・週刊朝日によるハシシタ記事の件
極めて情報に疎い人でない限りは知っているであろう週刊朝日の記事の件だが、こういった騒動になると、善悪の判断自体よりもそれに纏わる裏の流れなんかを考えて物凄くコメントが難しくなる。
Twitterなんかを見れば一番解り易いんだが、一連の流れ全てが茶番だという見方も出来なくはないし、何かしらの裏の意図があって仕組まれた事の様にも思えなくはない。
まぁ、簡単に言えば記事を書いたライターが最悪で、その記事にGoを出した編集がその次って話でしかないんだが、そんな単純な訳がないと思ってしまうのが正直なところ。
とは言え、裏に何があるのかが見えない以上、見える部分での判断を下すしかない訳だ。
まず、問題の記事だが、確かに酷い内容。
TVなんかでの取り上げられ方は 「差別的表現をしている」 程度でしかないんで解り辛いと思うんだけども、要は、あくまで個人的主観による嫌悪感をそのまま断定的なものとして吐き出している感じ。
一番解り易い部分で言えば、橋下氏がタレント時代にTV出演しているのを観て、「こいつは裏に回ればどんな陰惨な事でもやるに違いない」 と思ったそうです。
橋下氏の発言云々ではなく、その目や表情からそう感じ取ったそうです。
ただTVに出ていた、実際に会った事も話した事もない赤の他人に対して、それこそ血脈を辿るなんて事すらしていないその時点でですよ、こいつは酷い奴に違いないと勝手に決めつけてしまった訳です、佐野なにがしというライターは。
それだけで極めて非常識で自己中心的な人物なのは解りますよね。
仮に橋下氏が今現在、あるいは今後、全国民にとって許し難い言動をするとしても、タレント時代にTVに出ていた彼を酷い人間だと断定する事など出来るはずがない。
あんたは超能力者か?予言者のつもりか?って話になってしまう。
当然、好き嫌いは誰にだってあるだろうし、一目見ただけで嫌いなタイプというのが解ってしまう事だってある。
特に芸能人やタレントといった人達に対して、好きだの嫌いだのと言ったり、それこそ 「こんな奴はクズだ!」 的な事を言ったり思ったりする事はあって不思議じゃない。
それを悪だとも言わないし言えないだろう。
しかし、それはあくまで個人的なものであり、少なくとも大手出版社のメジャーな週刊誌に記事として発表すべき事ではないはずである。
記事にはTV等でも取り上げられている様に、その後も差別的な表現が含まれていたりする。
橋下氏の会見の様子からも、その差別的表現に対して特にスポットが当たっている訳だが、本質的な問題はそこではない様に俺は思う。
まぁ、まず差別的な部分の問題点を取り上げるなら、上記の様にTVで観ただけで人物像を勝手に決めつけ、勝手に嫌悪する様な人物に堂々と記事を書かせているという点だ。
勿論、それは記事としての演出であり、言わば後付け的に 「俺はちゃんと人を見抜く目があるんだぜ」 という誇示であろう。
つまり、「俺には人を見抜く目があるから、これから書く事にも信憑性があるんだ」 と言いたい訳である。
しかし、それが子供じみた誇示であろうと、記事のエンターテイメント性を高める為の演出であろうと、明らかなる個人攻撃であり、差別である事は明白である。
「最初にTVで見かけた時から橋下が大嫌いだった」 ならば全く問題は無いし、当人だってそんな事ぐらいは百も承知だろう。
ところが、そうは書かずにあえて露骨な表現をチョイスしたんであろう点が悪質なのだ。
そして、橋下氏の会見でも何度も言っていた実父の出身や経歴などの事。
恐らく、実父の出身や経歴を赤裸々に書いただけなら展開は違ったんであろうが、いちいちそれを橋下氏に結び付けている点がまた悪質なところ。
つまり、「橋下の親父はロクでもない奴だったんだ」 で終わらせず、「だから橋下だってロクでもない奴に決まってる」 と続けてしまっている事が問題なのだ。
こうして書くと解ると思うが、実は前述の橋下氏への差別表現と全く同じ発想構造なのである。
「TVで観た時からこいつは酷い奴だと解った」 というのと、「実父がロクでもないんだから橋下だってロクでもない」 という構図、発想の骨組みは同じですよね。
さて、今回俺がこの件をわざわざ取り上げたのは、橋下氏を支持しているからとか、朝日新聞グループが嫌いだからとかって理由じゃないんです。
まぁ、朝日新聞グループはテレ朝も含めて好きじゃないけどもね。
今回の記事のライター、佐野なにがしという人物の発想というか価値観は、まさに昨今騒がれているいじめ問題のフォーマットとほぼ同じものだと俺は思ったんです。
