、「何人もの生徒が体罰を受けているのに自殺したのはこの生徒だけ。つまり、指導した側ではなく自殺した生徒に問題があったのだ。」 という持論を感情的に展開したらしい。
俺自身はその放送を見ていないが、どうやらそういった発言をしたのは事実の様である。
さて、戸塚氏の言い分についてどう思うだろうか。
Twitter上では、ほぼ全てが出演させたテレ朝や戸塚氏自体に対しての批判だった。
「あんな奴をTVに出すな」 という意見、「戸塚ってのはマジキチだな」 という意見、ほとんどが同様の意見を述べている。
まぁ、それは必然だろう。
言っても人を死に追いやった人物、それも一人二人ではないとなれば、「そんな人殺しがどうして偉そうに教育を語る資格があるのか!」 と憤る人は少ないはずがない。
そう、仮に戸塚氏の言葉が全て正論であったとしても、「お前が言うな!」 にしかなり得ないのだ。
そういう意味で言えば、出演させたテレ朝側に悪意があるのか大バカなんだろう。
又、それをいちいち真に受ける方も俺から言わせればどうかしてる。
戸塚氏の言い分を踏まえてって事ではないが、俺個人の意見を述べたとしても自殺した生徒に問題が無かったとは絶対に思わない。
世の中は死んだもん勝ちではないのだ。
いや、俺が言いたいのは世間で取り上げられている体罰の是非や程度問題ではない。
問題があったと確実に言えるのは、たかだか学校という狭い社会の、たかだかバスケットボール部という更に狭い社会に身を置いて、それらを社会の全てだと錯覚してしまったが故に自殺という結論に至った愚かさである。
追い詰められて死んだ人間を愚かだと言うのは非道の様だが、少なからず社会を知っている大人達はそう言うべきだろうと俺は思う。
こういった事件が起きると、問題のすり替えや着眼点の相違によってお約束的に小競り合いが起きるが、実にバカげている。
一見すれば一つの事件の様でも、単純に一つの事柄でまとまっているものなど一つもありはしない。
紐解いて見えてくる問題のそれぞれをそれぞれのものとして捉え、考えるからこそ全体像も把握出来るのである。
今回の件で言えば、体罰について、体罰をしていた講師については当たり前に誰しもが注目しているが、自殺した生徒側については単に被害者の様にしか捉えようとしていない。
絶対的権力を持つ人間による一方的な暴力と、それにより追い詰められて自殺した被害者の少年・・・という図式がほぼ確立している事に対し、人々がどうして違和感を覚えないのかがこの手の事件での気味の悪さだ。
自殺した少年は被害者だと言うが、それでは一体何の被害者なんだろうか。
部活顧問の権力が、死ななければ逃れられないほど絶大な訳が無いのは言うまでもないだろう。
「それでも少年にとってはそれほどのものだったのだ」 と言い切ってしまうのは簡単だが、我々はそれが実に小さな権力でしかない事を知っている。
誰に教えられずとも、たかが高校バスケ部の一顧問など、脅威には感じるほどの相手だとすら思っていない。
ならばだ、どうして少年はそれほど追い詰められるまでに至ったのか・・・である。
それは単純に、少年にとっての世界がそういった世界だったからなのだろう。
学生時代、教師という存在は確かに権力者に映った。
日常の大半を過ごす学校という場において、教師は半ば支配者だという認識を当たり前の様に持っていた。
教師だけではない、事務員だって用務員だって、学校関係者は全てがこちらの弱味を握る存在に思えた。
彼らの機嫌を損ねれば、いつでも居心地の悪い日常に身を置く羽目になると勝手に思い込んでいた。
しかし、本当のところはそうじゃなかったと知るのは、学生を終えた後なのだ。
あの頃、大嫌いな教師に対して露骨に反抗しなかった理由、言いたい事の一つも押し止めた理由は、極めて狭い世界を軸として考えていたからに過ぎない。
学校なんて、教師なんてと今なら当たり前に言い切ってやるが、一生徒だった頃は思っていたとしても表には出せなかった。
「いざとなったら」 とは考えていたが、相応の覚悟が必要な事だったのだ。
こういった事件が起きるという事は、いくら学校が我々の頃と違っているとは言え、学校という社会の権力構造がさほど変わっていないという事なんだろう。
むしろ、ナメられる教師などが露骨になった分だけ、支配力を持つ教師が図に乗る状況も増えたのかも知れない。
いずれにしても、学校社会における大人に対し、必要以上の脅威を感じている生徒達が少なくない事実が見えて来る。
となれば、当然ながらその中には今回の件の様に追い詰められる生徒というのも出て来るのだろう。
それは一体誰のせいなのだろうか。
追い詰めた側が悪いと短絡的に吊るし上げたところで、果たしてそれは解決なのだろうか。
いじめによる自殺が特に問題視されているのは言うまでもない。
しかし、今回はいじめではなく体罰による自殺。
小さな社会の同じ層に属する生徒間での格差闘争ではない。
明らかに立場として格差がある前提での事件である。
権力者の権力行使がどこまで許されるのかという点と、権力者の権力がいかなるものと認識させるべきかという点の問題なのだ。
要するに、教師はどこまで教師であるべきなのか、生徒はどこまで生徒であるべきなのか・・・という事だろう。
体罰自体の是非で言うならば、これは 『結婚に幸せを見出せるか否か』 みたいなもので、あくまで個人差がある。
厳しい指導によって実力を発揮したり成長する者も居れば、全く逆効果になる者も居る。
指導する側にしても、それは程度問題という話になって来る。
