ニホンゴ ムツカシネ | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


最近、シリアスネタとか書いてないんですよ・・・いや、書いてるけど(どないやねんw)
え~と、下書きとしては書くんだけど、そこである程度書き上げると満足しちゃうんですな。
で、結局は出さずにボツにしてるという。
特に最近はね、地震の事やら原発の事やらだけでもネタは尽きないし、その他にもちょっと憤り系のネタなんかも取り上げてみたんだけど、言いたい事を書いちゃうと、やっぱり自分の中でエンドロールが出てしまうw
で、もうええやんとw

もうね、そのパターンがありすぎて、自分でも何を書いたか覚えてないw
下書きを消してはないんだけど、スクラップ用のフォルダにポイっと入れたら忘れる仕様ですw
で、あまりにも最近そんなのが多すぎるんで、今回はどんな内容になっても絶対にUPする事を前提に書きます。
まぁ、そんなんお前のさじ加減やろって言われたらそれまでですがw


ハィ、そしたら本題。
このネタを取り上げようと思ったのは、Twitter上でのやり取りがきっかけ。
記事タイトルでも解る様に・・・って、解らんかw
今回はですね、言葉のニュアンスなんかについてちょろっと書こうかと思います。
まぁ、ニュアンスだけの話でもないんだけども。

考えてみたらあれだな、地震予知は出来ない方が総体的にはマシとも言えるのかもだよな。
大勢がパニック起こすの目に見えとるし、開き直って犯罪に走るアホも出るだろうし。
じゃあ大勢犠牲になっても良いのかってなると話は別だが。


と、こんなツイートをしたんですよ、俺。
別にいつもいつもこんな内容ばっかりじゃないんだけども、思いついたらくだらん事もシリアスな事も一応は言ってみて、それに対して誰がどうリアクション返すかを想定してたりするんです。
勿論、リアクションが一切無い事も珍しくはないけども、それがTwitterの特徴だったりするんで、それはそれでなるほどなって思うんですがね。

で、俺のツイートに対して、フォロワーの一人から返信が来ました。
ひょっとしたら返信よこすかもなと想定してた中の一人で、俺よりも歳が上の男性の方。
2年ほど前にネット某所で知り合った中の一人です。
直接の面識はないし、それほど深い話をした事のある仲でもない。

どんな返信だったかと言うと、「これだけ地震が頻発してたら、適当に言ったところで当たりそうだな」 というもの。
つまり、石を投げりゃ当たる的な意味ですな。
で、そういう言い方をすると不謹慎になるからスマンという詫びコメントも一言。

まぁ確かに、それを有名人が発言したとなれば炎上する可能性もあるけども、一般人なんでそれほど神経質になるこっちゃないし、その程度で不謹慎と捉えちゃうと、結局は何も言えない風潮の背中を押す事になっちゃうんでね、俺はあえて否定した訳ですよ。

天罰発言しても余裕で再当選する誰かさんが居るんだから、よっぽど極端な発言しなけりゃ不謹慎には当てはまらんでしょw

というフォローでね。
個人名こそ出してないけども、言わずと知れた都知事の事ですよ。

で、それに対しての返信がまた来ました。
内容は、「あの発言は人類に対する天罰という広い解釈のもので、そういう意味合いであれば同意見。 被災者が可哀想というその直後の発言をあえて報道に乗せなかったマスコミの陰謀であろう」 と。

俺もね、あの天罰発言には同じ様な解釈をしてるんです。
都知事がどうのじゃなく、本震で震度6弱の長い揺れを感じてる間も、本棚を支えながら 「あぁ、ついにこの時が来たか」 って思いましたよ、心から。
「この時」 ってのは、都知事流に言うなら天罰の時ですよ。
まぁ、俺は無神論者だし、天罰って言葉に宗教色が強く出てる事を理解してるもんで、「来るべき時が来たな」 って思ったけどもね。