「お前の親族には犯罪者がいる。だからお前も酷い人間に違いない。」 という様な表現をしている事が今回問題視されている訳ですが、それって 「あいつ何かムカつく。いじめてやろうぜ?」 であったり、「お前ムカつくんだよ。死んじまえ!」 などといったいじめの短絡的発想と全く同じですよね。
極めて一方的な主観だけで好き嫌いを決め、その主観だけを根拠に他人を叩いたり排除しようとする。
つまり、「俺は嫌いなんだからお前を攻撃して当然だ」 という利己主義者のそれ。
仮にそんな発想は誰にでもあるとしても、それを表に出すべきかどうか、他人に向けて良いものかどうかの判断はついて当然。
少なくとも、自分以外は全て他人である事が大前提の社会に身を置く以上、平然と利己主義を出す様な人物は淘汰されて然るべきです。
そうでなくては、モラルもルールも見せ掛けだけの、ただの無法地帯になってしまう。
今回は大手出版社のメジャーな週刊誌が、そんな利己主義的な記事を平然と世に出した訳で、叩いてる相手が橋下氏である事なんてさほど重要じゃないんです。
問題は、メディアがそういった事を平然とするのであれば、メディアに目をつけられた時点でもうアウトになってしまうという事。
今回はたまたま橋下市長という公人で時の人だから騒ぎもそれだけ大きくなったけど、別に何もしてない一般人だって、メディアが潰そうと思えば記事を書くだけで簡単に潰せてしまうという流れが既に出来ているという事を証明した訳です。
例えば、今ちょうどPCハッキングによるネット書き込み事件が取り上げられてるけども、既に何人もが誤認逮捕だったらしいと解ってきましたよね。
仮にその事件の事を雑誌か何かで取り上げていて、誤認逮捕された人物の詳細を書いていたとしたら?
その記事によって家族や関係者が誹謗中傷されたり、物理的に攻撃されていたりしたら、後に誤認逮捕だと解ったところで取り返しはつかない訳です。
少なからず、その後の人生を変えてしまうほどの影響力を持っているのがメディアであるという事。
そのメディアが抑止力を失えば、万人が謂れの無い攻撃の的になり得るという事。
これは決して笑えない話ですよね。
昨今のいじめ問題で言えば、メディアよりも民衆レベルでの個人攻撃が過熱しました。
大津のいじめ自殺事件、あれは経緯が解れば解るほど卑劣で残酷な内容だっただけに、加害者の少年数名やその家族、事件関係者の吊るし上げがTwitter上や某掲示板などで露骨に展開された訳ですが、面白がって叩く輩も少なくはなかったものの、総体的には当然の報いであるという様なムードに決着した感じでした。
実名や顔写真が晒され、拡散された事をやり過ぎだと懸念する見方はありながらも、もう一方ではその流れを完全否定出来ない心理が働いた人も多かったと思います。
社会的な善悪で判断するなら、過剰な吊るし上げも立派に悪でしょう。
民衆によって制裁を課す事を認めない代わりに司法制度がある訳だから、あれは無法であり暴走だったと言えます。
しかし、何故そうなったのかを紐解くと、警察組織や司法などに対する不信感や、加害者側の煽る様な態度・言動に問題があったのは否めないところ。
しかも、昔なら噂なら噂で済んでいた事が、今では画像などで明確な証拠や裏付けが取れてしまう事も、事態の拡大化の大きな要因になったところでしょう。
未成年であり、いじめによる自殺として事件は処理されている為、どれだけ卑劣であっても人を一人自殺にまで追い込んだという罪は問われない。
それが解っているからこそ、民衆は吊るし上げというある種の暴挙を半ば許容する形になった訳です。
言わば民意が反映されたと言って然るべき部分がある訳で、だからこそ取り締まる側もまともに取り締まれず、メディアも見てるだけ状態に追いやられたという事なんでしょう。
俺個人の意見としては、吊るし上げ自体を善しとはしないまでも、この情報化社会においてあれは当然の展開だったんだろうと思ってます。
吊るし上げには否定的で嫌悪感すら抱いた人であっても、加害者の連中やその親、隠蔽体質な学校側や役人連中に対して、相応の報いはあって然るべきだと思った人は多いはずです。
特に当事者である加害者の連中は、人を死に追いやっておきながら、別の土地で何事もなかった様に生活する事が許されていた訳です。
実名や顔写真が拡散されてしまった現在ではそうも行かないでしょうが、そんな不条理が許されていたとなれば、それを許すまじとする動きが無い訳が無いですよね。
さて、利己的な嫌悪感から一人の少年を自殺に追い込んだ少年達と、利己的な嫌悪感から橋下氏を攻撃する人々では何が違うんでしょうか。
明らかに人を死に追いやった少年達を追及すべく吊るし上げた民衆と、決して選ぶ事の出来ない血脈を暴いて橋下氏の人間性を否定しようとした週刊朝日との違い、解りますか?
