俺はドキュメンタリーとか対談番組が好きってのを以前にちょろっと書きまして、珍しく非常に面白かった 『爆笑問題のニッポンの教養』 もオススメ的に書きました。
で、その他の対談番組だと 『ボクらの時代』 ってのもあります。
フジテレビ系列で日曜の朝7時からやってる番組なんですが、それも結構好きでちょいちょい観てるんです。
先日の回はNHKのゲゲゲの女房の人気を受けてか、漫画家の水木しげる、その妻にしてゲゲゲの女房の著者である武良布枝、マルチな活躍を見せつつも 「結局あんた何屋さん?」 と思わせる怪しげな存在にして妖怪評論家という肩書きも持つ荒俣 宏・・・という三人の対談でした。
まぁ、実質的には荒俣さんが聞き手になって、大御所漫画家夫妻のインタビューをしてるって感じでしたが。
で、そんな対談の中、水木先生が幼少時代に実行した、とある奇行の話に。
妖怪漫画の大御所ともなれば、幼少期から奇行を繰り返してても妙に納得してしまう訳ですが、その水木先生の奇行と言うのは、平たく言えば殺人未遂なんです。
水木しげる少年、当時5、6歳。
ある日、しげる少年は 『死』 というものに興味を抱き、死の研究をしようと思い立ちます。
死とは何ぞや・・・しげる少年は実験の為、当時3歳だった弟の幸夫くんを桟橋から海へドボン・・・突き落としました。
そして、その様子を観察していた訳ですが・・・たまたまそこを通りかかった通行人によって幸夫くんは助け出され、しげる少年の実験は図らずも失敗に終わる訳です。
いやしかし・・・今ならニュースにでも取り上げられそうな話ですw
5歳の子がしでかした事とは言え、殺人未遂には違いない訳で・・・しかも、実際に突き落とす段階までやってますからねw、しげる少年がもう少し計画性の高い子供だったなら、漫画家・水木しげるは存在せず、妖怪はとうにこの世から消えて無くなってたかも知れません。
今の世を見てると、この話はあんまり笑えないものになってますよね。
子殺し、親殺し・・・老いも若きも関係なく、肉親同士での殺人事件はニュースに取り上げられてます。
勿論、昔から事件はあったけども、少し異質な事件ばかりが増えすぎてる感は否めないところ。
5歳のしげる少年は、恐らく純粋に死に興味を持って、純粋に死の実験をしたんでしょう。
それが 『弟殺し』 であるという部分には全く気付かず、ホントに純粋に 「人が死に至る過程を見てみたい」 という衝動に駆られたんだと思います。
5歳だからこそ尚更に。
動物を虐殺したり、人を傷つけた犯人が 「死ぬところを見てみたかった」 と供述する事件が昔に比べると増えました。
見てみたかった・・・確かにそれは本心なのかも知れないけど、水木先生の話の様に5歳児がそう思って実行するのと、物事の分別がついた歳の人間が実行するのとじゃ全然違う訳で・・・結局、5歳児程度の思考能力と判断力しか無い奴がそういった事件を起こすんですね。
水木先生のこのエピソード、弟さんが無事に助けられた事実があるんで笑い話なんですが、一歩間違えれば、笑い話どころかとんでもない事件になってます。
でも、昔はそういうギリギリの話と言うか、『結果的に無事だったから笑い話』 みたいなものって結構多かったんですよね。
恐らく今でもあるんだろうけど、世の中的にそれを笑い話として受け止めてくれなくなってる背景があるんで、話を持ってても話さない人が多いのかも知れません。
俺もそういった世の中になってるのは理解出来るんだけども、でも、そこで笑えない人ってダメな気がするんですよね。
別に大爆笑する話ではないとしても、エピソードとしてはかなり面白いですからね、実際。
そこで話の面白さも感じられず、現実的に考えて危険だなんだって言う人は、人生ってものを何も解ってないんだろうなと・・・多少大袈裟な言い方だけども、俺はそう思っちゃいますね。
言うなれば、水木先生が5歳児の頃に持った死への興味をその時に表現せず、もっと歳を取ってから出してたとしたら、水木先生は単純に殺人犯になってたかも知れないって事です。
やたらと聞き分けの良い子に育てても、その内側にどんなドロドロとしたものがあるかは誰にも見えない。
人間はロボットでもマシンでもないから、どれだけ優秀で聞き分けの良い、手間の掛からない子に育てても、その内側には必ず真っ黒い心も育ってる訳で、大事なのはその黒い心が大きくなり過ぎない様にしてやる事。