いちいち竹刀や木刀を振り回しているわりに、実際にそれを使った体罰などしない指導者が居れば、平手打ちどころかゲンコツで殴り飛ばしたり蹴飛ばすのは当たり前、竹刀だろうと木刀だろうと、使えるもんなら何だって使って体罰をする指導者も居る。
肝心なのは、そのどちらが正しいかではなく、そのやり方にどれだけの者が付いて行くかなのだ。
優しく指導して結果的に伸びなくとも、厳しく指導して結果的に伸びなくとも、恨みを買う時は買うだろう。
その逆に、毎日の様に体罰をしていても、結果的に感謝され慕われる指導者というのも決して少なくはないのだ。
明らかに度を越した体罰を善しとする事は無いにしても、ある程度なら効果的であるとする見方は昔からある。
ストイックさを求められる事の多いスポーツの世界では特に多く、公式には認めずとも伝統的に行われている体罰などが未だ存在する。
かつてやはり問題視された相撲界での 「かわいがり」 は顕著な例だろう。
あくまで稽古の一環として行われる 「かわいがり」 であっても、必要な休憩を許さなかったり、水分補給をさせずに続ければ充分に過度な体罰であり、その上で指導者が竹刀や木刀で殴るならリンチに他ならない。
あの事件では指導者である親方がビール瓶で殴ったという証言も出て来たが、そこまでなれば例え無事であったとしても殺人未遂に問われる犯罪である。
体罰が効果的な場合があるとしても、結局はそれを行使する人間が非常識であったり、加減を知らないバカならば危険極まりないのだ。
いずれにしても万人に効果的だとは言い難いのが体罰というものだが、暴力的だと完全否定するのも些か極端な話だろう。
体罰によって生徒を死に追いやった講師は悪である・・・という大多数の単純な発想は仕方無いだろう。
体罰自体に否定的な世の中になっているから尚更だ。
しかし、Bクラス落ちを脅されたにしても、何十発も殴られたとしても、主将の責任を負っていたとしても、本来ならそれら全てを否定し、拒絶し、反抗し、反撃する事は出来たはずなのだ。
自殺を決心するほどまでに思い詰める様な必然性は全く無かっただろう。
もし真面目さ故にそうなってしまったのだとすれば、その真面目さは愚かである。
そんな愚かな真面目さを認めてやるのは、よっぽどのアホぐらいだろう。
講師にブチギレて返り討ちにするならまだしも、自ら死ぬ選択をするなんてのは結局のところ異常なのだ。
その異常さを差し置いて、体罰についてばかり目を向けている輩は踊らされているに過ぎない。
問題は大昔から当たり前に居る体罰教師の存在なんかよりも、それに歯向かえない生徒の価値観である。
従えるなら体罰だろうと横暴だろうと受けて立てば良いが、従えないと感じた場合はそれを明確に表さなければいけないのだ。
学校なんてのは所詮小さな箱庭に過ぎず、部活なんてのはその中の更に小さな鳥籠に過ぎない事を、子供らにはそろそろ教えなくてはいけない時期なんだろう。
例え鳥籠をぶっ壊して、箱庭をぶっ壊したところで、そんなのは社会にとって屁でもないという事実を知っていたら、少年は果たして自殺を選んだだろうか。
良い子で居続けなくとも堂々と生きていて構わないと知っていたら、遺書など書いただろうか。
自殺報道が注目を集めるとその原因ばかりが追究されるが、「死ぬほどの価値なんて無い事で死んだ」 とは誰も言わない。
しかし、大抵は死ぬほどの価値なんて無い事ばかりだ。
いじめにしても体罰にしても、積み上げた積み木をひっくり返してしまえばずっと楽になる。
肝心なその事を教えようとも伝えようともしない大人達は、俺に言わせれば卑怯者だ。
後生大事に積み上げたところで、人生なんてどれも積み木でしかない。
高いハードルを飛び越えようと失敗しようと、それで人生の価値が決まる訳じゃない。
クソにまみれて生きたって、そこに何かを見出せるのが人間なのだという事。
そういった本当を言わずして、大人達に何の存在価値があるというのだろうか。
カッコ良く生きろだとか、素晴らしい人になれだとか、そんな事を言って許される奴が居るとするならば、そいつは神ぐらいだろう。
だから、ダサかろうと卑怯だろうと、生きてナンボだろと人間の俺は言いたい。
話の論点からは少しズレるが、俺はかなり昔から言い続けてる事がある。
日本の学生達の部活とかってのは、総体的に異常で気味が悪い。
もっと言うなら、バカじゃねぇの?って感じだ。
これまた体育会系に顕著な事だが、その道のプロですらやってない様な状況や環境でも練習やらを続けてるのは全く以って理解し難い。
例えば、俺が学生の頃は野球部が本降りの雨の中でも練習試合をしていた。
プロですら雨になると試合を中断するってのに、プロでもないアマチュアの底辺の方の連中が、そんな状況でも止めないのは全く道理が通らない。
同じ様な事は他の部活なんかでもよくある事だろう。
青春でどうのとか若い内に鍛えてどうのとかって言い分はあるんだろうが、スポーツの場合に延長線上にあるのは大概プロで、その頂点たるプロがしてない事を素人がやる必然性なんてのは皆無のはずだ。
そこに違和感を感じず従ってる当人達も異常だが、それを見て何とも思わない方もかなり異常だと俺は思い続けている。
クソくだらない美徳の為にやってる気がしてならないし、それが当たり前に続いている事の気持ち悪さといったらない。
体罰問題も、そういった過剰な部活動が当たり前になり過ぎてるってのも原因の一端なんじゃないかと思う。
頑張れば報われるなんてのが日本人には特にあるのかも知れないが、頑張って報われる人は、恐らく無理や無茶をしなくたって報われるだろう。
ってか、頑張っても報われなかった人達が大多数を占める世の中において、必要なのはいかに勝つかを教える事なんかじゃなく、いかに負けたかを聞かせてやる事なんだろう。