物凄く解り易く例えます。
「やーい!お前のとーちゃん犯罪者ー!」 と、どっかの悪ガキが橋下市長に言う。
そこまでは公人として仕方の無い事だと市長本人が認めてます。
では、同じ事を名の知れた有名人や議員の様な人物が公の場で言ったらどうでしょうか。
もはや頭がイカレてるとしか思えない行為ですよね。
これは許されない。
今回の騒動というのは、簡潔に言うとそういった事なんです。
橋下批判をする人は当然居るし、個人レベルであれば今回の記事なんかよりずっと酷い言い方をしてる人も大勢居るでしょう。
でも、それは個人的意見だからどうしようもない。
個人的にであれば、血脈からしてどうのと差別したって今回の様な騒ぎにはならないんですね。
問題は、一ライターの利己的見解を大衆誌が当たり前の様に掲載するという道徳意識の無さ。
ペンは剣より強いという認識の履き違えですよ、つまり。
故に、週刊朝日のみならず、親会社である朝日新聞社をも含め、橋下市長は取材拒否の姿勢を取った訳ですよね。
朝日新聞グループというマスメディアが、グループとして道徳意識の無い方針を取っているのであれば、そんな危険な組織もないぞ?という警鐘を鳴らしたんだと俺は受け取りました。
勿論、もっと裏に何かある気配がしないでもないけども、事実としてダメなもんはダメですからね、見える範囲でダメな部分にはダメだと判断する必要はあるでしょう。
結果的に件の連載は中止となり、週刊朝日も親会社としての朝日新聞社も謝罪をする形になった訳で、橋下市長もこれ以上の直接反撃はしないでしょうが、週刊朝日があの記事にGoを出した事実は消せるはずもなく、現状では道徳意識が無いに等しい編集方針である事実も明確になり、朝日新聞社についても、親会社でありながらその認識は極めて低く、親会社としての責任まで 「なあなあの関係では?」 と思わせる対応であった事が露呈してしまった訳です。
「こんなもんは茶番だ」 と言ってのけた人達も居た様だけど、茶番にしては朝日新聞グループはダメージが大きすぎやしませんかね。
今号の週刊朝日が爆発的に売れたとは言え、バカ売れするのは謝罪記事が載る次号までですよね。
マスメディアにとって最も重要なのは、情報の信憑性や信頼度なんですよ。
そこがある程度保たれているからこそ、メディアとして成立している訳です。
インチキでデタラメとは言わないまでも、明らかにモラルを欠いた編集方針で発行されていると解った雑誌を、一体どこのマトモな人間がマトモに読むってんでしょうか。
そんな雑誌を好き好んで読んでいる人に対して、世間の人達は一体どんな目を向ける事になるでしょうか。
イメージというのは大事なんです。
初対面の印象でその後の付き合いが左右される様に、噂一つで他人との距離感が変わってしまう様に、真偽よりも重要なのはイメージという不確かで漠然としたものだったりします。
見かけが恐怖感や威圧感を与えてしまう人は、中身がどんな良い人間でも敬遠されがちになってしまい、相手が一歩踏み込んでこなければ、怖いだけのイメージで終わってしまうのがお約束。
だから物好きな人ぐらいにしか興味を持たれない傾向が強い。
それは仕方無いんですよ、だって大抵の人にとっては怖いんだから。
そんなイメージを払拭したいなら、やはり相応の努力というものは必要になる訳です。
怖い顔してるのに、怖いカッコをして怖い目つきで怖い言動をしてたら、まず善人とは思われない。
そして、一度受け取られてしまったイメージというのは、簡単に塗り替えられるものでもないんです。
これまでの橋下市長の言動で、橋下嫌いになった人や批判する側に回った人は多いでしょうが、それとてやはりイメージです。
そして、今回の件でも朝日新聞社や週刊朝日に対し、嫌悪感を抱いたり批判的なスタンスに回った人達も多いでしょう。
それもまたイメージだという事ですね。
イメージが悪ければ悪いイメージを持たれ、一度植えつけられてしまったイメージは、その後も簡単に消したり変えたり出来なくなってしまう。
以前、震災の少し後だったけども、mixiのつぶやき上で、知り合いの一人が石原都知事の言動に関して怒りをぶつけてました。