自慢の優秀な我が子に、頭をかち割られれば全てがパー。
勝ち組だの負け組だの大騒ぎして必死こいても、そんなものはたった一瞬で消えてしまうって事を、世の中の人達はどれだけ気付いてるんでしょうね。
さて、水木先生のエピソードを聞いて、一つ思い出した話があるんですよ。
俺が去年まで働いてた会社、某団地の清掃業務も請けてたんですね。
外の清掃もあるんですが、ウチの会社は空き家になった部屋の仕事もやってまして、空き家清掃も業務の一つだったんです。
なもんで、特別に決まりがある訳じゃないんですが、清掃員に空き家担当の人達も何人か居たんですよ。
清掃員って言っても、基本的にはいわゆるパート的な扱いで、若い人でも40代後半・・・まぁ、おばちゃん世代の方々とでも言いますかね、そういう人を雇ってたんです。
清掃業務・・・平たく言えば掃除ですけど、さすがにプロですからね、一般の家庭の掃除とはレベルが違う訳です。
元請けの方で空き家の最終確認ってのがあるもんで、 「こんなもんでいいや~」 じゃ済まないんですよ。
そこでダメを食らったら、またその部分やり直さなきゃいけなくなる。
それほど重労働って訳じゃないんですけど、大変と言えば大変なんですよ、給料も信じられないぐらい安い会社でしたからね。
で、そんな空き家担当の清掃員のボスってのがKさん。
ボスって言っても威張るタイプじゃなくて、むしろ大人しい部類の人でね、気が弱い訳じゃないんだけど、自己主張するタイプでもない人でした。
そんなKさん、歳は忘れちゃったけども、恐らく昭和一桁か大正生まれのお婆ちゃんですよ。
ウチの事務所は基本的に高齢者ばっかりの職場だったけど、そんな中でも特に高齢だったのが、外清掃のボスの人とそのKさん。
話を聞いた当時でももう70歳はとっくに超えてたはずだから、俺にしてみればホントに昔話の領域だったんですね。
それだけに面白く聞けた部分もあると思うんですが。
Kさん、出身はどこだか地方の山間部辺り。
まぁ、大昔の事ですからね、都会と言っても今の都会とは全く違う訳で、地方ともなれば尚更に田舎ですよ。
そんな自然に囲まれた土地で生まれ育ったKさんなんですが、Kさんの家は貧乏の子沢山で、両親は勿論、上の兄弟も、まだ幼かったKさんですら出来る事はやらされた・・・つまり、猫の手も借りたい状態ってやつですよね。
家族全員が日々忙しく働いて、それでもギリギリな生活。
それが当たり前の日常だった訳ですよ。
Kさん、当時まだ小さくて、それこそ5歳とか6歳とかですかね、Kさんには自分のすぐ下に乳飲み子の妹が居て、その子の面倒を見るのはKさんの役目だったそうなんです。
面倒を見るって言っても、妹はまだ乳飲み子ですからね、Kさんが子守帯で背負って、その上で家の手伝いやらをしてたらしいんです。
ところが、やっぱり子供だから重労働な訳ですよ。
大人ですら赤ん坊背負って暮らすのは大変でしょうからね、まだまだ子供だったKさんにしてみれば、妹の重さに耐えながら家の手伝いまでするのはよっぽど辛かったんだと思います。
今なら児童虐待だのって騒がれもしますが、当時はそんな子、決して珍しくなかった訳ですよ。
何しろ、裕福な家の子の方が珍しい時代だし、日本の平均値が貧乏でしたからね、その頃は。
第一、それを不満に思ったってしょうがないし、言ったって始まらない訳ですよ。
誰かがやらなきゃいけなくて、手が空いてるのはKさんだけだったんでしょうからね。
Kさんだって幼いながらにそれを解ってるから、言い付かったとおりに妹の面倒を見てた。
でも、やっぱり辛い。
それが日常ですからね、逃げる訳にも行かないし、どうにもならない。
だから尚更に辛い訳ですよ。
ある日Kさん、相変わらず妹を背負いながら手伝いをしてて、ふと思ったそうです。
「あぁ、これ(妹)さえ居なけりゃ、おらぁ、楽になるのになぁ・・・」
どれだけそう考えたかは知る由もありませんが、Kさん、とうとう我慢出来なくなって、幼い妹を背負ったまま、すぐ下の河原まで歩いて行ったそうです。
幼い妹、泣くばっかりで重たくて仕方の無い妹・・・そんな妹をその川に流せば楽になるって考えたんですね。
