ブライト&ミー | weblog -α-

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なんとな~く  思いつきで  好き勝手に  (=゚ρ゚=) ボヘー  っとやってます。


さて、久々の猫ネタ。
前回は俺が一番思い入れのある猫『タイガー』について書いたんで、今回はその頃に居た二人の猫の事を少し。


まずはブライト(♂)の事。

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手前がブライト。奥はタイガー。

ブライトもタイガーと同様に元野良のオス猫。
名付けたのは俺。
白黒の猫だったもんで「ブラック」と「ホワイト」の組み合わせで『ブライト』と。
安直だけどもね、ガキの頃の発想だからw

そんなブライトは元々それほど人懐こい子でもなくて、むしろ愛想の無い方だった。
大人になって発情する様になると、オス同士だけにタイガーとの確執も生じて、尚更に愛想が無くなった。
でも、そんなブライトも今同居してる姉貴(以下、姉B)にだけは懐いてて、暗黙の決め事としてブライトの担当は姉Bになった。

当時、姉貴Bが付き合ってた彼氏は横浜に住んでて、年頃だった姉貴は泊りがけで彼氏の家へ行く機会が増えていた。
そんな時、ブライトは寂しそうに姉貴の帰りを待っていて、姉貴が戻ると当たり前の様に甘えていた。
でも、ある時期から姉貴がなかなか戻らなくなり、一週間や二週間近くも待ちぼうけを食らう様になったブライトは、ふて腐れた様に家から姿を消す事が多くなった。
それでもエサだけは食いに戻ってたけど、タイガーとのケンカを避ける様に、食うだけ食ったら早々にどこかへと姿を消した。
さすがに可哀想で俺も撫でてやったりはしてたものの、ブライトは「お情けは要らない」とばかりの態度だった。
あいつにしてみれば、唯一信頼の出来る相手だった姉貴に裏切られた様な気持ちだったんじゃないかと思う。

そんな日々が続くと、姉貴が戻ってもブライトが姿を現す機会は減った。
そして、やがてブライトは半年に一度ほどしか戻らなくなり、もはやウチの飼い猫とは呼べなくなっていった。
まぁ、少し離れた場所で親父が見かけたりはしてたんで、恐らくそっちの方でエサをくれる人を見つけたんだと思う。
ホントに可哀想だったとは思うけど、去勢もしてないオス同士を同じ場所で飼う以上、そういった結果は避けられない事でもあった。

ブライトはそれから、忘れた頃になって何度かウチに顔を出したけど、半分は野良の様な生活をしてる様子で、人に対しての警戒心も強くなっていた。
逃げようとするあいつに「ブライト!」って呼びかけると、ブライトはフッと思い出した様に足を止め、こちらを怪訝そうな顔でしばらく見つめ、そしてまた「自分の場所」へと帰って行った。

ブライトの事を思い出すと、申し訳無さでなんだか切なくなる。
あいつがどんな気持ちでウチから離れてったのか・・・きっと物凄く寂しかったんだろうな・・・と。



次はミー(♀)の事。

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左がミー。右がタイガー。

ブライトが戻らなくなってしばらくした頃、親父がメスの子猫を貰ってきた。
白地に薄くトラ柄の入った綺麗な子で、ミーミーとよく鳴いた。
その鳴き声からベタながらも『ミー』と名付けた。

ミーは子猫でもあったし、メスだった事もあってタイガーもすぐに受け入れてくれた。
数ヶ月もするとミーはすっかり大きくなり、綺麗で毛並みの良い美人猫になった。
でも、それから少しして、ミーは悲しい最期を遂げる事となる。

その日、親父は自衛隊の演習に行っていて、俺が留守番をしていた。
姉貴はすぐ隣に住んでたけど、仕事やらデートやらでほとんどおらず、実質的には俺一人だった。
親父が演習に出掛ける直前、ミーが外へ遊びに出たまま戻らず、どこを探しても見つからなかった。
呼びかけても姿を現さないんで、これはひょっとしたら誰かに連れて行かれたんじゃないかとも話していた。
けど、簡単に出来る事は一通りしたし、外猫は気まぐれに数日戻らない事だってあるから、とりあえずは帰りを待つ事にした。
当然、連れて行かれたんでなければ、すぐに戻って来るだろうと楽観視しながら。

親父が演習に出発して二日目だか三日目の昼過ぎ、俺は相変わらずミーを探して家の周りをウロウロとしていた。
しかし、どこを見てもミーの姿は無く、本当に連れて行かれた可能性を考えて怒りすら覚えていた。
けど、真相はそうじゃなかった。

ウチのすぐ後ろにある家と、そのすぐ隣の家の境目の所に細長い木があった。
その木は隣り合った二本の幹を密接させながら伸びていて、それは例えるなら髪留めのピンの様な感じ。
そして、密接した二本の幹の中ほどには、数日前からスーパーのビニール袋が挟まっていた。
いや、正確には挟まっている様に見えた。
俺はそれが妙に気に掛かり、歩み寄ってそのビニール袋を掴んだ。
そして、そこにすっかり冷たくなったミーの亡骸を見つけた。

まだ子供だったミーは、恐らく多くの子猫がそうする様に、遊びのつもりでその木に登ったんだろう。
あるいは、誰かや何かに驚いて咄嗟にそこにある木に登ったのかも知れない。
いずれにしてもミーはその木から上手く下りられず、二本の幹の間に身体を挟み取られてしまった。
動物の事だから、恐ろしさと苦しさで精一杯もがいたに違いない。
けれど、それが逆に自分の身体を深く苦しめる事になり、やがて息絶える結果になってしまったんだろう。