で、別の知り合いがその知り合いの発言に対して反論の様なコメントをし、結果的にちょっとした言い合いの様な状況になってたんです。
二人とも知り合い同士で、当然、俺も二人をよく知ってる。
正直、その二人とも腹を割った話をするほどの仲ではないものの、それなりに付き合いの長い仲間内の二人だったもんで、事態がややこしくなる前に気付いた俺が鎮火させないといかんなと思った訳です。
という事で、俺が間に割って入って、不毛な論争を止めさせましたよ。
最初につぶやいた方、都知事に対して憤ってた方ですが、その子にはこんな風に言いました。
「石原が大嫌いなのはよーーーく解った。今回の言動に腹が立ったのもよーーーく解った。 けど、それはごく単純に、お前さん自身が石原慎太郎という奴を大嫌いなだけなんだよ。 大嫌いな奴の言動だから、それが何であっても気に入らなかったり腹が立つんじゃないか? それこそ、石原がいくら正論を言おうが、誰かの命を救おうが、下手すりゃトイレでクソする事だって気に食わんのだろう。 それはさ、理屈どうのじゃなく、石原が大嫌い!ってだけの事なんだよ。 だからいちいち言動に腹立ててないで、『あいつ大嫌い!』 で良いじゃん」 と。
それでその子も納得した様で、ムキになった事を反省してたんで一件落着。
結局、石原都知事に対するイメージがその子の中では燻った怒りになってた訳で、そこに油が注がれた事で燃え上がってしまったという話なんです。
橋下市長に対しても同様のイメージを持ってる人は少なくないだろうけど、嫌いという感情は嫌い以外の何物でもないんです。
嫌いだからその感情を平然と表に出して良いのかどうかと言えば、答えはNOです。
表に出すという事は、それを受け取る側、拾い上げる側が居るという事。
となれば、発言が極めて個人的感情でしかないものであったとしても、否定されたり反論される可能性、あるいは攻撃される可能性だって出て来るのが必然。
そのリスクを踏まえた上でなければ、発言がいくら正しくとも無責任なものにしかなり得ない訳です。
前述の様に、公人である都知事の言動について怒りをぶちまけただけであっても、その事が別の新たな火種になる事は当たり前にある事なんです。
嫌いなのは嫌いで構わないけど、その感情を公にするなら覚悟も必要だという事。
そこを理解しないで不用意に発言してしまえば、今回の週刊朝日の様に謝罪させられる羽目になったりもする訳ですよ。
今回の件は、Twitterを見ててもほとんどが週刊朝日への糾弾。
かと言って、橋下市長支持という意見は少数派で、単純に相手が誰であろうと週刊朝日のしでかした事は許されないという意見が圧倒的多数の様子。
普段は橋下批判をしている人達の中にも、今回ばかりは週刊朝日が酷すぎると認めているコメントがチラホラと見られた。
それは当然と言えば当然だが、こうなると橋下支持に回ったと見られたくない人達は黙りを決め込んでいるんだろうし、この期に及んでも橋下潰しをしたい衝動を抑えられない人達は、相変わらず叩きコメントを続けている。
しかし、橋下叩きに一貫してる事自体は別に良いけども、この現状で橋下氏を叩き潰したいが為に連載を続けろだの謝罪する必要ないだのと言ってる神経というのは理解し難い。
問題はもはやメディアのあり方という部分にシフトしてるってのに、橋下橋下と執着してるのは一周して大ファンなんじゃないかとすら思うぐらいだ。
まぁ、こういった出来事が起きるといつも思う事なんだが、問題の論点がシフトしていった時に、しっかりとその事が認識出来ているかどうか、問題を一緒くたにせず、ポイントごとに分けて考えられるかどうか・・・というのが非常に大事なのだ。
今回の件であれば、週刊朝日のハシシタ記事に関してが主題なのであり、橋下市長を支持するとかしないとか、好き嫌いの話は全く別問題なのである。
感情のコントロールもロクに出来ないのであれば、事態の把握だって的確に出来るはずもないのだ。
常に感情論を含めてしか物事を捉えたり考えられない人間は、その場の感情次第で白を黒に、黒を白に結論付けてしまう事だってある訳であり、そんな人に物事の正否をジャッジする能力などあるはずもなければ、そんな愚かで無礼で無謀な事をするべきでもない。