つまり、言ってる意味合いとしては都知事の発言とそれほど変わらないんだけども、言葉というものに対しての向き合い方であるとか、言葉の持つ力については俺の方が遥かに都知事よりも理解してる訳です。
別に、だから石原がアホだとかって事じゃなくてですね、発した力がどこにどう影響するかの計算や想定が余りにも稚拙すぎるのは、立場的にどうなの?と。
天罰発言が 「ざまぁみろ」 という意味を含んでいたとしても、それが被災者に向けたものだとは思いませんよ。
そう捉えたとしたなら、そう捉えた人の頭が悪いか、理解力に乏しいか、あるいは根性が悪いんでしょう。
いずれにしても、その内容自体は問題じゃなくて、それが極めて誤解を招く発言だった事と、立場的に決して口にすべき言葉ではなかった事が問題なんですよね。
例えば、「残酷にも、日本はとうとう自然からしっぺ返しを食らってしまった」 という発言であったなら、同じ様な意味でもあれほど批判は食らわなかったはず。
そういった配慮深い言葉が出ない事が、あの人の本質を表してるだけに嫌われてしまう訳です。

あれ、天罰って言うから宗教観が絡んでおかしな表現になるんであって、単に自然淘汰と言う方が的確なのよね。
人類にとっちゃ大災害であっても、自然界においては極めて自然な事でしかない訳だから。


と、俺はまた返信しました。
すると、「極めて自然な事だけど、淘汰ではないな。 誤解を恐れずに言うならば、自然のタイムライン上の出来事だろうな」 という返信が。
ここで俺はこのテーマについての話題を自分から打ち切りました。
あちらがまだ何かしら続けてきても、俺はもう返事しなかったと思います。
何故なら、あちらのスタンスと俺のスタンスのズレが明確に見えたからです。
まぁ、そこのズレが見えたからこそ、今回の記事はこれで行こうと思ったんだけどもね。

さて、そしたら、あちらと俺とでどこがズレてるのか解りますかね。
きっと都知事には解らないだろうけどw

え~と、まず、あちらのコメントを分析してみると、あくまで天災は自然現象であるって部分に関しては、俺と全く一致した意見なんですよ。
つまり、自然災害によって大被害を被ったとしても、それは自然をフィールドに生きる者として仕方が無い事である・・・という事。
ところが、あちらは俺のコメントに対して 「淘汰ではない」 って言ってますね。
その一点が違うって事は、そこでズレてるんですよ。

淘汰という言葉を辞書で引いてみると・・・

【淘汰】

1. 水で洗ってより分けること。 転じて、不必要なもの、不適当なものを除き去ること。
2. 環境に適応した生物が子孫を残し、他は滅びる現象。 選択。
3. 流水や風による運搬の過程で、堆積物が粒径・形状・比重などに応じて選別される現象。

※ デジタル大辞泉より


とあります。
つまり、あちらの感覚としては、大勢の死傷者や多大な被害が出た事について、「不要な物や不要な人々が取り除かれた訳ではない」 って言いたかったんでしょう。
勿論その通りで、俺も邪魔者や邪魔な物が一掃されたんだとは思っちゃいません。
まぁ、そんな風に考える奴が居たとしたら病気でしょうがね。

さて、そしたら俺の 「自然淘汰」 という表現は間違ってたんでしょうか。
確かにあちらには誤解をさせてしまった様なんで、適切ではなかったって判断する人も多いと思います。
でもね、本来は俺のスタンスが考え方としては正しいんですよ。
いや、正しいって言い方だとまた語弊があるけど、筋としては俺のスタンスって間違ってないんですよ。

天災は自然現象ですよね。
だから、自然の上に社会を作り上げて生活してる我々は、自然の恩恵を受けると同時に、自然の脅威に晒される事もやむを得ない。
言わば必然です。
今回の様な未曾有の大災害も、自然という大きな流れの中では必然的な事になってしまう。
自然が人を殺す為に災害を起こしてる訳じゃないのは誰でも解ると思いますが、結果的にそうなってしまう事から逃れる術は無いんです。
地球は生命体の様に常に活動していて、自然にも絶えず流れがあります。
だから、そこで生きる以上、その流れに取り込まれる様にして失われてしまうものもある訳です。
それが愛する人や家族であったり、自宅や会社、大切な思い出の品であったとしても、決して自然は悪意を持ってそれらを奪う訳じゃない。
その事を知っていたからこそ、昔の人々は神や悪魔という偶像を作り出して、遠慮なく感情をぶつけられる対象とする事で日常の拠り所としていた訳です。
要するに、自然には感情が無いからこそ、神や悪魔が必要とされたんですね。