実際、昔は口減らしなんてのもあったぐらいで、貧乏で子沢山の家はいくら働いても食い扶ちが追いつかないもんだから、我が子を捨てたり殺したりってのは暗黙的にあったんですよね。
楢山節考でも知られる姥捨山、あれも口減らしの為に労働力にならなくなった年寄りを山奥に捨てる話ですから、昔はいかに食うに困る生活をしてる人達が多かったか解る訳ですが、Kさんの場合はそれとはちょっと違いますね。
単純に、幼いKさんにとって 『役立たずの重荷』 でしかない妹を捨ててしまえば楽になるって考えたんでしょう、純粋にね。
さてKさん、子守帯を外して重たい妹を背中から下ろすと、いざ川へ流そうとしたそうなんですが、その寸前、慌てて駆け寄って来た近所の方に止められたそうです。
勿論、妹さんは無事。
どうやら、河原へ向かうKさんをたまたま目にした近所の方が、その様子を不審に思って後を追って来てたらしいんですね。
まさかとは思いつつも様子を窺ってると、Kさんが河原で子守帯を外し出したんで 「こりゃいけない!」 と慌てたんでしょうね。
その時のKさんはきっと心から残念に思ったんでしょうが、そこで止められて良かった訳ですよね、結果的に。
この話、空き家で仕事の休憩時間に聞かせて貰ったんですよ。
俺はもう大笑いしましてね、今なら絶対ってぐらい無い話だし、その背景が解るだけに納得すると言うかな、良く出来た話って言うと実話だから変だけど、面白い話だな~と思って。
水木先生の話を聞いて、ふと思い出したんですよね。
御年88歳の水木先生、ここ最近になって水木作品が妙に取り上げられてるんで、そろそろヤバいのかな~なんて思ってたけど、こないだの番組を見る限りじゃとんでもない。
めちゃめちゃ元気・・・はちょっと言いすぎにしても、相変わらずの妖怪ぶりを発揮してて安心しました。
実は俺、昔から結構な漫画好きでして、水木先生は好きな漫画家の中でも別格的に好きなんですよ。
ゲゲゲの鬼太郎、河童の三平、悪魔くんの三大代表作は愛蔵版を揃えてて、それ以外のも何冊か持ってます。
鬼太郎の愛蔵版は当時の家から少し離れた本屋でたまたま見つけて、まとめ買い出来る程の金が無かったもんで、1冊とか2冊とか、何度も通って全巻揃えましてね、全部揃えた時は妙に嬉しかったのを覚えてます。
さすがに全部読むのはひと苦労でしたけどね。
ボクらの時代の話に戻りますが、水木先生が幸福論を少し語ってまして、ちょっとした名言とも言える様なコメントをしてるんです。
「結局、毎日毎日の平凡な生活ってのが幸福じゃないですかね。 だから、毎日の生活の中に無いものを求める必要はないから・・・。 幸福のその値段をちょっとこう下げれば良い訳ですよ。 そうすれば、みんな幸福な感じになる。 だから、あんまり高いトコ置くと、やっぱり幸福な人は減るんじゃないですかね。」
俺が特に尊敬する人達、敬愛する方々ってのは、どこかしら考えや価値観に自分との類似点があったりするんだけども、肝心なのはその内容よりも表現力なんですね。
水木先生の 「幸福の値段」 ってのも実にシビレる言い回し。
上を見すぎるから今現在が低く映ってしまうってのは、特に優秀な人なんかじゃなくても言えるし言ってるんですよ。
でも、それをどう言うかってのは人それぞれのセンス如何。
俺の好きな人達は、そこでグッと来る表現をしてくれるから素晴らしい。
ともあれ、水木先生曰く 「無事に呼吸してれば幸せと思うべきですよ」 だそうです。
それに対して 「そりゃあ低いですね、随分」 って荒俣さんは笑ってました。
いわゆる世間的には 『ダメな奴』 だった水木先生は、戦争に駆り出されてもダメな奴で、戦地で左腕を失くしてもまだダメな奴のまま。
でも、それは水木先生が頑なにマイペースを譲らなかっただけの事で、そこにダメだなんだと烙印を押す方が乱暴な話なんですよ。
水木先生は過酷な戦地での生活に耐え抜き、ただ呼吸していられる事にも幸せがあると気付いた。
それに気付いた水木先生は、ダメな奴どころか素晴らしい人間だと俺は思いますね。
世間がどうの、周りがどうのと寄ってたかって言ったって、そんなものは全く根拠が無いって事ですよ。
まぁ、要するに何が言いたいのかって言うと、狭っこい世界しか知りもしない小僧や小娘どもが、全部分かった様なツラをしてたりすんのが気に入らないって話なんですけどね。