そしてそれを許すべきでもないのである。
橋下嫌い、それは結構。
しかし、嫌いであっても理路整然とした意見は認める以外にないのである。
その口調が気に食わないなんて意見もある様だが、だったらもっと酷い表現をしてる佐野なにがしの方をまず叩くべきでしょうよと。
少なくともあの会見で、橋下氏はお前のかーちゃんでべそ的な差別はしてなかった訳だから。
現実に週刊朝日のしでかした事は社会のルールから逸脱した行いであった訳だから、それも認める他に無い。
メディアとしての信念があって出した記事なのであれば、開き直って最後まで連載を続けるぐらいの覚悟がなきゃおかしいという意見も出てる様子。
確かに理屈から言えばその通りだが、信念がないからこそ血脈なんていう部分を取り上げて橋下潰しに及んだんですよ。
まともに攻撃しても勝ち目がないから、どこの誰であろうと絶対に変えようがなく、選びようもない血筋を的にしたんでしょう。
だからこそ卑劣で許し難いと民衆も声を上げてる訳ですよね。
橋下市長が本当のところどんな人物なのかは知る由もありません。
血筋がどうとか、実父がどうとか、どこでどんな風にどんな人達の中で育ったのかも知りません。
今回の件でそれを知る必然性があるとも思わないし、それを知ったところで彼はポリシーや生き様を変えたりしないだろうし、だったら同じ事なんですよ。
大体、彼の過去や血筋に関する情報を得たからと言って、それで彼を叩いて良いという理由にはならないし、仮に叩くにしても、あくまで現状の彼の言動を批判するのが筋ってもんでしょう。
少なくとも、政治活動をする以前の情報を取り上げてクズだ下衆だと叩くのは、そう言ってる輩の方がよっぽどクズで下衆ってもんですよ、一般的な認識からすれば。
やはりね、嫌いな相手を叩くにしても最低限のルールってもんはある。
好きな相手に好意を寄せるのにだって程度はあるじゃないですか。
結局、程度問題なんですよ、好きも嫌いも。
他人の人生に関わるって事は、誰であってもそこに責任ってもんが伴うんです。
本当に嫌いならば一切関わるべきではないし、メディアとして公人の人物像を浮き彫りにする必要があると言うのであれば、無駄で過剰な感情論など持ち込むべきではないんです。
結局、行き着くところはいつだって俺が日頃から言ってる様な部分なんですよ。
感情論など無駄に出すべきではないという様な事や、分けるべきトコはきっちりと分けて考えなければならないという様な事、物事は総体的且つ多角的に見なければならないという様な事。
俺は石原都知事や橋下市長といった 『嫌われ者』 を好きだとは言いません。
その発言の中には支持出来るものもあるし、ふざけるなと思うものもある。
だから、賛辞する事もあればボロクソに言う事もある。
例えば、児童ポルノ規正法改正の一件については、強く支持を表明した都知事は無知で愚かだと思ったし、それこそボロクソに言うぐらいのスタンスでいました・・・裏事情も知ったから尚更。
橋下市長についても、伝統芸能や文化を軽視してると思われても仕方の無い言動で批判を浴びた時、それはそうなるだろうなと思って見ていたし、わりと頻繁に過激な物言いをする事も良いとは思えない。
週刊朝日の愚弄した表現が酷いとするならば、橋下氏だって今まで相当酷い表現であちこちに反撃を繰り返して来たじゃないかと思う。
但し、そういった部分が目立つからといって、個人として丸ごと否定してまうのは危険であり、異常な判断だとしか思えません。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いが人情だとしても、それでは今回の件のライターと同じ、いじめの構造と同じなんです。
石原慎太郎も橋下徹も嫌な奴かも知れないけども、他の政治家連中から比べれば、もっともな発言だって堂々としてる二人ですよ。
「尖閣や竹島が盗まれようとしてるのに黙って見てる奴がどこに居るか。国がやらないなら誰かがやるしかないだろ。」 なんて発言、他にどこの政治家が今までしましたか?と。
現実に寄付を集めて段取りを進める行動力、そこは認めるしかないんですよ。
橋下市長についても、知事時代から含めて、問題のある言動を繰り返しつつも結果は出してきた訳です。