そうなんです、自然には感情が無いんです。
だから、罪も無い人々を苦しめる結果であろうと、笑顔をもたらす結果であろうと、そこには善意も無ければ悪意も無い。
だから、地震も津波も山火事も台風も、自然界においては単なる流れから派生した一つの事象に過ぎないんです。
それによって失われるものがあるとすれば、それは自然界での淘汰なんです。

地震によって建物が崩れ、津波によって町や人々が流された事実は人類にとって悲しみです。
人類はどうしても基準を人類に置いた上で考えてしまうから、失われたものや生命の大きさに大ダメージを受けてしまうけど、地球や自然の観点で物事を見れば、元々あった自然を壊し、好き勝手に変えてきたのは人類ですよね。
津波が町ごと飲み込んでしまった惨状には涙が出たけど、そこに町を作ったのは人間で、自然のままの環境を残していれば、被害は当たり前に少なくなってたはずです。
勿論、そんなのはちっとも現実的じゃないですよ。
町が無ければ破壊されなかったなんて、生まれなかったら死なずに済んだって言うのと同じなんでね。
けど、元々そこに無かったものを作って、それが自然によって奪われるんであれば、まさしく自然淘汰そのものじゃないですかね。
俺達は人類だから、そこにある物も人も不必要だなんて思わないけど、自然にとってどうなのか、地球にとってどうなのかって事になると、明らかに人類は自然や地球をナメた行為にまで及んでるんですよ。

近代文明を否定なんて出来っこないし、大昔の生活に戻れって言われても無理ですよね。
好き勝手にやってきた人類は、その責任を背負い込み続けて、時々はそのツケを払わされる。
無理と無茶を繰り返して、辻褄を合わせて、誤魔化し誤魔化しやってるのが現実。
人類がここまで調子に乗らなければ、オゾン層は破壊されなかっただろうし、今ほど多くの動植物が絶滅したりもしなかったでしょうな。
俺はね、地球や自然に感情が無くて良かったと思うんです。
もし感情があれば、人類はとうの昔に淘汰されてますよ。
人類が良ければそれで良いという考えを軸にここまで破壊を続けてきた人類ですからね、本当に恐るべきは我々自身なんですよ。

それでも、今回の様な事態は辛い。
淘汰されるべきは人類だと思っていても、人の死は悲しい。
歳食ったせいだけじゃなく、今回ばかりはやたらと泣かされたし、恐らくまだ何度かは泣かされるんでしょう。


まぁとにかく、言葉の言い回しってのは難しいもんで、お互いがどのスタンスで発言してるのかを把握しない事には、必ずズレが生じて火種になるんです。
例として挙げた俺のTwitterの会話みたいに、同じテーマで全く同じ様な意見の事を話してる様でも、実は明確にスタンスが違ったりもする訳です。
あちらは人類視点、俺は自然視点でコメントしたからズレが生じたけど、どっちも間違いではない訳だから、もし言い合いになったりすればかなりタチが悪い。
あ、でも、一つ言うならば、スタンスが違いすぎる発言は出来るだけ挟まない方が良いですな。
今回の例で俺の方が筋として間違ってないってのもその部分の事で、今回は天災が自然現象である事を軸に話してたんで、全て自然側の立場で考えたものを基本にするのが筋なんですね。
そこに人類スタンスの意見や感情論を持ち出してしまうと、どうしたってややこしくなるんですよ。
普通の人にはかなり難しいかも知れないけども、パチッとスイッチを入れたり切ったりするみたいに視点や気持ちの切り替えが出来ないと、なかなか的確な判断ってのは出来ないもんです。
あと、自分の発言にはそれなりの責任を持つ事と、ダメ出し食らったり批判されたとしても、必要以上に落ち込んだり反省したりと感情を動かされ過ぎない事も大事。

とにかく日本語ってのは世界的にも難しい言語で、それと同時に美しい言語でもあるんでね、その魅力とリスクを感じながら使うようにしたら、色々と面白いと思うんですよ、会話も文章も。
俺みたいにマニアックな感じになりすぎてもどうかと思いますがねw