俺はショックで言葉も出ず、急いでミーを二本の幹から助け出そうとしたが、その身体は冷たく、硬直して微塵も動きはしなかった。
死後数日は経っていたんだろうと思う。
それにしても、誰がビニール袋なんかを・・・。
ビニール袋が無くてもミーは既に死んでいたかも知れないが、それにしたって酷い話だ。
たまたま俺がそのビニールを気にしたから遺体を見つけられたが、もしそうしなかったらどうなっていた事か。

動物嫌いな人は世の中に沢山居るし、好きだとしたって死体に触ろうと思う人は少ないだろう。
けど、明らかにそれが苦しんだ結果だと解る姿だとしたら、恐らく死をあまり理解してない子供だってそのままにするのは可哀想だと思うだろう。
結局、誰がそんな事をしたのかは解らないままだし、仮に解ったところでミーの死が事実なのは変わらない事だが、俺はあの子の遺体をすぐに見つけてやれなかった事を今でも後悔してる。
仕方無い事なのは解ってるけど、俺はミーの為にもあの事を一生後悔し続けるつもりだ。

ミーを家に連れ帰ると、俺は一人で泣き続けた。
まだ子猫で、まだまだ死ぬには早すぎるミーに対しての罪悪感が止まらなかった。
そして、俺はたまらず演習中の親父に報告の電話を入れた。
それから、後にタイガーを埋葬する事になるのと同じ庭の一角に穴を掘り、そこにミーの亡骸を埋葬した。

物心がついた時には猫が居て、それからもずっと猫の居る生活をしてきたから、事故や病気で悲しい別れをする事になった猫は沢山居る。
正直、もう名前すら思い出せない子達も居るほどだ。
だから猫の死に対してもそれなりの免疫はあったが、ミーの死はそんな中でも特にショックが大きかった。
だから、俺はミーの事を誰かに話すのは極力避けてきたし、今後もあまり話したりはしないと思う。
タイガーの話をするのとは全く違う悲しさがあるからだ。


家猫と外猫の話になると、今時は当たり前に家猫が多く、むしろ「外に出すなんて責任感が無さ過ぎる!」と憤慨する人達もいる。
けど、俺はそういった人達の勘違いこそ恐ろしいと思う。
猫に限らずだが、ペットはあくまで人間の勝手な都合でペットにしているだけの事。
どれだけ飼い慣らされたところで、彼らは人間の様に野性を捨てて生きる事は出来ない存在だ。
しつけをすれば言う事を聞くかも知れないが、それだって彼らなりの生存本能がそうさせてるだけの事。
人間の子が物を覚えるのとは本質的に違うって事を知らなければいけない。
動物がどんな従順なペットになったとしても、それは単純に「その環境で生きる為」でしかない。

ミーの死は、確かに家猫として飼っていたら絶対に避けられた事だ。
でも、当時の家は古い一軒家で、引き戸なんかは猫でも簡単に開けられる様なものだった。
それに、日本では猫や犬は昔から室内で飼う方が珍しい事で、それはなにもモラルが無かったからではない。
動物は出来るだけ本来の姿に近い生活をさせるべきだという認識が昔は当たり前にあって、広いエリアで伸び伸びと生きる動物を、狭い家の中に押し込めてしまう事の方がよっぽど酷い事だとほとんどの人達が思っていた。
いや、家猫や室内犬が当たり前になった今だってそれは同じ事。
時代背景や病気への配慮から室内飼いこそが妥当だとされているけど、動物達にしてみればそんな理屈は全く関係無い。
そもそも彼らは病気や怪我を恐れてもいないし、死ぬ事だって恐れていない。
痛みや苦しみ、そして死は彼らにとって極めて自然なもので、それらを受け入れる事が動物にとっては「生きる」という事。
だから苦しんでいても放って置けばいいって事ではないけども、何もかもを人間の都合で支配してしまうとすれば、それは「動物を飼っている」のではなく「生きた人形を持っている」だけに過ぎない。
それがいわゆる「愛情」だと言うのであれば、そんな人間はすぐにでもこの社会から抹殺されるべきだろう。

ミーの死に責任を感じているのは、あの子を外猫にしていたからじゃない。
家猫なら死なずに済んだとしても、あの子が外の世界を望んでいたのは本能的に当然の事。
だから、最期がどうだったとしても、あの子が本来の猫として生活出来たのは良かったんだと思う。
もしミーの死を外猫にしてたせいだとしてしまったら、同じく外猫として天寿を全うしたタイガーは何故死なずにいたのかって事になる。

結局、死に人間も猫も無く、命あるものにとっては全く同じ条件だという事だ。
生きる者はどれだけ憎まれようとも生き、死ぬ者はどれだけ愛されていても死ぬ。
どんな不幸の傍らにも、どんな幸福の傍らにも、死はいつだって隣り合っている。
だから今生きている瞬間瞬間に、意味や意義ってもんが生まれる訳だ。

動物達は人間ほど万能じゃないけど、人間よりもずっと尊い存在だという事は忘れるべきじゃない。
何故なら彼らは野性と共に存在しているから。
生き物として弱く、劣っているのは人間の方だという事を忘れると、愛情を履き違えた人々ばかりが増えたこういう世の中になるって事だ。

残念ながら、俺はどれだけ頑張っても人間を好きだと言い切れる様にはなれずにいて、極端な話、人間の死よりも動物達の死に感情を動かされる。
別に人間を極端に嫌ってる訳でもないけど、全くの素で人間と接する事はきっと出来ないと思う。
社会的、世間的には俺なんて変わり者でしかないけど、出来るだけ人間という動物として生きて、人間という動物として死にたい。
そしたら少しは、死んでいった猫達に顔向けが出来るんじゃないかと思ってね。