大阪のとんでもない赤字やらマイナス面をなんとかする為に動いて、現実に減らしてる訳ですよ、データ的には。
勿論、結果よりもプロセスに問題がある部分は否めないところだけどもね。
でも、結果を出さない政治家というのは、単なる税金泥棒に過ぎないんじゃないのかと俺は思う訳です。
色々と問題のある言動が目立ったとしても、権力を行使して結果を出してる以上、そこだけは認めるべきなんです。
何故なら、それが知事や市長といった上位職の仕事だから。
「橋下のせいで生活が苦しくなった!仕事がやり辛くなった!」 なんて人も恐らくは結構居るんでしょう。
それは否定しないし、しょうがない事だとも言い切れない。
ただ問題は、それが本当に橋下氏のせいなのか?って事ですよ。
もしも橋下氏の指示が間違いを正したものだったなら、それによる変化で苦しむ人が恨むべきは橋下氏ではなく、そもそも間違いを慣習化、常習化させてしまった 『誰か』 や 『何か』 なんです。
今まで安定してたものを崩したから悪党だ!という論法は、この社会では成り立ちません。
『その安定が何によってもたらされたものなのか』 という中身の部分に焦点を当て、必要ならば安定を叩き壊す事も政治なんです。
むしろ、それが出来なければ政治の意味が無いと言っても過言ではない。
つまり、政治家は必然的な嫌われ者って事です。
決して橋下氏が正しい政治家だとは言いませんが、やる事をやってる以上は認めざるを得ないし、余計な言動が目立つのも認めざるを得ないってだけの話ですよ。
ちゃんと分けて考えた上で、総体的な評価ってのは下すものです。
さて、本筋であるメディアについてですが、週刊朝日の編集方針が非道徳的な現状である事は確定的なものになりましたが、他はどうなんでしょうか。
橋下市長の会見の際、親会社も含めて取材拒否という姿勢に、他社の記者から物言いが付いたのを観た人も多いと思います。
市長の考えを明確にするには必然的な質問だったものの、会見場は市長に対する反感ムードが感じられるピリピリしたものでした。
実際、「それはやり過ぎでは?」 といった声もあった様だし、同じ記者という立場的に 「なんでそうなる!」 という心境になった人も多かった様子。
「編集権が全く別であっても、100%株主である親会社が知らぬ存ぜぬは通らない」 という市長の明確な回答に対し、記者はまだ納得出来ない様子でした。
怖いのは、直接取材をする彼らにまず道徳心が欠如していると思われる言動です。
綺麗事では成り立たない仕事なのは一般の人達だってある程度理解はしてるはずですが、編集権を軸に物を考え、本来踏まえるべき当然の理屈がすぐに発想出来ないのは恐ろしい事です。
つまり、彼らは彼らの世界観をルールに物を見て判断しているという事であり、一般常識的なルールなどは稀薄なものでしかないという事。
要は、彼らにとって悪であれば、それが善であろうと悪だと伝えられてしまう訳です。
権力を笠に着た独裁者が橋下氏だと言うのなら、権利を笠に着た独裁組織はメディアだという事になる。
現場記者というのは最もモラリストでなくてはならず、その上で掟破り型破りな手段をも選択肢に入れているべきなんです。
iPS細胞による森口氏の移植治療の件も、事実確認を怠って報道したメディアが勇み足を謝罪する事態がありました。
「悪いのはインチキ野郎の森口だ!」 ってのはもっともながら、確認もロクにせず飛び付くメディアの姿勢ってのは恐ろしいんですよ。
もし、自分の名前と一文字違いの凶悪犯が現れ、ロクに確認もせず、メディア側のミスで自分と同じ名で報道されたら?・・・なんて想像をしてみれば解るはず。
メディアが無駄だとは言わないし、むしろ必要なものだと誰もが認識しているだろうけども、それだけに影響力と責任を常に意識し、独自解釈の正義にのみ基づいた解釈などしない様にすべきなんです。
嫌われ者の記者が居て当たり前にしても、『メディアに睨まれたら最後』 といった見られ方をされない存在にならなければ、メディアに対する信用は無くなり、存在価値すら稀薄なものになるはずです。
ペンが剣よりいくら強くても、受け手ありきの客商売でしかないという事実は変えられないんです。