まだロクに世の中も知らない若い子達は勿論、メンタル面にトラブルを抱えてる人達の一部にも言える事なんだけど、とにかくね、自分ってもんを買い被りすぎ。
「私はダメ人間だー」 とかマイナス思考な発言をしてても、傍から冷静に見てるとそうじゃないんだな。
単に自分に対してのハードルを上げすぎてるだけで、それが高すぎるから飛び越えられない自分に腹を立てたりイラ立ったりしてる訳ですよ。
そんなもんは単なる甘ったれに過ぎなくて、根拠も無いクセに 「自分はもっとちゃんと出来るはず」 って核心の部分で思い込んでるだけなんです。
まぁ、その根拠もない確信を持ってしまうところが病気たる所以なんですがね。
若い子なんかも同じじゃないですか。
権力も何もまだ無いクセに、プライドばっかり高くて 「ホントは自分って凄い」 ぐらいに思い込んでる。
だから、挫折をすれば挫折した自分を否定する事に全力を注ぐし、場合によっては他人を侮辱したり傷つけたりする事で自分の力を誇示しようとする。
自殺なんかする連中の多くも、単にいじめが辛いとかって部分だけで死んでるんじゃないですよ、あれ。
根本は同じで、やっぱりどっかで 「自分は凄いはずだ」 って思い込んでるもんだから、辛い現実に晒されてる自分を否定する訳ですよ、「自分に限ってこんなはずはない」 と。
でも現実は変わらないし、下手すれば一層悪化してどうにも耐え難いものになる。
だから死ぬ事で脱出を図るんですよ、外からのプレッシャーと自己生成したプレッシャーから。
勿論、どの例も全てが全てじゃないでしょうがね。
結局、水木先生の言う 「幸福の値段をちょっと下げれば良い」 と同じ理屈で、自分の中の設定レベルを下げてやればいいだけなんです。
「ダメで良いじゃん」 と、ある種の開き直りにも似たところまで到達すれば、現実は変わらずともずっと楽になりますからね。
ただ、それは似てるだけで開き直りとはまた別モノですけど。
まぁ、それを簡単にこなせたら苦労はしないんだけども、結局は出口ってそこしかないんですよ。
迷い迷った末に辿り着くのがそこしかないんだから、根拠の無い自信なんかとっとと捨てて、等身大の自分を知りなさいと・・・己の分を弁えろって事ですね。
だって、真っ暗な迷路をサングラスして歩くのは愚の骨頂じゃないですか。
そんなもん取っちまえって、誰だって思うんじゃないですかね。
俺が言ってるのは単にそういう事なんですよ。
貧乏暮らしが長かったKさん、庶民的な食い物でもちょっと高いものともなれば口にするのを嫌がってました。
「おら、そんなもの食った事ねぇもの」 と。
そんなKさんの好物は、とにかく甘いもの。
昼休みになると、Kさんは毎日自分で作ってきた昼メシを食ってたんですが、それはいつも決まって砂糖を具にしたおにぎり一つ。
飲み物はお茶か、千葉の定番で激甘ドリンクのマックスコーヒー。
砂糖のおにぎりなんて他じゃ聞いた事もないし、しかも具として入れてるなんて尚更珍しいけど、Kさんはそれが好きで、恐らくはそれがKさんの幸せだったんだと思うんです。
貧乏育ちだったから、自力で稼げる様になっても派手に使ったりはしなかったらしく、きっと貯めるでもなく貯まった小金は大金の額まで膨れ上がってたはずです。
ところが、Kさんの娘はロクでもない男とくっ付いて、Kさんの金を湯水の如く使ったそうな。
ウソかホントか、その額は数千万とかなんとか。
でも、当のKさんはさほど困った様子も無く、それどころか自分の内縁の夫にまで金を使われ倒してる始末。
貧乏がその身に染み付きすぎて、金なんかほとんど必要としない生活が標準になってたんでしょうね。
だからKさんは、そういった話を聞いて注意喚起する周りよりもよっぽど冷静だったし、俺らが思ってるほど不幸とかを感じちゃいなかったんじゃないかなと思うんです。
ひょっとしたら、人間はハードルを下げれば下げるほど不幸を遠ざける事が出来たりするのかも知れませんね。
それに気付いても、一度上げてしまったハードルを下げるのは難しい。
だから、いちいち喜怒哀楽を演じて、幸せだの不幸だのと大騒ぎしながら生きてる訳ですが・・・人間ってのはつくづく滑稽な生き物だなと。
犬が自分の尻尾を追いかけてグルグルと回ってたらマヌケで笑っちゃうけども、人間ってのもあれと大差ない事をし続けてるだけかも知れませんね。